ポドリア紀行

エピローグ

CAPTIVITY (囚虜 )DIASPORA ( 離散  ) PILGRIMAGE (巡礼 ) ZIONISM  ( 建国  ) 考察

恩讐を活きる民を考える

 

朝、7時起床。急いで熱を測る。38度を少し下回っている。これなら大丈夫だ。睡眠を充分にとった所為か、体の痛みも少し薄らいでいる。食欲も少しある。キッチンでお湯を沸かしているとブラッドが起きてくる。一目みて、顔色が悪いのが判る。苦しそうな咳もしていた。ぼくの風邪がうつったのだ。手にボール箱を担いでいる。ぼくへのプレゼントだと言う。靴だった。キエフには世界一の靴があるというのをブラッドが話していた事がある。昨夜、ぼくが寝ている間に町に出て買ってきたらしい。師に従って、2週間、ルーツ探しの道案内を務め、あれこれ怒鳴られた挙句、今また、手土産まで用意してくれている。いじらしい教え子ではある。

ブラッドの帰りの便は彼の頼みで、2週間後にしてある。ぼくを飛行場に送った足で、生まれ故郷のウガンスクに向け300キロ程、東に旅立つことになっている。今日からはれて自由の身となり、故郷で首を長くして待っている両親のもとに往く。まだ若い身体だから、ぼくみたいに風邪をこじらせる事はあるまいが、念のためアスピリンを服用するように勤めた。熱いお茶に蜂蜜を入れて飲めば直ぐなおるから大丈夫だ、と言うところはやはり未だ子供である。

10時半、テムールのアパートを出る。ボリスポル飛行場は何回も往復したおかげで、迷いもせず、正午前に予定どうり到着。アプテカ(薬局)を探しあててブラッドにアスピリンを買ってやる。押し付けて置かなければ、彼の事だから、恐らく薬を飲むのを忘れる疑いがあった。案の定、熱を出して大変な旅になってしまったらしいが、それは後の話である。キエフの国際空港は離陸の着陸も同じ時間帯に集中されているらしく、この時間はいつきても大変な混雑だった。

ブラッドには長らく世話をかけた。サン フランシスコでの再会を約して、ぼくは一人パスポート検察室へ向かう。入国する時書き込んで、スタンプをおして貰ったカストムズの申告書をうっかり紛失して、ここで差し止められたと言う逸話を良く聞く。無難に通過する事ができてほっとする。ここが最後の関門である。

"Please, come again!"

検察官がにこやかに挨拶してくれる。

"Thank you. I will." と、ぼくは答えた。これは本音である。

来た時は、飛行機がゲイトに横付けになり、そのままロビーに降り立ったが、帰りはゲイトで待機しているバスに乗り込んで、滑走路の飛行機まで行かなければならなかった。できるだけ、歩行を避けて、体力をセーブするべきなので、一寸、失望した。階段のステップを一段一段踏みしめて飛行機の中に入る。ぼくの席は7B、入り口に近く、アイル側である。トイレを頻繁に往復しなければならないから、通路に面した席に座れるのは助かる。飛行場に着いて以来、歩き続けたからだろう。背中を汗が滝のように流れるのが判った。アンダーシャツはぐっしょり濡れている。できれば汗をふき取りたいのだが、無理な相談だろう。又、疲れてきた。オーバーヘッドのラッゲージ入れをあけて、持ち込んだスーツケースを収める。背中のバックパックは下ろして前の席の下と床の間に収める。幸い隣りの客はまだ来ていない。座って一人だけのスペースを利用して足と腕をゆっくりと伸ばした。体の熱は昼過ぎになるとあがり始めるものである。バックパックを背にラッゲ−ジをひっぱっての行軍である。寒気を感じる。けだるいし、睡魔が襲って来る。

腕時計を見る。2時半を少し過ぎている。離陸の時間である。搭乗してくるパッセンジャーの人影も途絶えがちで、乗組員がいそぐようにアイルを往復している。離陸は直ぐだ。左の席は未だ空席のままである。ぼくはしめたと思った。最近の旅客機は客席の数を最大限に施設するから、身動きもできぬほど狭い。隣りの席に誰もこないとなると旅が大変楽になるのだが。

睡魔に誘われて、2,3分だろうか、うとうとしたらしい。ふと人の気配を感じて頭を上げる。若い女が立っている。手にしたパスポートを雑誌か封書を扱うように、隣りのシーツに投げだす。彼女の席だという意味である。ウクライナ共和国発行のパスポートだった。ぼくは急いで立ち上がった。女は小型のラッゲ−ジを手にしている。ぼくのラッゲ−ジの横がまだ空いているのを見届けているので、ぼくは女の荷物を受け取り、ラッゲ−ジ用のコンパートメントに入れる手助けをした。

"Thank you very much!" 女が言った。

"You are very welcome." と、ぼく。

少しアクセントはあったが、綺麗な英語の発音だった。狭いアイルで互いの体の位置を入れ替えなければならない。当然、腕と、腰と、肩と、胸が接触する。

"Excuse me!" 彼女が謝る。

"That's O.K." と、ぼくは答えたが。向こうがぶつかってきたのである。ぼくの腕は女の胸に触れて、やわらかい肉の感触を甘受していた。ぼくは少し不安になった。今日の旅は無難に済ませたい。話し相手も要らないのだから、そっと、ほっといて貰いたいなと思う。女はシート ベルトを締める要領がわからない。黙っているのは不自然なので、手伝ってやる。そのとき女の顔を正面から見る事ができた。美しい人である。見慣れた親しみのある顔でもあった。ウクライナの女性は美人だと言う人は多い。しかし彼女は典型的なスラブ系女性の顔ではなかった。ウクライナの美人は金髪で肌が青白い。柳腰で華奢な骨柄が特徴である。ぼくの隣りに座った若い女性は、彫りの深いブルネット、滑らかでよく陽にやけた肌と、茶色い瞳に魅力があった。ユダヤ人である。

ぼくは、生涯、結婚を二度している。ハイヂとはだから再婚である。最初の妻もユダヤ人だった。偶然である。近しく付き合った女性にユダヤ人が多かったからだろう。アメリカには旧ロシア帝国時代のユダヤ人、一般にアシカナジ系ユダヤ人と呼ばれる人たちが沢山、移住してきた。当然ぼくの大学や道場にも登録してくるユダヤ系の学生が沢山いたのである。

ぼくはユダヤ系の女性を彼女がユダヤ人だからという理由で交際を避けたことは一度もない。ユダヤ人系の女性の方もぼくが日本人だから、或は東洋人だからと言う理由で交際を断わってきたものはない。皮肉な話であるが、ぼくは日本女性の肉体を知らない。渡米してきたのは29歳の時、健康な男性のつもりであったが、日本では誰も相手にしてくれなかった。人並みに、さかりのついた犬みたいに、女性と見ればその尻を追ってばかりいたが、とうとう童貞のまま渡米してきてしまっている。

