ポドリア紀行

  失われたシュテットル、

ユダヤ人町の跡を尋ねる

〜 旧ロシア帝国、ウクライナにあった妻のルーツ 〜

山口法美 

©Copyright 2001-2005, Norimi Gosei Yamaguchi, All rights reserved.

本頁に掲載されました記事の版権は山口法美の所有物です。

無断にて一部或は全文の転載を禁じます。著者の連絡先は下記のとうり。

Norimi Gosei Yamaguchi

187 Monte Carlo Way, Danville, California  94506  USA

E-Mail: nhyamp@pervin.net

パービン家に残された一葉の記念写真

上の写真は1932年撮影のパスオーバー「過ぎ越しの祭り」を祝った晩餐会といわれる。正面の主人夫妻は、左がジェニー、右がレイブ。ジェニーの左から、レオンとクララ夫妻、ジョセフとバーさー夫妻、手前がその娘、バニース。正面レイブの右に、マックスとゴルダ夫妻、ゴルダの母、ソフィア、マックスの3人息子、モウリス(次男)、シーモア(長男)、リチャード(三男)。

 

 

 

American Family Immigration History Center 

いらっしゃいませ !!!

登乗船者名サーチ

 西暦1892年から1924年の間に、2千2百万人余を上まわる移民、渡航者、並びに船員がニューヨーク港の エリス島を経由、到着しました。これらのパッセンジャーの渡航に携わった船会社がそれぞれ記録、保管してきた登乗船者の詳細なリストを「シップ.マニフェスト」と呼びます。 この度、The Church of Jesus Christ of Latter-day Saint による篤志のバランチアにより、これらの「シップ.マニフェスト」が電子公文書で、コンピューターに転写、一般に公開されました。誰でも乗船者名の探索に興味のある方が簡単にお探しになる事ができます。上記の「登乗船者名サーチ」をクリックしてください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

巻頭に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イントロダクション

 

〜 エリスアイランドのウェブサイトから 〜

パービン家系図の登場まで 

2001年は春の出来事である。上に転載したウェブ·サイトが北米のネットに登場した。Genealogist (系図学者)、ルーツ探索、愛好者を自認するものはもちろん、一般家庭の家族員を含めて、それぞれがコンピューターのある部屋に集い、我が家のルーツを確認して熱狂した。アメリカは人種の坩堝、200年の年月を遡るだけで、国民の全てが移民人の末裔である。もちろんアメリカ·インヂアンと呼ばれた原住民を除いての話である。いずれの家も源をたどれば外国人だという事は、その姓は言うに及ばず、家族の日常の言葉から食事、礼儀、作法に到るまで、全てその家族が引き継いだカルチャーを代表しているということ。当然いずれの家庭にあっても、その出身地、宗教、言語のアイデンテチーを認識、家族を代表するものは自分の出身の知識を豊富に記憶しておく事を持って、身だしなみとする。だが家庭によっては、特殊な事情によって、過去の記録に疎い所もある。 自分の過去を証明する公式な記録を、時に触れ、折りに触れ探し求める事になる。 American Family Immigration History Center による 1世紀前の旧い記録を公開したサイトが巷の家庭に大変な旋風をもたらせた所以である。

今ぼくが「山口」の姓を持つ日本人がどのくらい、アメリカに移民してきたのか興味を持ったとする。上のウェッブサイトを利用すれば、簡単である。登乗船者名サーチをクリックして、ellisisland.org のサイトのホーム·ページに用意された Search Immigration Records のサーチ用紙の、 Last Name に Yamaguchi とタイプするだけでよい。First Name はそのまま空白にして、サーチのボタンをクリックする。10秒もかからぬ間に159人の山口姓の日本人が1892年から1924年までの間にエリス島に入港したというリストが示される。First Name を調べてこれぞと思われる山口某をクリックすれば、その人が何時、何処から、どの船に乗って入国したのか、又付き添いの家族が居た場合、全員の名前まで探し出す事が可能なのだ。口承で伝えられてきたご先祖の名前を、公式に残された記録の中に発見する事は意義あることである。因みに、コンピューターに転写されたといわれる「シップ·マニフェスト」というのは、船長が保管した乗船者名簿の事、厚い大形ノートブックに乗船者の出身地、年齢、行き先の住所、など詳細に記入されていた。同エリス島のウェブサイトではマニフェストの写しを記念に欲しい人の為に注文も受け付けている。

