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〜 旧ロ シア帝国、ウクライナにあった妻のルーツ 〜 山口法美
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"The
Road from Letichev",
「レチチェフからの道」を共著した、デイビット·チャピンによると、現在のウクライナ共和国ヴィニッツア県(オブラスト)は帝政ロシアのツアーリ時代のポドリア県(Guberia
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グべリア)の一部であるという。同氏はポドリア地区におけるユダヤ人家系図研究家のパイオニアである。Litiu
を Litin
と判定するのに専門家の意見を質しておきたいと思い、ぼくは彼にメールした。下に翻訳したのは、彼の2001年9月21日付けの返事である。
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***** ぼくは理由があってウクライナを知る必要があった。妻の家系図のルーツをそこに発見したからである。そこは現在のウクライナではなくして、過去のウクライナでなければならない。ぼくの指し当たっての義務は、ハイヂの曾祖父母に当たる、レイブとシャンデル夫妻が後にした郷里、ポドリアの1923年を最上限として、その年から過去に遡る事であった。そこは後ナチス、ドイツがもたらすホルコストの被害を未だ受けていないウクライナであるが、そのホルコストに勝るとも劣らないポーグロムと言う人災の災炎が延々と燃え盛る時であった。そこにはユダヤの民という異邦人が、ツアーリ、ロシア帝国の国籍をもって居住していたのだ。ユダヤ人家系図協会は、1888年にロシア政府の行ったセンサス(国定人口調査)を例にとって、ポドリア居住のユダヤ人が32万5千907人だったと記録している。同地区の総人口が247万142人であったから、その13%がユダヤ人であったことになる。 即ち、1941年のホルコストで文字どうり死滅してしまう、ユダヤ人亡きウクライナとは全く違う世界が過去にあったのである。ぼくがここに紹介しなければならないウクライナはそのときのウクライナ、そのポドリア地方である。 いま下記に抄訳したのは David Bickman 著による"Podolia and her Jews- A Brief History" である。ユダヤ人の家系図協会が同会のサイトに発刊した優秀な記事である。同URLは下記のとうり。 www.jewishgen.org/Ukraine/Podolia/Podolia_Gubernia.htm
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"Podolia and her Jews- A Brief History" David Bickman
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俗称、「解放者の皇帝」の異名を持つアレクサンダー皇帝II世(1855ー1881)の即位中の一時期、約20年間は、ポドリアのユダヤ人居住地に経済的な繁栄をもたらした。同皇帝の即位の翌年、1856年、カントニスツと呼ばれた、12歳から18歳までの予備新兵の徴兵が改正、子供達は親元に帰ることが許された。 しかしながら、ユダヤ人に向けられたウクライナ人の反感は年々激化し、特にアレクサンダー皇帝IIの暗殺により、アレクサンダーIII世の統治が始まった1881を期して、ポーグロムの暴力は津波のように、ポドリアを含めてウクライナの全地域嘗め尽くし始めたのである。 この種の移民族に対する迫害の前例があまりない日本人には理解しがたい集団暴力であるが、ユダヤ民族の行くところ常に、反ユダヤ人迫害があった。もちろん、日本の歴史に全く例のない話ではない。関東大震災の直後、パニックにみまわれた一部の日本人集団が、韓国人の居住地を襲撃した事実がある。「部落民」と呼ばれた異人種に対する差別待遇が昂じての暴力行為としてしか例のあげようが無い。 ポーグロムを自ら経験した人たちの描写によると、地元ウクライナ人達による、暴力と破壊行動はすさまじかった。ユダヤ人の住居に侵入して家具を破壊するのは序の口で、火をつけ、家ごと燃やしたり、婦女を強姦、はむかう物は、男女の見境いなく殺害した。被害を受けた町村はポドリアのみでも63ヶ所に及んだと言う。 この集団暴力が取りも直さずロシア系ユダヤ人の大量移民のきっかけとなる次第であるが、同年1881年から1914年までの間に数百万人が米国、カナダを含めた北アメリカに移住、帰化する結果となった。政府はこの暴力を率先して阻止しようとしなかった。 問題は何故そこまでユダヤ人が嫌われたのかと言う理由である。ユダヤ人が信奉するその宗教ゆえにキリスト教徒である地元のウクラリヤ人から白眼視されたのは事実である。しかし理由はもっと他にもあった。アレキサンダー皇帝II世統治のの20年間、商工業を職にするユダヤ人が利潤を受け、裕福になったことに対する恨みを受けたのもその一つである。ウクライナが未だポーランドの統治下にあった時代も前記のユダヤ人の家系図協会の記事にもあるとうり、ウクラリア人にしてみればユダヤ人はポーランドの貴族地主の手先となって、暴利を我が物にしていると解釈された事もあげられる。 いまここで、ウクライナがポーランド領であった時代のユダヤ人はその社会的地位の為にクメンリツキー反乱の犠牲者になったことを再考してみる。彼らが何故ポーランド貴族と小作農のウクラリア人の間に入って施政者を代行する地位を得たのかと言う事である。ユダヤ人の共同体にはタルムッドやトラを読む習慣があり、その子供達を教育するに当たって、読み書きから数詞の扱い方を幼少から教育する伝統があった。結果的に小農を家業とするウクライナ人より高い確率を持って知識階級の地位を占め、当然商行為に携わり経済的利潤を収穫した。ウクライナ人のユダヤ人に対する恨みは、階級闘争の一例であったと言う見方をする人もいる。即ち迫害の対象になるのは必ずしもユダヤ人ばかりではないかもしれない。 「ユダヤ人と日本人」を書いたイザヤ · ベンダサンはその著作の中で、「われわれは迫害されたが故に人類に対して何らかの発言権があると思ってはならない」と断って、ユダヤ人に限らずある社会的な地位に置かれれば迫害を受ける可能性があると予言している。被害者が日本人である可能性もあるので引用してみる。 |