サン フランシスコに来て感激したのは、女性が大変、積極的だった事である。最もあのころは、フラワー チャイルドと言うヒッピーの時代で、エイズなどと言う危険な病気も出回っていなかったから、フリー セックスが安心してできた為かもしれない。だから、こうしてユダヤ系の女性が隣りに座ると、肉体的な警戒心が薄れる。安心して真剣な会話が交わせる。冗談も言えるし、馴れ馴れしく、相手の身体に触れて、いちゃつくことだって、やろうと思えばできる。女の身体を、隅々までその感触で知っているからである。しかしこれが日本の女性だとそうは行かない。勝手が判らないから、傷つけないよう、或は傷つかないようにと、警戒心ばかりが先立ってしまう。

ぼくの今日は、しかし、そんな洒落っ気が全くない。目的はアメリカの国内に入って必要とあれば手配をして医学的な治療を受ける事だけである。隣りは本を出して読み出したので、ぼくは目を閉じ、少しでも睡眠をとる事にした。本は露文だった。何を読んでいるのか興味があったが、わざと聞かないようにした。

キエフからワルショァまで僅か2時間である。しかしブラッドから気になる話を聞かされている。ポーランド人はウクライナ人の独立を快く思っていない。ウクライナが一時、ポーランドの地であった事があるから当然の話だろうが、ブラッドが前回ウクライナに来た時は鉄道だった。ロシア語を話すブラッドはワルシャワの税関で、たらい回しにされたらしい。所持品のバッグを空にされて検察官から検察官を数人歩き回って、挙句の果ては所持品の半分を没収されたと言うのである。ワルシャワはアウシビッチのあるところである。いつか行って見たいところであるが、今回は検察官からいちゃもんのつかないよう、無事を祈るばかりである。体が弱ると、人間、何をするにも弱気になるらしい。

だれかぼくの腿に手を触れるものがいた。隣りの女性である。トイレにたちたいという。ぼくは急いで、道を明けた。今回はお互いに体を触れずに場所を交換できた。会話を始めたのは席に戻ってきた彼女の方からだった。ウクライナはビシネスかと聞く。そうじゃないとぼくは言う。実は女房の先祖の出生地が分かったので、墓参りをかねて、ルーツ探しにきたと正直に話した。話が長引くのは嫌なので、女房がユダヤ人だということは隠しておいた。奥さんときたと言うが、どうして別れて旅をするのかと聞かれる。確かに当を得た質問である。ぼくは「マイルス プラス」のシステムを説明して、会社の違う「マイルス プラス」だったので、一緒に旅ができない。会話は向こうから始められたので、こちらからも何か質問しておかないと失礼になるので、ウクライナは何処からとだけ聞いてみた。クリミアからだという。クリミアは裕福なユダヤ人祖界があることで知られている。成る程なと思う。

隣同士が横に座って話をすると、どうしても、顔をひねって相手の上半身に向けなければならない。女の栗色に濡れた唇が目の前にあり、目を落とすと、女の豊かな胸元がはだけて見える。ピンクのブラジアの縁飾りが、乳房に密着している。盛り上がった二つの乳の谷間に金色のネックレスがある。ペンダントは「ダビデの星」だった。ぼくは少しめまいを覚えた。濡れた唇は女の膣を連想させたからである。ぼくの舌先は羞毛を避けて、女の肉の間隙を探っていた。女が深く吐息を漏らすのを聞いた。

ぼくは彼女に少し疲れたので休ませてもらうと断った。明らかに熱があがってきている。妄想は全て高熱のためだと言い聞かせて、眠りにつく。コックピットからのスピーカーからキャピテンの声が流れてきて目が覚めた。ワルシャワ着5分前だと言う。ぼくはトイレに一度もたたなかった事に気が付いた。熱が高くて水分が蒸発してしまったのだろうか。とにかく一度だけでもと思い行って置いた。席に帰ると飛行機は低行し始めていた。車輪が滑走路に接触して、金属製の音を発した。窓から見えるワルシャワの空港は灰色だった。ゲイトに停車して、乗客はシートベルトのバックルをはずして立ちあがった。

ぼくも立って、バッゲージ用のコンパートメントをあける。隣りの女の荷物をまず降ろして、手渡す。彼女の礼を聞きながら、自分のラッゲ−ジを足元におろして、バックパックを背中に背負う。女にはなにか挨拶をしなければならない。「お会いできて幸いでした。良い旅をお続けくださるよう」と、簡単だが、常套文である。彼女の顔がふと曇った。ぼくは何処まで行く予定かと聞いて来る。シカゴ経由でカルフォニまでだというと、彼女もシカゴ経由でアイオアに行く途中だと言う。一緒について行っても良いだろうかと聞かれた。正直言うとぼくは少し困った。健康さえ優れていれば、愉しい同伴者になりそうだった。しかし、ぼくの健康状態ではロマンスどころではない。自分ひとりでさえマネージできないかもしれないのである。可愛い子を連れて歩いて悦に入っている時ではない。

ぼくは言った。「結構ですとも。ぼくでよければ喜んでお供させていただきます」。これがぼくの悪い癖である。時々、胸の中とは全く違う事を言ったり、したりする癖がある。このときもそうだった。そこまで言ってしまっては引っ込みがつかないだろう。とにかく二人そろって、ワルショァの税関所に降り立った。歩きながら彼女は説明して言った。実は昨年、アイオアの大学を卒業して、帰国したが、友人たちが集まって、今度、同窓会をする事になっている。彼女はそこに行く途中なのである。

ぼくらの次の便は LOTのフライト 3便である。4時20分発だから待ち合わせは、1時間と10分、時間は充分あるはずだった。ところが検察の列は遅々として進まない。検察官は二人、書類の点検が厳しいらしい、拒否されて他の列に戻されるものが相次いでいる。ブラッドが言っていた、「検察官のたらい回し」の表現をお思いだした。女とぼくの番がようやく来た、女を先に立てて、その耳元にぼくは囁いた。検察が長引いているから、終ったらぼくを待たずに直ぐに次のステーションに行く事。ぼくは直ぐ後から追いつくから。女は頷いてぼくの傍を離れた。予想に反して彼女の検察は簡単だった。しっかりした書類を持っていたのだろう。ぼくの指示どうり、終わると、ぼくに手を上げて、つぎの部屋に消えていった。ぼくの番である。日本国発行のパスポートとアメリカの永住権グリーンカードが功を相したのか、簡単に過ぎた。「ポーランドにようこそ」。検察官が英語で挨拶する。

ぼくは直ぐ同伴の女の後を追った。直ぐに見つかった。飛行機では近すぎて気につかなかったが、洗練された立ちずまいである。簡略なシャツにデニムのパンツ姿だが西ヨーロッパ製なのだろう。品がよい。腰元がくびれて、贅肉のない、深く丸みを帯びた臀部に張りがみえる。ぼくはためらった。圧倒されて、少し億劫になってきたのである。左右を見回して誰かを待つ風な女。待たれているのはぼく自身だろう。ぼくは歩調をおとして女の視野を避けるように迂回した。その部屋には別の検察所があるようだった。いくつもの列ができて、また、検察を通過しなければならない。ぼくは女に近づくのを止めて、離れた列の後ろに隠れるようにしてたった。