ぼくの妻、Heidi は Ohio 州 トレイド市で生まれたロシア系のユダヤ人である。母親はロンドン生まれの英国人、第二次世界大戦中、ロンドンに駐屯していた妻の父親と国際結婚したのだが、その父親の方の系図が良くわかっていなかった。口承によると、彼の父親、即ちHeidi の祖父は15歳の時ロシアから単身、渡米してきたことは語り継がれていたが、正確な年月、船名、出身地名は不明であった。渡米後は Max Pervin の名前で呼ばれた。Max には7年遅れて渡米してきた Joseph Pervin 、八つ年下の弟がいた。Joseph の渡米の年月日、出身地名も明らかでなかった。妻とぼくが初めにしたことは、当然、Max と Joseph の名前を ellisisland.org のサイトでさがすことだった。上記で紹介したとうり、Last Name に Pervin をタイプして、サーチをクリックしてみたところ、9人の Pervin 姓の乗船者名簿が表示された。そのうち二人がロシアから入国しているのだが一人は女性、後の男性は名前も年も違い Max とも Joseph でも有り得なかった。結局、二人とも Pervin の姓で入国していなかった事になる。これは後で知ったことではあるが、当時の米国、移民局の役人は、入国してくる外国名の移民者の本名を正確に記録する事ができず、(つまり正確に聞き取り、書き込むことができず)、適当に英語の姓名に書き直した例が沢山あると言うことだった。それはそうだろう、仮に日本人が外国籍の人たちの名前を聞き取って、カナにして書き込めば、本名とは区別の付けようもない、名前になった事と同じ話である。

話が少し本道から外れるが、ぼくは高校と大学を芝、白金にある「明治学院」で学んだ。同学院は、ミッシヨン スクールで 例のヘボン式ローマ字を編纂した、ヘボン博士の創立である。例えばこのヘボン博士の姓である。本来のスペルは英文でなんと書かれたのか。お分かりになるだろうか。ぼくには、全く見当がつかなかった。Hepburn だったのである。今の日本人なら「ヘップバーン」と書くはずである。あの「ローマの休日」の女優、オードリ·ヘップバーン や、「アフリカン·クイーン」のキャサリーン·ヘップバーンも同じ姓である。小麦粉をメリケン粉といった時代があった。メリケン粉のメリケンが American だと気がついたのは、ぼくが渡米してからである。メリケン波止場のメリケンも同じで、American Harbour だろう。同じ事がアメリカ人の役人にも言える。Pervin は英語で「パービン」だろうが、ロシア語で「パービン」と発音されたとは先ず思えない。ぼくと妻は Pervin をいろいろアルファベットを換えて探してみたが、Max と Joseph はとうとう見つからなかった。

運が良かったのは、Max と Joseph の両親二人とほか3人の兄弟、姉妹が後年移民してきている事実だった。特に Heidi が 「べラ 叔母さん」 と呼んでなついていた Heidi の父親の叔母に当たる女性が、Heidi を我が孫のように可愛がり、折りに触れ、時に触れ、昔話をしていたという。それによると、彼女達がエリス島に入港した時、移民局の役員は彼女の家族を「パーバック」と呼んだという。そこで、ぼくらは Max と Joseph を諦めて、べラと彼女の兄妹、それとべラの両親の移民の記録を探す事にした。困ったのは「パーバック」が、どんなスペルだったのかである。Pervak, Perveck, Pervack, Pervac 等いくらでも有るのを、思いつくまま試してみたが、うまくいかなかった。そして夏が来た。妻と息子のアーロンは西ヨーロッパにバケーション出かけ、ぼくは一人で留守番の役を言い付かり、エリス島のサイトと取り組んでいた。わずか32年間に2千万人の移民がニューヨーク湾港に上陸しているのである。いかにコンピューター化されたとはいえ、姓名も分からない5人のロシア人を2千万人のリストから探す事は容易な事ではなかった。しかし運は思いもかけぬところで開かれるものである。ある暑い夏の夜、疲れた眼を休めるために、ぼくはステレオのボリュームを全開にして、リビングルームでワーグナーのオペラに聞き入っていた。癖になっていたパーバックのスペリングを頭に浮かべながらである。ワーグナーは、Wagner と書き バァーグナーと発音する。ドイツ語はW が V と倒置するからである、と考えながら、、、ふと Pervak を Perwak とかいても 「パーバック」になる事に気がつぃた。まともな固有名詞になる。まさかとは思ってみたが、東ヨーロッパの諸国は言語学的にドイツ語の影響が少なからずある事を考え合わせて、エリス島のサイトで確かめてみる価値があると思った。不思議な話だが、キーボードを叩く自分の指が震えるのを意識した。予感である。間違いないという確信があった。確信に間違いはなかった。PCのモニターに12人の Perwak 姓の名前が表示されたのだ。一番上の Beila Perwak は間違いなく、Heidi の 「べラ 叔母さん」である。ニューヨーク湾に入港したのは1923年9月6日、出身地は ロシア国 Litiu 市となっている。到着の日と、出身地を見ると、べラと同じ日に同じ所から来た Perwak が計5人いた。下記のとうりである。

パーバック姓 5人のシップマニフェスト

 パッセンジャー名

  先住地  

到着日 

年齢

 1)   Beila Perwak  

Litiu, Russia  

09-06-1923

22

 2)   Dwoire Perwak 

Litiu, Russia  

09-06-1923

20

 3)   Leissa Perwak 

Litiu, Russia  

09-06-1923

58

 4)  Liber Perwak    

Litiu, Russia  

09-06-1923

 28

 5)   Scheindle Perwak

Litiu, Russia  

09-06-1923

54

 