突然、後ろで口喧嘩をする夫婦の声を聞いた。アメリカ人らしい。

「あたしウクライナには二度とこないわよ」「どうして」「わかってるでしょ。私達の住めるところじゃなのよ」「だってぼくの生まれ故郷だよ」「そんなこと、わかってるわ」

ぼくは苦笑した。後ろを振り返って、相槌をうとうとして、思いなをした。ハイヂはキエフ着以来、覚え書きをノートしていた。ある晩、ビニッチァのホテルで彼女が作った英詩を盗み読みしたのを覚えている。帰国してから承諾を得て、英語版に掲載したので、ここに翻訳してみる。原文はタイトルにリンクした。

 

ポドリア

ポドリアは広漠で美貌、そして潤沢だった

幾たびも、犯されながら

- 温床の役割を励んでる -

人骨の原、「墓場」になって -

肥えた黒土(くろつち)、掘りすぎて、

また、痛む亡骸が出てきます

骨の原には、安らぎがありません。

だから、ここには戻らない。

Heidi

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

最後の一行は盗み聞きした後ろの女性と同じ宣言に匹敵していた。「私達に住めるところじゃない」のがどんなところだったのか、ぼくにはわかる気がした。

シカゴ行きのフライトの予定時間を過ぎても、検察はまだ続いていた。まさか乗客を残して飛行機だけ飛んでいくことはないだろうが、ぼくは気が気ではなかった。この便を逃しては、宿泊場所を見つけるのは不可能である。第一、身体が持つかどうかさえ判らない。肺炎にはなれない身なのである。

二度目の検察を無事通過して、憤慨した、一度目と全くおんなじ検察なのである。時間稼ぎの為か、権威に失墜があるのか判らないが、全く時間の無駄をしている。ここもキエフと同じで搭乗は飛行機までバスで行かなければならない。キエフよりも清潔で幅の広いバスでだったが、苛立ちすぎて、ぼくには感心する余裕はなかった。搭乗券(ボーヂング カード)によるとぼくの席は 8F でアイル側のはずだった。もし窓側の席にあの女が座っておれば遅れた言い訳を考えておかなければならない。高々と続くステップを登りきると息切れがし始めた。機内に入る。搭乗員が英語で挨拶している。

"Welcome to Polish Airline!"

8F も機首に近い席だった。窓側には年老いた、見慣れない女性がすわっている。ぼくは少し、複雑な気持ちになった。ぼくの隣りの席は前の便もこの便も、キャンセルされた席の埋め合わせだったのだろう。ぼくの席は6ヶ月前購入した時、すでに行きも帰りも指定されてあったのだから。ワルショァからシカゴ間は11時間である。刺激の強い同伴者が隣りにいないことは助かるが、肩をすかされたような思いもしないわけではなかった。なるべき周囲を見回さないように、ラッケージを指定の場所に揚げて、バックパックを足元に滑り込ませて、シートに座った。あの女に何処からか見られているような気がした。また妄想に襲われているのか。

隣りの老女は英語がわからないようだった。目礼だけして、ぼくはシーツ落ち込んだ。後は眠るだけで米国につく。しかし今度は眠れない。目が冴えてしまっている。眠れないままに、ぼくはぼく自身の人生とユダヤ人との関係について考えてみた。ユダヤ人、とくにユダヤ人の女性と同伴すると何故、親しい刺激を覚えるのだろうか。恰も同郷の知人に再会したみたいに、会話が弾む。ぼくはユダヤ教の信者ではない。もちろんサーカムシジョンもしていないし、するつもりは毛頭ない。彼らの生活、歴史、信仰には確かに興味を持っている。しかし、義務付けられた勤めではないし、志を固めた仕事でもない。自主的に興味をもって始めたのだから生理的である。理屈や高邁なイデオロジ―は触発しないから、責任をとる必要もない。最初の妻、シャロンとの間にも息子が一人いる。「剛弘」、タケヒロという名前を付けた。30歳になりながらまだ独身、ハリウッドで役者をやっている。バーミツバの儀式を受けると言うので、親父はイェデッシで祈祷文を暗記しなければならない。四苦八苦した覚えがある。ユダヤ教では母親がユダヤ人ならば、父親が誰であっても、子供はユダヤ人として扱われる。ぼくの「生活の場」は、精神的には日本人ながら、生理的にはユダヤ人の「生活の場」にあると思っている。もちろんユダヤ教の信者でないものはユダヤ人ではないといわれてしまえばそれまでだが。

ユダヤ人は必ずしもユダヤ教の信者だけに限らない。日本人の中には、或はユダヤ人の中にも、ユダヤ教の儀式を行わないものはユダヤ人ではないというものもいる。それはそれでよい。ぼくは決してユダヤ人として認めてもらうつもりでこれを書いているのではないから。ぼく自身ぼくがユダヤ人の範疇に入るとは思っていない。ぼくが言いたいのは、ユダヤ人の生活の「場」を経験した者の一人として、ユダヤ人を書いてみたいという MOTIVATION 動機)を正当化しているだけである。誤解があるといけないからここではっきり紹介しておくが、ぼくは正真正銘の日本人である。確かに場所柄、沢山の精神生活を経験してきたが、ぼくの「知覚」の土壌は「日本人」である。いうならばぼく自身を規制する教え、或は PRINCIPLE(信念)は日本人が意味する「価値観念」に準じている。決してユダヤ人のPRINCIPLE ではない。

CAPTIVITY

( 囚虜 )

ユダヤ人の歴史的経験の中に、彼らはかって、囚われて異教徒の地で、「奴隷」になった生活の記憶がある。ちょっと、他に例のない民族である。彼らの日常生活を律する「トーラ」、「タルムッド」に記述された経験であるから、それが真実だったのかどうかを考えて、歴史的事実の詳細とか、政治的な環境を考察するのは次元の違う問題となってくる。すなわち、彼らが最も神聖化する「書」がおまえ達は「奴隷」だったと伝えているのだ。信仰の第一義は「書」に書かれた記述を文字どうりに受け入れてそれを信じる事である。

もちろん歴史家が介入して、パレスタニァのソロモン王時代や同時代のアッシリヤ、バビロニア帝国を研究、その歴史、政治、経済、国際関係を調べるのは彼らの勝手であり、ユダヤ人が「旧約」の解釈に従って彼らの信じる解説を行っても、それはそれで支障をもたらす何物もない。ぼくが問題にしたいのは、ユダヤ人はかって「奴隷」だった時代があることを信じていると言う、その事実である。