後は簡単だった。年齢を見比べて、58歳の Leissa Perwak が 父親、54歳の Scheindle Perwak は母親、Beila Perwak が上の娘で Dwoire Perwak は下の娘、Liber Perwakは息子、到着日の月日と同日の年齢を計算して、Liber Perwak は Max Pervinの弟、Joseph Pervin の兄であるべき筈だ。

ぼくは興奮した。早速、同サイトのリンクをクリックして、5人の「シップ マネフィスト」を開けた。登乗船者名簿は1ページ(左半分)2ページ(右半分)にまたがっている。1ページによると、乗船の船名は "SS FINLAND" 、ドイツ領港 Hamburg を1923年8月25日に出港したこと、乗船者の姓名、性別、年齢、家族員との続柄、国籍、言語、宗教、出身地名が詳細に記入され、2ページには渡米後に予定された寄留先、出生地および渡米以前に住んでいた町の名前等が記録されてあった。それによると、5人の寄留先はOhio 州、Toledo 市にいる Joseph Perwin 宅、間違いなく、Max の弟である。ぼくは夢中になって、Heidi の親戚達にメールを打った。Joseph には一人娘の Bernie、現在80歳に手の届く高齢では有るが、 Heidi の父親と伯父の従妹に当たる女性がいた。バーニーの話では、彼女の父, Josephが常日頃、語っていたところによると、彼の両親と兄妹の5人をロシアから呼び寄せたのは、実は 「俺だったんだ!」と、口癖にしていたという。今それが証明された事になる。バーニーもまた驚喜した。何処の家族も同じものである、つまらない事を自慢しているのではない。家庭内の機敏な事情が読み取れる興味深い自慢話しではある。

ここで暫く、Heidi が子供の頃から親しんできた、彼女のおじいさん、おばあさん、叔母さん、伯父さんの実名を紹介しておかなければなるまい。エリス島ウェッブサイトに発見された姓名は、なるほど Heidi の親族では有るが、姓名の spelling からでは、他人としてしか見えない。「べラ叔母さん」はその中でももっとも実名に近い。Beila の i は l の間違いだろう。i をl に書き直せば Bella - べラになる。難しいのは 次女の Dwoire である。W を Vと発音すべきならば 「ドバー」 ロシア語の数字 2 である。二番目の娘で文字どうり、次女であるから、Dwore は実名だった可能性はある。しかし彼女は渡米後、Dora あるいはDoris の名で親しまれている。ひいおじいさんは、明らかに、船中での書き間違いである。Leissa はイエデシュの名前として例がない。「レイブ」が本名である。この時代のユダヤ人はヘブライ語とイエデシュのふたつ名前があった例が多い。Leib は Yahuda とも呼ばれた、イエデッシュの名で知られていた。複雑なのが、leib の息子 Liber である。仮にMax が長男だったならば、Liber は次男であるが、終生 レオンの名前で呼ばれてきた。Liber が 何故 Leon に変わったのか謎である。Leib Yahuda の妻 Shandell はJenny Rosa のヘブライ語名だった。

ぼくの興味を引いたのは、これら5人が全て Litiu という町から来たというこである。更に注意したのはShandell を除いて全ての家族人の出生地がBagniewzy と記入されてる事だ。発音しようがないが、ここでは無理に「バグニエビチ」とでも読んで置く。Shandell の出生地は因みに Sonagrodである。Litiu と書かれた「リチュウ」の名はスラブ地方圏の地図を開いて探したものの、わずか三つの都市、Republic of Belarus に位置した、Lody, Lida, Lidka しかなかった。それではルーツはべララス共和国に有るのか。ぼくは迷った。何かすっきりしないのである。過去に「白ロシア」の名前で知られたべララスはモスクワの西400キロ、確かにリスエニアと並んでロシア系ユダヤ人の故郷である。ぼくは念のためにべララスの首都、ミンスクにある「東欧ユダヤ人協会」に連絡、上の3っの町以外にリチュの名前に心当たりがないか、電子メールを送ってみた。二日後、2001年8月15日、同協会の代表者フランクリン J.シュワーツ氏から大変丁寧な返事が来た。翻訳して転載してみる。

ルーツはべララス共和国にあるのか ?