それは丁度、旧約聖書の記述、「アダムとイブはエデンの園で神に背き、禁断の木の実を盗んだ」を信じることに似ている。「原罪」を認識する事と、「囚虜」を己の身にたとえる事の共通点は、それを悔悟してより良き心身の成長を勤しませる為の訓戒になる事である。それならば、「囚虜」の訓戒は何だろうか。当然、「心の自由」、他人に操られず、自分の意志をもって自由に行動できる環境を築き上げる事であろう。

「自由」の有無は、今ひとつ、日本人には実感の伴わない感覚だろう。いつの時代も「自由」だったからである。絶対的な力が永遠に自由を束縛すると言う環境がなかった。もちろん政治の歴史には圧制者が常に権力を欲しいままにした。しかし、一代から二代、忍耐するだけで政権は変更した。地震、洪水、台風の天災もあった。それだって僅か数日間の我慢で一過してしまう。春夏秋冬を定期的に繰り返す四季の世界がある。零下何十度の激寒もあるし、猛暑の続く日もある。しかしそれが100日も200日も続く訳ではない。地震、雷、火事、親父の親父だってそうだ。親父がうるさくて自由を束縛するならば、ただ「ハイ、ハイ」を繰り返して長いものにはまかれておけば、それも時間の問題である。つまり、日本では全ての事が「時間」で解決されてきたのである。「待てば海路の日和あり」とは、全くうまい事を言ったものである。

日本は大洋にとりまかれた島国である。海がぼくらの生命と自由を守ってくれた。海は自然の灌漑、下水、城壁、交通、暖房、冷凍の施設である。一方、中近東、東西ヨーロッパ、極東、いづれの大陸、或は陸続きの土地を考えてみよう。そこでは、毎年、100年、200年の単位で侵略者が襲い、子女を攫い、犯し、殺しに来るのである。侵略者達は土地を持って開墾する必要はない。緑の草原を追いかけて牛馬、家畜を養い、収穫時になれば土地を持つものの作物を押収すればよいのだから、自分達より強い力のあるものが出てこない限り、1000年も2000年も己の血縁を繁栄することができる。だから彼らの暴力に屈するものには、日本人みたいに、待っても、海路の日和が来る事がないのである。

ぼくはユダヤ人の「神」は強者の「神格」を具象化したものだと考えている。その前に一言、弁明しておくが、こういう言い方は、ユダヤ教では決して許されない。日本人は「神格」は人間の創造であると、言って判って貰える唯一の民族である。「神」が人間を創造したと信じる民族に言わせるとぼくの解釈は不見識であって、いつの時代でも「死刑」に値したのだ。ジュ―デオ、クリスチャン、モスレムとはそういう真理を信奉する民族の事である。

さて、その強者の神格を創造した民族には、永遠に「心の自由」を克ちえないものがひとつある。それが「神」自身である。「神」の(束縛)から(逃れて)「心の自由を」求められるのはただひとつ、「神」の存在を信じる事のみである。ぼくは日本人は幸せだと思う。なぜならば「神」なしでも「心の自由」をもてる唯一の民族であるゆえである。

百歩譲って、「列王の律法」に記述された「囚虜」の歴史がヘブライ人の歴史を政治的な捏造なしに記録、そして、そのクロニクルが古代史家のそれと正しく一致すると仮定するならば、ヘブライ人の「囚虜」は次にように要略できる。

イスラエル部族はナフタリの町々が、アッシリア王テグラス ピレサ III世(在位 745−727BC)の手中に統治されたとき、住民のヘブライ人たちはアッシリアへ拉致されてしまった。そのとき、ルーベン部族、ガッド部族、マナセ部族もまた同様に同じ運命を辿ったのである。サマリア部族はシャルマネサ V世(同727−722BC) 並びにサルゴンII世(同722−705BC)に降り、その住民も 西暦前722年その殆どが追放の憂き目を負う。最後の部族、ユダ族もまたその後、アッシリア帝国の後継者、バビロニア帝国王、ネブチャッドネザ(同605−562BC)の手により、西暦前597年、崩壊、貧民窟の住人および病人を残して、全てのエルサレムの市民はバビロニヤに連行された。さらに西暦前587年には時のエルサレム王ゼデキァは殺害され、同市の寺院は破壊、焼失、全ての部族民はバビロニヤに連れ去られてしまうのである。

即ち西歴前700年台から125年間に、南北12部族からなるヘブライの民は、全て当時メソポタミァからペルシャを統治するアッシリア、バビロニア帝国の手にくだり部族民は殆ど拉致されるか、追放されてしまったということだ。

西暦前539年、ペルシャ帝国王、サイラス大王は時のバビロニア帝国を降して、囚虜の身であるユダヤ人全てを解放した。パレスチナの故郷に自由に帰る事、寺院をたて直す事、本国を復興する事も許可した。ところが、解放されたヘブライ民の殆どは自分達の国に帰らなかったのだという。もちろん帰郷して、寺院を建て直し、郷里の復興に当たったものもいた。しかし殆どがバビロニアに残り、同地の開発に貢献、やがては、他の土地の開発を目指して進出していくのである。これがユダヤ人史上有名な出来事で「デアスポラ」と呼ばれている。

 

DIASPORA

( 離散 )

「離散」は「囚虜」が原因になって起こった結果論であると、ぼくは解釈している。

DIASPORA  ギリシャ語、DISPERSE の語源である。日本語には適当な熟語はないが、一箇所に固まっていたものが、広範囲に広がり拡散していく情況を言う。ぼくらはうっかり間違って、ユダヤ人はアッシリアやバビロニアに幽閉された囚人ばかりだったと考えてしまうがそれは違う。メソポタミヤを始め、地中海沿岸にはアッシリがユダヤ王国が繁栄していたころから、かれらのコロニーが既にできていたのである。彼らはもちろん自由の身分である。要はこれらのヘブライの民たちがアッシリアを始め、その他、メソポタミア、ペルシャ、エジプトに収容されていたヘブライ人奴隷を含めて、サイラス大王の大赦の恩恵を受けたと言う事である。ところが、パレスチナの郷里に戻り、寺院と国土の再建の従事するかわりに、あるものは居住地に残り、エンジニアとしての技術を生かして工業を開発、或ものは、古代に栄えた通商の要地、メヂア、ペルシャ、エジプト、カパドシァ、アルメニア、ポンタスなどの大都市を目指して躍進していくのである。ユダヤ人がユダヤ人たる特性だった。その行動の指導にあたったのが預言者、エズラ、エゼキルである。

ぼくは DIASPORA の日本語訳として、DISPERSE という語源を重用視して「離散」と言う曖昧な熟語を使用したが、具体的には「躍進」とか「飛躍」という能動的な民族の行動を表現するほうが現実だったのではないかと思っている。日本にも戦前「五国協和」のスローガンを旗印にして、日本人の開拓者が海外に進出していった時代があった。それほど統一的な行動ではなかったかもしれないが、ヘブライ人たちは国に帰って寺院をたて、国土を復興する事よりも、挙って当時の商工業の都市を目指して進出してする事を選んだと言う事実が、ユダヤ人の民族性を考える上に役立つと思うのだが、如何だろう。

話は少し前後するが、ユダヤ人は元来、ノーマデック、遊牧民族である。つまり、自分の土地を確保してその地に定着するのではなくして、自分の土地であろうが他人様の土地であろうが、年中、勝手に動き回り、牛馬、家畜の牧畜を業とする民族であった。目的は緑の草原と飲み水である。水と草を追って、必要ならば地の果てにまで行かなければならない。冬中は草も水も補給できない。だから季節の交代に準じて常に迅速に機動力を駆使しなければならない。遊牧民の生活はのんびりしているから、平和で、友好な民族であると思ったら大変な間違いである。

一所帯の家族が千頭も2千頭もの牛馬、家畜を移動していかなければならない。まかり間違えれば、水なく、緑藻なしで、家畜は死に絶え、全財産を失ってしまうかもしれないのである。牧草地から牧草地に移動するに当たって、沿道にはありとあらゆる障害物がはだかっている、必要とあれば他人の土地を踏み荒らしてでも、通過しなければならない次第だ。友好で平和を重んじる特性ではとても生き延びていけるものではない。農耕地を荒らされるのを嫌って、暴力で阻止してくるものがいつの時代にでも、何処の世界にいっても、いたはずだ。当然、これを迎え撃って対戦する、覚悟と、戦闘力も養っておかなければならない。牛馬、家畜を扱って生活をするにはナイフ一本で、牛の頭を落とすだけの力量と技術、そして当然、動物学の知識がなければならない。人一人の首を落とすのも同じである。ぼくはノーマデックの民族は、農耕を生業とする民族より遥かに戦闘力に優れていたと思う。生物、特に人間を含めて哺乳動物の生命をとる為には、特殊な勇気と経験が必要である。遊牧民は日常生活でそれを養っていた。

ヘブライ人の祖、アブラハムの話は日本人も良く知っている。アブラハムがメソポタミアから征西する話は、一族長のパレスチナ侵略を正当化するエピソードとして読むことができる。同じ話がモーゼのエキソデスである。神から約束されたというカナ―ンは、実はモーゼの後継者、ヨシュアによって侵略されるべき土地だったと言う意味だろう。旧約に記述されたユダヤ人の歴史は殆ど他人の土地を如何にして侵略したかと言う話ばかりである。絶対唯一の力を持つ「神」がノーマデック民族の侵略行為のオーソリテイ、「権威者」の役を果したと解釈できる。

又自己弁解しなければならないが、ここではぼくは侵略行為が局部的事件で、特殊だったと言うつもりは、さらさらない。民族移動というものは所詮は全て暴力にて終始したものだったはずだからである。ぼくが考えたいのは、ヘブライ人が彼らの行為を正当化する「神」格を創造した動機である。己の血縁者が生き延びるために何をしても許されるはずの時代に、律法を戒律として「神」の存在を信ずる感覚は感嘆に値する。それがユダヤ教なのである。ユダヤ教の戒律の厳しさは当に大自然の厳しさにも等しい。

 

PILGRIMAGE

( 巡礼 )

「巡礼」も「囚虜」が原因になって起こった結果論であると、ぼくは解釈している。「囚虜」時代にその起源を発して、年3回パレスタインを往復する定期的な「礼拝」が、「離散」の時を経て、以後現代まで続く。

ユダヤ教は偶像崇拝を厳しく禁じた事で知られている。日本人みたいに、阿弥陀様や神棚を壁に飾って毎朝、礼拝をする事が許されない。「礼拝」は「神殿」にて行われうるべきであった。もちろん朝夕の儀礼、サバテの祭儀は自宅にても行われる。その際、特定な偶像を礼拝の対象にできない。神霊は空間に実存すると考えるユダヤ教は如かして日常の礼拝は何処にあっても行われる。それだけに、実際に「神殿」を訪れて礼拝する年三回の巡礼は重要だった。アッシリア、バビロニア囚虜期はしかし現実問題として、西暦前960−950年にソロモン王にて造られた第一神殿は既に壊されて存在しない。それでも巡礼の儀式は続けられた。お盆の墓参りと同じだろう。墓(神殿)はなくともその土地に帰ることに意味があったのだろうと思う。

シナゴグ(教会)がユダヤ人居住地に立て始められたのもこのころである。

巡礼は、しかしながら、パレスチナだけを訪れるのが巡礼ではない。「聖地」を「聖地」と規定するのは、主観的な感情である。だからぼくとハイデが今回終えた、ポドリア行きも巡礼である。ポドリアがパービン家を含めて、一度、アシカナジ派ユダヤ人の居住地だったから、御先祖の墓参りを期しての個人的な巡礼である。ぼくらの場合は個人的であったが、これが組織だった共同体の巡礼にもなりうるはずである。例を挙げよう。ウクライナ共和国、特に西南部のポドリア地区はハッシズム派ユダヤ教の温床地であったことは数回に渡って書いた。ジトミルからベルデチェフ、さらにはシャログロッドにいたるいずれの旧シュテッツルを訪れても、その地が過去に顕著なハッシズム派の活動の地であったことを語っている。

カナダ、北米、イスラエルのハッシズム派の信者がおこなうロシュ ハシャナの巡礼が始まっている。特に規模の大きいのが、ウマニ(ウーマン)市で恒例となったナフマン(ラーバイ)廟への巡礼である。ラーバイ、ナフマンはハッシズム派創始者、バール シェム トフの曾孫だといわれている。毎年ここを訪れる巡礼者は世界各地から集まり当にその規模、年間、1万人にも達する程になっている事である。リチンの副市長を訪れてぼくが大風呂敷を広げたのは実はそういう現象が既にウクライナの小都市で発祥していたからである。年間1万人に上る観光客があるということは、その経済的貢献は甚大である。リチンの場合、ぼく達、夫婦が偶々始めての訪問だったかもしれないが、この町を訪れたいと思う家族は数知れないのである。ウクライナ共和国のポリシイ如何によってこの町を訪れる観光客はうなぎのぼりに増加する事はうたがいない。観光はエルサレム同様、無視しがたい産業に変わるはずである。

江戸時代の参勤交替が沿道の経済を支えて貢献した事実は歴史で習った。ユダヤ人の聖地巡礼が現地に及ぼした影響も少なからざるものがある。とくにキリスト教の場合はこの巡礼を促進するために、十字軍派遣という数世紀にわたる戦役があったことを考え合わせると、巡礼は複雑である。

英語に The Wandering Jews と言う表現があるのはご存知だろう。「彷徨われるユダヤ人」とでも邦訳されているが、「根」のない、「土地」のない、「水草」のように「放浪」して生きていく「ユダヤ人」(或は文化)の形容句である。キリスト教者が悪意に解釈したユダヤのイメージにも使用されたが、ユダヤ人の歴史観に従えば、彼らの生活は土地に密着しない事を「不幸なる現象」として解釈しない。前述したように「守護神」は空間に「実存」しているのだから、神格を保護するために、神殿を「土地」に建設する必要はない。神殿は単なる礼拝の場であって、そこにのみ神格が住むわけではないからである。シナゴグを行き先ざきの仮の居住所に立てればそれで住む。彼らには手を汚して、土を耕すと言う習慣がない、歴史的な記憶は遊牧、ノーマデックなのであるから。