  「お問い合わせの都市名はおそらくミンスクの西約16キロにある Litiva を指しているかと思います。 同市は長年、多くの宗教団体が平和の内に互助共存されてきたことで知られております。 ミンスク近郷には pogrom の災害は、過去100年起こっておりません、、、、、

 

 

巻頭に戻る

Pogrom というのはコザックあるい地元の住民による、ユダヤ人迫害の暴行である。ナチス ドイツによるユダヤ人虐殺は歴史上に残された局部的な例でしかない。歴史を遡れば、これにも勝る大迫害をユダヤ人民は蒙っているのである。pogrom もその一つである。かつての旧ロシア帝国内に起こったpogrom の犠牲者はナチス ドイツのそれに匹敵するほどの犠牲者を出したといわれている。Heidi は彼女の曾おじいさん達が移民を決意した第一の理由は、彼らの村がコサックのpogrom に襲われたためだった事をおぼえていたので、「その街の近くに大規模なpogrom が有ったかどうか」 問い合わせておいた故の返答である。これでどうやらLitiu はミンスクの近郷ではなかった事が確認できた。

 ぼくは親切なシュワーツ氏の応対に気を良くして、今ひとつミンスクにある「べララス人の系図」という団体にメールしてみた。Perwak という姓がべララス共和国にあるかどうかにつぃてである。この返事も2日もたたなかった。同団体の団長、ブラデミル ボークンのメールである。

 

 

 

 

頭に戻る

  ルーツの所在地はキエフの西南

「Perwak という姓はべララスとウクライナにあります。どちらかといえば、べララス よりはウクライナに多い姓でしょう。この姓には 第一、、、 あるいは 最初の、、、という意味があります。 それほど知られた姓ではありません。わたしが調べた限り ミンスク市にただ一人、Perwak の姓が電話調に乗っております。(ミンスクは べララス共和国の首都で150万人の人口です) 電話をかけてPerwak を名乗る女性と話してみたところ、彼女のおじいさんが、第二次戦後、ウクライナからきたそうです。  、、、 [中略] Litiu という名の場所はべララスにはありません。しかしわたしが調べたところによると、Litin という小さな町が、ウクライナ共和国べネチャ県にあります、、後略。

 

 

 ぼくは読みながら、頭にカット血が上ってくるのを感じた。間違いない。ルーツはべララスではなくウクライナ共和国に有ったのだ。ウクライナはべララスの真南に位置し、その首都キエフの西南一帯がユダヤ人部落の集落地(Pale of Settlement)である。[屋根上のバイオリン弾き] Fiddler on the Roofの原作,Tevye the Dairyman を書いた シャロム · アレイへム Sholom Aleichem もこの地で生まれ育っている。因みに三人のユダヤ人娘の話を映画化した同名の映画は、この土地、一名ポドリアと呼ばれる旧ロシア帝国の県名で知られる土地の物語である。ぼくは急いでレイブ · パーバックのマニフェストのページを開いて、今一度詳細に調べてみた。ところがどうだろう、Litiu の名前が別の欄にも記入されてあった。それはアメリカに移民する前に住んでいた土地に誰か血縁者が残っていたかどうかを 記入する欄である。その欄によるとLeib にはいま一人の息子、「ボノ」が、Bonolanoi の Litiu おる、と記入されてある。ぼくは旧いツアー時代の、ロシア帝国地図をネットから探し出し、ポドリア地区にボークン氏が指摘した「リチン」という名の町があるかどうか調べた。有りました。ジトミルの南、ベネチアの西に Litin の町名がはっきりと記名されてあった。これでもう間違いない。Bonolanoi は Podolonoi つまり 「ポドリアの」の書き違いだろう。Litiu の u は筆記体では n とまぎらわしい。おそらく手書きにした文字をタイプにする時の読み違いだ。Litiu、リチュウ はだから正しくは Litin, リチンである。即ち ”Litiu Bonolanoi" は "Litin Podolonoi" であるべきで、ポドリア地方のリチンの意味である。

それにしても世の中には親切な人がいるものである。わざわざミンスク市の電話帳を調べて、なおかつ居住民を電話で調べてくれたのである。ぼくは長々とかんしゃのメールをボークン氏に書きお蔭様で、妻ハイヂのルーツが分かった事を報告しておいた。

この時点でぼくはいっぱしのルーツ捜査のベテランになったつもりでいた。系図探しに携わる人々が虜になる「好奇心」が昂じて、古文書にくびったけとなり、やがて縺れていた糸くずが解されていく段階を経験してから、過去の事実調べる事の楽しみを満喫し始めていた。ボークン氏のような親切な人に回り当たれば、誰でもそうなるのだろうが、すっかり気を良くして、これと思われる関係者に、こんどは例の5人の家族が生まれたという、”Scharogrod" と ”Bogzniewzy” という名の町が何処にあるのか、メールを送った。流石に今度は有益な知らせをもらうのに2週間がたった。2001年9月10、Jewish Geneaology.com の WarrenBlatt 氏から受け取ったメールの翻訳を下に掲載する。

 

 
巻頭に戻る

シャンデルの出生地シャログロッドが見つかる

 "Scharogrod" はおそらく、現在ウクライナの ”Sharogrod" でしょう。過去にはそれぞれの、国語の違いで、"Sargorog", "Scharigrad", "Sharigrod", 又は "Szarogrod" と書かれた事も有ります。

 'Bagniewzy" に関しましては、旧ロシア帝国圏内には当てはまる町名が見当たりません。おそらく、転写中に生じた間違い、特に筆記体の読みかたの間違いから生じたエラーでしょう。今一度、マニフェストを読み直して、それぞれの文字が別の文字に解釈されないかどうか、調べてみてください。

 
巻頭に戻る

 

これもまた非常に丁寧なメールである。これで Heidi の曾おばあさんの、Shandel Perwak の生地は Sharogrod と書き、同じくウクライナに有る事が分かった。しかし、町が小さすぎるのか、市販のウクライナの地図には載っていなかった。何とかして、ポドリア地区の地図を手に入れることが必要だった。

話が又前後するが、その年の新学期(といっても、アメリカでは8月から始まる学期である)に、ぼくのクラスに登録した一人の学生がウクライナからの帰化人だった。冬休みにかけてウクライナに行くつもりだという。ぼくは早速頼み込んで、ポドリア地区のもっとも詳細な地図を探して持ってきてくれと頼んだ。又その学生が生真面目な男で、それから4ヶ月後のことになるが、縮図、1:20,0000キロの最も新しいロードマップを持ってきたのである。ぼくはその日の事を昨日のように覚えている。帰宅するのはまどろっかしく、待ちきれず教員室はぼくのオフイスでその地図を開いた。目標はポドリアのあるべネツィア県である。ぼくは学生の頃少しロシア語を習った事があったので、ロシア語のアルファベットぐらいならば何とか読むことができた。"Schrogrod" は直ぐ見つかった。"Litin" の真南、30キロも離れていない。Schandell おばあさんが娘の頃、嫁いで来る、には少しも無理のない距離である。

バグリノヴィチも発見

ぼくが驚喜したのは同じ地図に 後4人の生れた村である "Bogziewzy"を発見した時であった。"Litin" の東南わずか16キロのところに、"Багриновцы"  (バグリノヴィチ) と読める町の名前が有ったのである。ぼくは思わず、自分の目を疑った。16キロならば徒歩で行き来のできる距離である。偶然にしては、あまりにも、近すぎる。「バグリノヴィチ」 こそぼくの捜し求めた出生地でなくしてなんとしよう。

ぼくの発見は正確だった。確認されるのにその後2年かかったが、今では正式に、ユダヤ人系図協会公認の旧ユダヤ村、shtetle (シュテットル)の一つに数えられている。

今一度、2001年8月に戻らせてもらう。エリスアイラアンドのウェブサイトが登場して僅か半年、妻、Heidi の古い血縁者達が移民してきた記録が見つかった時点である。5人の Perwak の姓を名乗る家族を乗せた客船 The Finland 「フィンランド」がニユーヨーク湾に錨をおろしたのが、1923年9月6日であるから、偶然では有るが、78年目の入港記念日を一週間あとに控えていたのだ。ぼくはこの偶然と発見を記念して Pervin 家の系図を公開した、ウエブサイトを Heidi の為に造るべきだと思った。妻はさすがに、二の足を踏んでいたが、彼女の両親とPervin 家生き残りの親戚の了解を得て、ここにぼくらのサイト、www.pervin.net を設立することになった。

ユダヤ人は伝統的に大衆の注目を集める事を嫌う。過去の迫害の歴史が彼らを神経質にさせたのだろうが、ネットを通じての公開は郵便局用の現住所を発表せずに住むから、現生存者を危険から保護できる。いまだ生存中の血縁者の生年月日などは公表しないという事で O.Kを得た次第である。今ひとつ、公表する事でプラスになる事があった。それは、世界中に広がった、Pervin 姓の家族と連絡が取れる事である。後に述べるが、ある事情があってロシアのぺテルブルグの町に避難している Pervin の家族がいることが分かっていたが、連絡できなかった事実もあった故である。

Ohio 州 Toledo 市に移住してきた、Perwak, 現在の Pervin 家の系図はしたのとうりである。同サイトではこれを家系図 I (The Tree I) と名ずけた。Heidi は Maurice A. Pervin の次女であるから、一代目の Leib とRosa Pervin 夫妻から数えて3代目になる。Heidi の1代下の子供達を加えると、50人を上まわる所帯である。

 

 
巻頭に戻る

 

 

 

 ヤフダ レイブ パービン

 (1865 - 05/23/ 1945 )

 シャンデル ロザ バクロフ

 (1869 -  09/10/1933)

 

 

 

 

マックス パービン

 (1890 - 1963)

 ゴルダ フロリアン

 

 

 

 

 シモア パービン

 (07/12/1918 - 09/01/1989)

 マージ ドルブ

 

 モリス A. パービン

 (Born12/11/1920 )

 ポーリン ヒックマン

 

 Richard Pervin

 ( 1928 - 2001 )

 ジョ バーンズ

 

 

 レオン パービン

 (01/10/1895 - 08/1982)

 くレア

 

 

 ジョセフ パービン

 (01/12/1898 - 12/1982)

 ベルタ レイダ

 