今ひとつ、ユダヤ人ほど「時を待つ」という価値観念が強いものはいない。「待つ」事にかけては、彼らの右に出るものはないのである。ユダヤ教にも、「メシア」(救世主)、を待つという信心がある。しかしそれはあくまでも待つための「救世主」なのであるから、本当に来てしまったのでは、「救世主」ではないのである。ユダヤ人がイエス キリスト(メシア)を救世主として認めなかった理由である。

サムエル ベケット に「ゴドーを待ちながら」と言う戯曲がある。待っても来ないゴドーを待つのがそのテーマである。「待てば海路の日和あり」と言う価値観念では、「それでもゴドーを待ち続ける」という、テーマは絶対にわからないだろう。

待っていたがゆえに、何の疑いもしないで、エルサレムに来たのが、シオニズムの実践である。シオニズムはユダヤ人が持った、最後の「土地への執着」であった。

 

ZIONISM

( 建国 )

 

シオニズムを建国と邦訳するのは妥当ではないかもしれないが、ぼくは敢えてこの熟語を使いたい。ユダヤ人が意識した国粋的な感覚のひとつであるからである。

シオニズム(建国)は「離散」や「巡礼」と違って「囚虜」が原因になって起こった結果論ではない。ぼくはその反対だったと考えているのだが、少々、弁証法的な詭弁に解釈されるといけないので、時間をかけさせてもらいたい。

前述したとうりユダヤ人の歴史はノーマデック、遊牧人たちの遍歴である。出エジプトを指導した初代のモーゼはやがてヨシュアにより更迭され、ヤハウエの名前でカナ―ンの地の侵略が続けられる。ヨシュアの野望は遂げられて、その地は一旦、平定され、イスラエル12部族に分割される。めでたしめでたしである。12の数を単位とした合同体はユダヤ教には欠くことのできない原理であるから、ここで一巻の完結となる。その後に来るのは、当然、仲間割れの内乱、そして分裂の歴史が始まるのだ。一連の内紛がおわり、やがて、統一体ではないが一部の部族による王権が確立される。それがダビデ王とソロモン王の KINGDOM であった。ノーマデックが土地に帰着して王権を敷いてしまったのである。土地は動かない。即ち、ヘブライ人の生活の場に機動性が失落する時代がくる。当然、暫くの栄華は咲いたが、やがて他の侵略者の虜となり、土地をおわれ、彼の地に拉致されることになる。

シオニズムはバビロニア囚虜から解放されたユダヤ人を啓蒙して、エルサレムに再度、かつてのイスラエルの国を再興させる為の思想だと解釈されてきた。成るほどタイミングを考えれば確かに理に適っている。しかし、デアスポラの稿で書いたとうり、解放されたユダヤ人達は帰郷に勤しむものよりも、現地のに残り、挙句にはさらに遠方に足を展ばすもの達のほうが多かったのである。

ぼくはシオニズムは形而上学的な建て前に過ぎなかったのだとおもう。ヘブライ人の記憶には既に一度実現した筈の政冶体制だった。その王国は崩壊されて跡もなく失ってしまう。ヘブライ人の破滅は、土地に住み着いて国家を建設した時にはじまった。「離散」は彼らの習った教訓ではなかったか。

1948年5月8日、イスラエル共和国が設立した時、イエーメンのユダヤ人たちは(4万3千人と言われている)、全てを捨てて、彼らの祖国イスラエルに向けて歩き出したと言う話がある。イザヤ ベンダサン著の「日本人とユダヤ人」にそのエピソードが書いてあるので引用させて貰う。

....彼らは全員、女も子供も、岩山を越え砂漠を過ぎ、まずアデンめがけて歩き出した。イスラエル共和国政府は驚き、輸送機をチャーターして彼らをアデンからイスラエルへと運んだ。史上最初の空輸による民族大移動として、この事件は有名である。彼らは飛行場まで来た時、大きな輸送機を見ても少しも驚かなかった。当然のようにのようにそれに乗り込んだのには、迎えに来たほうが驚いた。それを正すと彼らは平然として答えた。「聖書に記されているでしょう、風の翼に乗って約束の地へ帰る、と。」

イザヤ ベンダサン著 日本人とユダヤ人 P。44 山本書店発行

シオニズムは聖書に書かれた「建て前」だったから、イエーメンのユダヤ人たちは少しの疑いもなく、「予言」に従ったのである。イスラエル共和国の建設に反対する人達はこのシオニズムを危険な思想として解釈する。少しく違う。理由はこうである。ある共同体が独立した冶自体を創立しようとする事は、ひとりの人間が成長して個人の権利を施行することと同じく、国体の自由競争が認められている世界ならば、正当な権利である。しかしながら、国体の権利を主張する為にはグローバルなルールに従わなければならない。他の国体が既にクレームした土地を新国体と宣言すれば当然、他の侵害でル―ル違反である。ぼくらの日常の生活でもそうであるが、ルール違反かどうかの裁断はそう簡単ではない。当然、国際間の規模ともなれば問題はもっと複雑になってくる。だから、シオニズムと言う、建国の思想が危険なのではない。危険なのは、己の権利を主張するために、吾が国体の存続を正当化、しゃにむに他を退かせると言う暴力である。

シオニズムが危険になるのは、その思想が志を同じにする人たちによって利用され、正当化された時である。アブラハムもモーゼスも先刻、拝借してきている。シオニズムのシオンは成るほど後世作られた国体の名、エルサレムを象徴している。ぼくは、しかし、パレスチナ、カナーンの名で呼ばれる地はヘブライ人の目的地で、その地を治めるのがユダヤ教の究極の目的だったのではないかと思う。この地を訪れたものは誰でも思うことだろうが、パレスチナは決してこの地球上にあって理想的な土地とは思われない。住むには悪条件のほうが顕著なところである。何故そんなところに拘るのか。ぼくはもちろん知らない。宗教的な理由があって、この地に国体を設立する事を聖書は第一義にしてきた次第だと思う。だから、シオニズムはヘブライ人の元来の目標であって、バビロニヤに滅ぼされたがために出来上がった思想ではない。

皮肉な事はこの目的のためにイスラエルは一度、滅びる。問題は再興されたイスラエル共和国が果たして、生き延びられうかどうかである。ぼくは不吉な予言をするつもりはさらさらない。だからその質問に答える代わりに、ジュ―デイオ、クリスチャン、モスレムと言う、一連の宗教体の複雑性を考えてみたい。ご存知のように、この3っつの宗教の起源は同じである。特にユダヤ人とモスレムは人類学的にもおなじ人類である。言うなれば、日本人と韓国人の違いと同じく、時と場所だけの違いで、生理的、肉体的には同じ人間である。中近東の相克はだから、これにクリスチャンを加えた、三つのおなじ「神」を信奉する人たちの「身内争い」みたいなものである。まことに、人騒がせな人たちではある。この「神」を信仰する人たちの共通点は、その「神」の要求する事を正当化して、他を制するのが特性であるから、当然だろうが。