  バーニス パービン

  ウイルバ  シャピロ

   (1922 - 1997)

 

 

 

 べラ パービン

 (1901 - 1999)

 B. ハルパン 

 ジョン ハルパン
 

 

ドラ (ドリス) パービン

 (04/12/1903 - 12/02/1984)

 ハリ ダスマン

 ナオミ ダスマン

  シモア ダスマン

 
巻頭に戻る

 

www.pervin.net の登場

 

パービン家の系図をサイトに公表するに当たって調べたところ、pervin.com はすでに、登録されてあった、カナダでPervin 姓をもつ家族が存在していたのである。Pervin にはほかに、Parvin と書く姓もあった。どれも、英国から移住してきた家族で、ロシア系ユダヤ人との関係はなさそうである。ぼくの pervin.net が出版されるや否や、カナダから連絡があった。彼らも、ロシア系ユダヤ人だったのである。更に半年、今度はフラデルフィア州ピツバーグ市に移住していた、Pervin 姓の家族から連絡が入った。これもロシア系ユダヤの末裔である。ぼくのサイトは発表早々、大変な反響が有ったのである。ぼくも妻もすっかり興奮していた。カナダのグループにはふたつのPervin 姓があり、何れも第一代目が兄弟か従弟だったらしいところまで調べができていた。ぼくは睡眠をとる時間も惜しく、空が白白とあけて来るまで、パソコンの前で、各Pervin姓の関係を調べた。もっとも驚いたのはロシアのモスコー近郷に、Dr. Yuri Pervin という教育者がいることが分かって、メールを交換しているうちに、なんと、同博士のおじいさんと言う方と、ピツバーグに移住していた Pervin の一代目が腹違いの兄弟だったのだ。更にはOhio 州 Toledo 市のとなりにある、Michigan 州 Detoroit 市に移住していた Porvin という姓の末裔がいて、彼らの一代目が Heidi の曾祖父 と兄弟だった事も分かった。即ち Heidi のおじいさんMax の叔父に当たる家族が、州の境界をはさんで、移住していたのであった。pervin.net はたちまちのうちに、九つの Pervin 系となり、それぞれの末裔の家族は千人を上回り、分散した国はロシア、カナダ、アメリカ、イスラエルに及んでいる。

出身地はいずれの Pervin, Perwak, Pervon もポドリア地方、ウクライナ共和国の首都キエフの西南約160キロ半径の中にあり、同サイトの全部がルーツを同じくする可能性も有るのである。残念ながら、資料が乏しく、現在の段階では、これを証明する手立てがないが、Toledo 系とDetoroit系が同じ出身である事が分かったので、先ずこの二つの家系図を詳細に調査してみる。その前に、pervin.net の ホームページをここに紹介すべきであろう。下欄の日本語訳を参照されたし。

なおこのホームページを経て、計10系のリンクを加えそれぞれ詳細なインフォメーションを掲載した。

Profiles: 既に死亡した家族員の紹介

The Trees: 系図(米国に移住した一代目を家長とする)

Archives:古い公文書の収集

Discussion:専門家あるいは関係者による論評

Latest News:新しいインフォ

Bulletin:告知板

 

 
巻頭に戻る  

 

パービン家系図のホームページ

 「パービン家系図」にようこそお越しくださいました。

 このサイトは米国、オハイオ州トリード市に移民してきたヤフダとシャンデル夫妻、「パービン姓」を名乗る家庭のルーツ、その家系図調べを目的にした、個人私用のライブラリーであります。

 公文書リンクには同パービン家の記録を転載しました。同家の移住前の出生地は1900年代以前にウクライナにて発祥されたものと信じられております。

 エリスアイランドの記録では、パービン家五人のメンバーはロシヤから1923年9月23日付け、到着しました。レイブとジェニーとその子供達で、レオン、べラ、ドーラである。www.elisisland.org によると彼らは、Leissa, Schandell, Leib, Beila, Dwoと命名、姓はPerwakでありましたた。

 シップマニフェストによる5人が先住していたLitiu Bolosnoi はポドリアのリチンの事で、現在のベニチャ県内に位置します。村名バグリノビチはレイブとその子供達の生まれた村だと信じられます。

 上記五人の乗船した船はフインランド、ドイツ領ハンブルグから出港しました。

 マックス並びにジョセフの到着のの年月日は何れも明らかでは有りません。マックスは当初、シカゴに1907年、ジョセフは1914年着といわれますが、エリスアイランドの記録には見られません。

 このサイトの目標は、同家に関する全ての文書、見聞を記録、ウクライナ、ロシア、東欧に散在すると思われる、パービン、あるいはパーバック姓後裔の参照にする事にあります。

 

 
巻頭に戻る

 

バグリノヴィチ

レイブ · パーバックとその家族の生まれた村

About 6 miles southwest of Litin, a town named Bagrinovchy exists in this detail map of Vinnytyia District.  The town is listed in the ship manifest of "Finland" as Bagniewzy.

 

 
巻頭に戻る

 

 九つのパービン家系図

 

バグリノビチに生まれ、リチンに住んでいた、レイブ·パービンとその妻シャンデル並びにその息子レオン、娘、べラとドーラの計五人は、1923年9月6日ニューヨーク湾内のエリス島に到着した。彼らを先んずる事16年のマックス·パービン、同じく9年のジョセフ·パービンを加えた7人のパービンが、オハイオ州トレイド市に移住した最初のパービン姓の家族であった。これをパービン家系図のThe Tree I とThe Tree IIと名ずける。

当初の計画では、妻 ハイデの属するトレイドのパービン家、即ち The Tree I とThe Tree II のみの家系図にするつもりであったのである。しかしながら、Pervin.net を発行して半年もせぬうちに、数々のパービン家が名乗りをあげ、それぞれのパービンが他のパービンとルーツを同じくしていることが判明してみると、もしかするとここに集まった全てのパービンが一本のルーツに端を発している可能性すらありうるのである。あまり手を広げて収拾の付かぬ結果になる事を覚悟にして、発見された全てのパービンをこのサイトに納めることにした次第である。

まず九つ全てのパービン家はアシュケナ-ジ派ユダヤ教に属し、それぞれの最も古い家長の出身地が、いずれもキエフ西南僅か半径80キロ内に発している。この家長達の一代前を探れば、俗に言うミッシング·リンクが隠されているかもしれないので有った。

いまの段階ではあまりにもロマンチックな想像かもしれないが、プロジェクトに「夢」を托す気持ちでぼくはThe Tree X を創作した。この家系図は未だ証明されていない。全てのパービンが同じルーツから発したと仮定しての創作である。

The Tree I から The Tree X 一覧を下に紹介する。

 The Tree I オハイオ州トレイド市に移民してきたパービンの家系図
 The Tree II 上パービン家に続く5代のパービンの家系図
 The Tree III ケベック、カナダのモントレオールに移民してきたアーロン·パービンの家系図 
 The Tree IV フラデルフィア州ピッツバーグ市に移住してきたゼブ·パービンの家系図
 The Tree V モスコウ市に移住してきたサミエル·パービンの家系
 The Tree VI ミシガン州デトロイト市に移住してきたポービンの家系図
 The Tree VII ケベック、カナダのモントレオールに移民してきたモイシェ·パービンの家系図
 The Tree VIII フラデルフィア州ピッツバーグに移民してきたルーバ·パービンの家系図
 The Tree IX 上記ルーバ·パービンの妹、バーサ·パービンの家系図
 The Tree X    The  Last Chapter 仮想上の家系図(終章と呼ぶ)
 
巻頭に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オハイオ州トレイド市に移民したレイブとシャンデル夫妻の間には、少なくとも14人の子供がいたと言う伝承が残されている。そのうち米国に帰化したのが5人、ウクライナのリチン市に残ったという記録のあるいま一人の「ボノ」を加えても、計6人、残り7人の子供達の消息はいまのところ分からない。

マックスが移民してきた子供の中で一番年上である。しかし彼ががレイブとシャンデルの長男だったという、確証はない。マックスの渡米は、伝承では1907年、彼が14−15歳の未成年の時だったといわれているが、その理由は、祖国ロシアの地である種の傷害事件に関わりがあった為だというエピソードも残っているがその真偽は明らかでない。

エリスアイランドに関する限り、マックスの公式な入国記録はない。入国は初めシカゴ市の親類先に寄留したと言われるが、それも確かな記録はない。

マックスとゴルダ

オハイオ州ルーカス郡に記録された、マックスの婚姻届によると、彼は1917年5月14日、トレイド市にてゴルダ·フロリアンと結婚した。マックスが27歳、ゴルダが20歳の時である。マックスは結婚後、ゴルダのトレイド市の住居に移転した。ゴルダにはソフィアという名の母親が同居していた。因みにゴルダの出生地はシカゴ市なので、マックスは同市にてゴルダと知り合ったと考えられる。彼らがシカゴ市を去った年の記録はない。

興味深い事実であるので、付け加えると、マックス自身、同婚姻届に自分の出生地をミシガン州デトロイト市と記入している。

マックスは以来、トレイド市に於いて、八百屋を経営していた。マックスとゴルダの間には、3人の男子、シーモア、モーリス、リチャードが出生。

ジョセフとバーサ

マックスより8歳年下のジョセフは1914年にマックスを頼ってデトロイトのマックス宅に帰米、同居、マックスを手伝ってその八百屋に勤めていた。1920年のセンサスによる、米国住民届によると、その年ジョセフはマックスとゴルダ、その母ソフィア宅に同居していた記録が残っている。

ジョセフの婚姻届によると、ジョセフは1925年12月6日、妻、バーサ·レイダーと結婚。ジョセフとバーサの間に一人娘、バーニスが生まれる。

レイブとシャンデル

マックスとジョセフの両親レイブとシャンデル並びに他の3人の子供が渡米した1923年、先ず全員がトレイド市内のジョセフ宅に寄留、マックスの店を助けたとの口承がある。