      --------------------------------------------------------

LOT のフライト3便は7月20日午後7時20分、無事シカゴに着陸した。延々11時間の旅程であった。体温計を取り出して熱を測る気力はもうない。よろよろと縺れる足を引きずって、カスタムずに入る。"Welcome home!"  挨拶されて "Good to be home" を連発した。国際便のゲイトから国内便にいくのはモノレールを使って20分近くかかる。自宅にデンを入れて息子のアロンと話す事ができた。ハイでも数時間前に無事帰宅、睡眠中のこと。安心した。サン フランシスコ便には2時間の待ち合わせがあった。意識はしっかりあったので、緊急に入院する必要はなさそうである。最後の便、ユナイテッドの143便の搭乗が始まった時、これで救急車のお世話にならずに済むと言う確信ができた。6時間で旅がおわる。

---------------------------------------------------------

ダモイ

( 帰国 )

 

ダモイはロシア語で「帰国」を意味する。ぼくの住むのはサン フランシスコだからそこがぼくのいまのホームである。今まで、ぼくの事ばかり書いてきたが、実はぼくの父はシベリア帰りである。チタのラーゲリに2年、抑留されていた。

ぼくが小学生のころはアメリカは敵国だった。いまはアメリカに住んで子供達はユダヤ系アメリカ人である。同じくロシアも敵、そのタンクに轢き殺されかけた事もある。60年たってその国を訪ねてきた。そこでかっての味方、同盟国、ナチス ドイツが妻の民族にくわえた暴虐を見てきた。60年間に世界はなんとかわるものか。いや、ぼくが変わったのか。

ぼくには分からないが、これだけは、はっきり言える。ぼく個人に関する限り、「恩」も「讐」も既に忘却の彼方にある。「恩讐の彼方に」、である。そこでぼくは問う。果たしてユダヤ人もそうだろうか。彼らはホロコウストの惨劇を忘れる事ができるだろうか。

ユナイテッドの143便はぼくの旅の最後の便である。のこりの6時間を使って考えてみたい。ジュウデオ、 クリスチャン、モスレムの三つ巴の関係は説明した。アシュケナジ系ユダヤ人とドイツ人の関係も非常に皮肉な関係なので、あらためてここに紹介する。人類学には違う人種であるが、両者とも同じ言語と文化をともにして、同じ土地の出身である。「アシカナジ」はヘブライ語で文字どうり「ドイツ」、特にライン河に沿った西ドイツ、アレマニ族の居住地を指す。すなわち、アシケナジ系ユダヤ人の日常語は同地区のドイツ語でこれをイェデシ語と呼ぶ。彼らの生活の記録は西暦11世紀以後である。

DIASPORA (離散)期を経たヘブライ人たちの日常の会話は、彼らが居住する土地の民の日常語を使用したと思われる。しかし文語体のへブル語は同地のシナゴグに子弟を通わせて習得した。ぼくの住むサンフランシスコを卑近な例にして見る。ぼくは日本で教育を受けた日本人であるから、日本語の読み書きができるが、口語体は、生活の場で使われるアメリカン イングリッシである。しかし、ぼくの息子達の日常語はアメリカン イングリッシでぼくがかれらを日本語学校に通わせない限り日本語の読み書きはできなくなる。これは日本人のぼくだけではなく、いずれの国からの移民人も同じである。仮にぼくの連れ添いが日本から来た日本人であっても、肉体的には日本人の骨格と生理でも、言語学的、文化的にはアメリカ人になってしまうには3代もかからないだろう。

アシュケナジ系ユダヤ人を例にとっても、西暦前6世紀に始まったユダヤ人のデアスポラから数えて、1500年の年月がたっている。西暦10世紀以前、アシュケナジ系ユダヤ人がどんなルートを経てゲルマニアに到着したのかは分かっていない。分かっているのはそれ以後、かれらは、西ヨーロッパ、北欧、ポーランド、そして旧ロシア帝国へと広汎していったことである。

問題にしたいのは、だから、ドイツ人と虐殺されたユダヤ人は相互に意思の疎通ができたと言う事実である。ぼくは、小説を書くのを趣味にしている。バビイ ヤールを訪れた時、当然、惨劇の状態を頭の中で再現してみた。そして慄然とした。3万3千700人の集団が36時間かかって殺された時、全てが沈黙の内に行われたとはまず考えられない。阿鼻叫喚のなかで生き地獄を思わせるような有様だったと想像する。殺す方には、一糸も纏わぬ裸体の女、子供の悲鳴、嘆願が聞こえたはずである。しかも、それは訳のわからぬ外国語ではなくドイツ語だから、獣たちが右往、左往しながら獣声をあげているのと違って、何を言っているのか分かったはずある。それが分かりながら、その悲鳴と嘆願を聞きながら、それでも殺し続けられるものだろうか。

殺される側の情況を描写するに当たっては、ある程度の架空は頭の中の構成できる。分からないのは殺すほうである。彼らも叫び、罵り、怒声をあげながら、引き金を引き続けただろうか。殺す方にもまだ年若い軍人もいる筈である。中には泣きながら引き金を引くものも、わざと空中を撃って、的をはずした軍人もいたかもしれない。もしかしたら怖さのあまり、小便を漏らしながら射撃する軍人がいたっておかしくない。しかし何か狂っている。ぼくは全くその場の情況を誤解しているのかもしれないのだ。若い軍人がいたととしても、SSソンダ コマンドは特に選ばれて訓練された精鋭の「殺人部隊」である。バビー ヤールに来る前にも既に、レビブ、ベルデチェフの各地で同じような処刑をしてきているのだ。もしかしたら、36時間の殺人は、整然と、静かにそして粛々と行われたかもしれない。しかしこれはもっと狂っている。

ぼくには分からない。そこまで憎まれたユダヤ人もわからないのだ。ぼくは「悪魔」になりきれる人間が、この世にいるとは信じないから、どうしても、その精神状態を分析せずにはおれないのだ。どうもそこがぼくの甘いところで、答えはその辺から抽出できるかもしれない。

ナチスの行為は近世の一例にすぎない。ユダヤ人はナチスに勝るとも劣らぬゼノサイトを中近東、ヨーロッパで3000年あまり受けている。アシカネジばかりでない。スペインで発祥した、サファデ派も含んで、パレスタイン派全てが反セミチズムの犠牲になった。ユダヤ人が憎まれるのは、初期クリスチャンの発祥の時、彼らがイエス キリストを起訴、処刑したからだと言う人もいる。しかしそれはおかしい。イエス キリストが現れたのはバビロン幽閉が終わって500年も後の話である。第一、イエス キリスト自身がユダヤ人である。キリストが起訴されたのは彼がユダヤ教のおきてを破ったと解釈されたからである。ユダヤ教内部の権力争いみたいなものである。ユダヤ人総員が憎まれる理由はなかろう。ルッター派のキリシタン新教を任じるドイツ民族が「殺人」を正当化しようとする「セオリー」にはなっても、本当の「憎しみ」の動機にはならない。