1930年のセンサスによる、米国住民届けによると、レイブとシャンデルはトレイド市内に自宅を購入、住居していたとの記録がある。シャンデルは1933年9月10日に死去。レイブの死去は1945年5月24日。

レオンとクララ

マックスより6歳年下のレオンはロシア帝国の徴兵中、頭部に負傷を受け、その怪我の後傷遺のため障害者として、一生を終える。1926年8月29日、クララ·ルーベンスタインと婚姻。子供はいない。

べラとハーパン

べラはニューヨークにてB ハーパンと婚姻、男子、ジヨンがいる。

ドウラとドーソン

ドウラはカルフォニア州サンヂエゴに移転。ハリー·ドーソンと結婚。ナオミとシモアの2子が居る。

 

 
巻頭に戻る

 

マックスの長男シーモアはマーギ·ドルーブと婚姻。スーザン、ゲイル、シェリーの3人娘が生誕。

次男モリースは英国人、ポーリーン·ヒックマンと結婚。2人の娘、リーサとハイヂが生まれる。

三男、リチャードはジョウ·バーンズを妻にするが。子供に恵まれなかった。

ジョセフの一人娘、バーニスはウイルバー·シャピロに嫁ぎ、スーザン、リー、マラの三人の子供ができた。

べラの一人息子、ジョンはマサチュウセット大学教授。しかしその消息は不明。

ドーラの娘、ナオミの嫁ぎ先は不明。息子、シモアは弁護士、その家族は分かっていない。

 
巻頭に戻る  

 

初代、アロン·パービンはキエフ近郷のベルデチェフ市の出身。カナダのモントリオールに移民。1902−3年前後といわれる。アロンの全身はロシア騎馬隊の一員だったといわれる。アロンには五男1女の子供が有った。

 
巻頭に戻る  

初代、ゼブとクララ、パービン夫妻は1892年1月23日ダニア号にてエリス島にモスクワより到着。フラデルフィア、ピッツバーグ市に永住。同シップマニフェストによるとパーバン姓は Persoien と書かれてあった。ゼブに同行したのは彼の娘2人と息子。クララはChaje Minsk の姓名にて着米。

 
巻頭に戻る  

初代、ヤコブはべララスから避難してきた孤児として知られる。彼の息子のサムエルの時代にモスクワに移民。モスコワのパービン家系を創始した。サムエルと上記パービン系図IV のゼブは異母兄弟であったことは証明されている。

 
巻頭に戻る  

1914年、初代、イスラエル(サムエル)はパービン家系図Iの初代、レイブの弟、家族に先立ってミシガン州デトロイト市に居住。妻、シェイバはイスラエルの留守を守ってバグリノビチにて夫の迎えに来るのを待つうちに、pogrom にあい殺害された。残された二男三女の子供たちは1921年8月23日長女、べッチの引率で、エリス島に入港、デトロイトに於いて父、イスラエルと合流した。イスラエルはサムと呼ばれポービン姓を名乗った。

子供達はべッチ、シャーマン、アルバート、クラーラ、そしてべバーリ。

 
巻頭に戻る  

初代、モイシェはパービン家系図IIIの初代、アロンの兄弟とも従弟とも言われているがこれを証明する決定的な公文書は未だ見つけられていない。二代目のジェネレーションは、ジョージ、エイブラハム、アイシ、サムエル、ベルタの五人。カナダのモントレオールにあってパーバン姓では最も大きな所帯で知られている。

 
巻頭に戻る  

初代、ルーバ·パービンはモスクワに移住したヤコブの息子、サムエルの長女、ピッツバーグ市に移民したゼブの腹違いの妹である。1913年4月11日、夫のモリス·クーパーと共にエリス島に到着、同じくピッツバーグ市に住んだ。

 
巻頭に戻る  

初代、バーサは上記モスコワ永住のサムエル娘。1913年4月11日姉、ルーバをピッツバーグに尋ねて、渡米、永住する。後、ベン·ニードルマンと婚姻。エリス島の記録によると、彼女はウクライナ、べネッツィアを出立、プレトリア号にてエリス到着した。

 
巻頭に戻る  

記録によると、パービン家系図 I, II, VI は初代の出生地が同じく、バグリノビチ。パービン家系図 III,とVII,の初代の出生地がベルデチェフで共同。出生地に関する限り、パービン家系図 III、V、VII、VIII、IX、は全てベルヂチェフ出身。仮にパービン家系図I、II、とVIの初代、レイブ·ニコライビッチと モスクワ パービン家系図 の初代、ヤコブの間にミッシングリンクが見つかれば全ての家系図がルーツを同じにする事が証明される。因みにヤコブもニコライビチも孤児だったと伝えられている

 

 

巻頭に戻る                            次頁に進む