とすれば、憎しみの根源はアッシリア、バビロニア以前にまで遡るのかもしれない。

「憎しみ」とか「恨み」とかいう人間の感情を心理学的に考えてみる。「憎しみ」も「恨み」も知覚が触発されて、反作用してできた感情である。つまり、自分が経験したか、あるいはひとの経験した事を基にしての反応である。経験、知識なしには起こり得ない感情である。生後、数時間後の新生児が持つ感情とは思われない。少し待ってもらいたい。ぼくのいうのは「性善説」の立場にたっての解釈である。その新生児が成長していく過程の中で、「憎しみ」「恨み」の感情を習得していくと考えてみる。「飢え」を経験して「怒り」の感情を知る。そしてそれを認識して「知覚」を養うという課程である。心理学者がいうところの「習得した習性」である。

今ひとつ平行して考えたいのは、人に「暴行を加える」という行いである。人類学では人類と猿類の持つ「悪意」はもって生まれた、生来の本能ではないと規定している。「憎しみ」と「恨み」と同じく「習得した習性」なのである。理由の伴わない「悪意」はありえないという意味である。例えば、今あなたの手に生まれたばかりの「赤ちゃん」がいる。あなたが、平常な人間の社会で育ったものならば、そしてその赤ん坊を憎む理由がないならば、あなたにはその赤ちゃんの首をひねって殺してしまう真似はできない。人間の「中枢神経」の中に「制御システム」があって、動機の伴わない暴力をとめる衝撃が働くのだという。

あなたに、赤ん坊の首をひねって殺させる方法が二つある。ひとつはぼくがあなたの頭に拳銃を突きつけて、「赤ん坊の首をひねりなさい、さもなくば撃ちますよ」と命令する事である。ぼくが本気だと分かればあなたも仕方がないだろう。今ひとつは、この方が効果があるのだが、あなたを諄々と諭して、この赤ん坊は20年後に、大変、危険な人間になる。今殺しておかなければ、20年後に、あなたはおろか、あなたの一家、或は国全体まで、滅亡してしまうでしょう。と、信じさせる事である。ぼくら人間は、使命をもって行動することが大変好きである。喜んでとはいえなくとも、恐らくあなたは赤ちゃんを殺す事ができるだろう。殺人が英雄的な行為になるのである。

大変乱暴な例でまことに申し訳ないが。人間の残忍性は本能から発しているのではなくて、「教訓」というイデオロギーによるものだといいたかったのである。ユダヤ人を憎むという問題を、もう一度考えてみる。ユダヤ人を差別待遇して、必要とあれば殺してしまえるほどの動機を持つには、それ相応の「教訓」を習得しない限り不可能だ。ぼくが知りたいのは、一体誰が、或はどんな「権威」が何故そんな教育をしたのかということである。

これから先はぼくの想像である。仮定として読んでいただきたい。アッシリアとヘブライの民の相克はダビデとソロモンが王国を築いた時に始まったのではない。両者はアブラハムがメソポタミアを出た時からの仇敵だった筈である。聖書はアブラハムやヨシュアが、如何に、勇猛だったかを描くが、果たしてそれだけだっただろうか。勇猛だったのは結構だが、罪の無い非戦闘員である女、子供を皆殺しにしなかっただろうか。聖書は全てを記述したわけではないのである。ユダヤの民は他の民を征服したときに、「憎しみ」と「恨み」を残し、それがもとで、やがては彼ら自身が囚われの身になった、と考えられないか。

聖書にはいまひとつ、曖昧な記述がある。「イスラエルの民」は神の「選民」だったという表現である。「イスラエルの民は神から選ばれた民だった」、という記述である。即ち「血」で結ばれた「父子の関係」ではないから、「契約」を交わして「神」と「民」の関係になった。イスラエルの民は「神の実子」でないという事は、「契約」が破棄されれば、「父」でも「子」でもない他人になる時が来る。神の試練は厳しい。指導者は常に神のテストを受けて「契約」が守られている事を誓わなければならなかった。

「神」に受けた「恩」をイスラエルの民は一日たりとも忘れる事はできない。一方、彼らは四面楚歌の砂漠にすむ。彼らを「恨み」「憎む」他の民族に囲まれているのである。他の民族に受けた恥辱、屈辱を子孫に書き残し、忘れぬように、「教訓」するのも彼らの役目である。彼らは「恩」に生き「讐」を忘れず、生きなければならない日課を背負っているのだ。

そこまで考えた時、飛行機はサンフランシスコ上空に達していた。時計は真夜中近い。今回のポドリア巡礼はおわりに近づいている。しかしぼくの人生の旅はまだ続く。日本人の感覚でユダヤ人を理解し様とする試みは死ぬまで続けるつもりである。ぼくは、ぼくの人生に「恨」を残さない。しかし同じ事を、妻や息子達、そしてその民族に期待する事はできない。彼らは生きている限り、ユダヤ人としての刻印を胸につけて生き抜かなければならないのだから。メソポタミア、エジプト、パレスチナ、バビロニア、マサダ、エルサレム、スペイン、ポーランド、ロシアでの一連のポーグロム、ホロコウストのゼノサイドを一日たりとも忘れずに生きていくだろう。

菊地寛の「恩讐の彼方に」の最後の一節、市九郎と実乃助が手に手を取り合って、「二人はそこに全てを忘れて、感激の涙にむせぶあう」という感傷は、ユダヤ人には絶対にうけいれられて貰えまい。ぼくを含めて、日本人は大洋に保護された民族である。砂漠にさらされて「囚虜」にされた民族を理解できるわけがあるまい。彼らは「恩讐」を今、現在、活きて行かなければならないのだ。

着陸した飛行機をどうやってゲイトまで出たのかぼくは覚えていない。飛行場の入り口で出迎えたハイヂとアロンを目にしたのもおぼろげに覚えている。しかし、どうやって自宅に着いたのか覚えていない。不覚にも二人の腕の中に倒れこんでしまったからである。意識ははっきりしていたつもりだが、一種のショック状態だったのか、身体が硬直して動けなかったのだ。

医者からは絶対安静を命じられて、ぼくは2週間、寝たっきりになった。偶然だろうが、ハイヂの母親が8週間後に他界した。ぼくはヨロヨロしながらも、フロリダに赴き葬儀に参列した。そして4週間たって、ハイヂの父が逝った。これも偶然であるべきである。しかし、と、ぼくは考えずにいられない。ぼくはポドリアで、何か見てはいけないものを見てきてしまったのではないだろうかと....。

2004・11・17

[完]