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ポドリアを嘗め尽くしたポーグロムの津波は、The Tree I, II, VI に属するパービン家の居住地だったリチンをも例外とすることなく襲った。記録によると、1919年の夏5月から7月の間に、数回連続して同市はポーグロムに見舞われている。この襲撃が取りも直さず、両パービン家をウクライナを離れさせ、アメリカ移住の決意をもたらせただけに、この事件の歴史的意義は大きい。偶々、shtetllinks.jewishgen.org/Litin/ のウェブサイトに当時の関係者が残した文書が紹介されているので下に引用する。 |
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上記のポーグロムに先立つ事約2ヶ月、今ひとつのポーグロムの記録が残されている。1919年3月14日地元ぺツラ団によるポーグロムである。記録によると「ポーグロム、リチン市に発生、ユダヤ人10人が殺害される」とある。その犠牲者の一人がパービン家の家族員だったと考えられている。 彼女はサムエル · パービンの妻シーバ だった。サムエルはレイブ · パービンの弟、妻がポーグロムで殺害された時、既にアメリカにきていた。家族全員の移民を計画してその準備に当たって、単身渡米したのが1914年、ドイツがロシアに対して宣戦布告した8月1日を船中で迎え第一次世界大戦の発生の知らせを聞いた。移民船の運航は中断されサムエルは家族を迎えに帰れなくなってしまっていた。そして5年、妻、シーバの凶報をデトロイトで聞き、残された5人の子供達をアメリカに呼び寄せるために必死に奔走していた。 シーバが殺された日の記録はポービン家の記憶に残されている。下記の手記はサムエルの孫娘、ロシエル · ポービン (結婚してトービスマン)により記されたサムエル · ポービン家の悲劇そしてその後の話である。 ロシエルは祖母、シーバが殺されたポーグロムを1919年3月14日付けに起こったポーグロムに指定した。理由は次のとうりである。ロシエルの母親はサムエルの生き残った子供達のなかの一番幼少の娘ベシア (後Beverly) である。ロシエルによるとベシアは死ぬまで自分の生まれた月日を知らなかったと言う。3月14日の誕生日を必要に応じて使用していたが、その日が本当の誕生日だとは信じていなかった。 ロシエルはリチン市に残された1919年の編年史の中に3月14日のポーグロムを発見した時、その理由に気が付いたと懐古している。3月14日は母親の誕生日ではなくして、祖母、シーバの命日である。その日を忘れる事のなきように、姉弟して末娘の誕生の日と仮定したのだと。 ぼくはこの話を聞いた時、慄然とした。漢字の熟語、「嘗胆」の言葉のできた故事を思い出したからである。熊の胆は苦い事で知られている。その肝を乾燥して、軒先につるし、口に舐め、忘れるべからず過去の事実を覚えておこうとする努力の由来である。 |
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同じルーツを共有するトレイドとデトロイトのPERVINポービンの5人姉弟の母、シーバが不幸な死を遂げてから、ニューヨク港に到着するまでに丸2年半の月日がたっている。シーバの孫娘に当たるロシェルの素朴な手記は、家族の寄り合いで、暦年、折りに触れ、時に触れ、繰り返し繰り返し語り継がれてきた物語であろう。いたずらに感情を高ぶらせるような表現を使わず、淡々と事実のみを正確に反復する文体が、叙述される内容が強烈な逃避行であるだけに胸を打つ。 ユダヤ教にはユダヤ歴の1月16日に行われる「過ぎ越しの祝い」 − パスオーバーの名の祝日がある。祝日と書くと誤解があるが、むしろ、被災の経験を思い起こす為の記念日である。モーゼが申命を受けて、エジプトからユダヤの民を引率して、神の「約束の地」へと脱出した出来事を記念、ユダヤの民が如何に苦労したかと言う教訓を子女に口承するための、宗教日である。この脱出をエキゾデスという。 べチイとその妹弟のポドリアからの脱出も、規模は小さくともやはりエキソデスである。ぼくの想像では、姉弟5人の物語は例年パスオーバーの席で語り継がれた神聖な口承の習慣だったのだと思う。 同姉妹の話をここに引用したのには、実は理由がある。この姉妹とぼくの妻、ハイヂの先祖は基が同じであった事が証明されたからである。確証は彼女達が乗ってきた移民船に残されたシップ · マニフェストに記録されてあった。まず下に彼女達のパッセンジャー · リストを転載する。 |
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巻頭に戻る | パッセンジャーの3番目にリストされた
Betia が一番年上の Betty
であるが、彼女の欄の先住地に彼女達の伯父の名前 レイブ · パービンがリチン市に未だ滞留していると記録されてあった。このレイブは2年後に妻、シャンデルはじめ3人の子供を連れて移民してくるレイブ · パービンと同一人物である。レイブの家族はオハイオ州トレイド市に住み着くが、地理的には、ミシガン州のデトロイトは州は違っても、隣町だ。
トレイドの家系Iのほうには,レイブ · ヤフダとその妻、シャンデル以前の系図がまったく残されていない。一方、デトロイトの家系VIのほうには、その家主、イスラエル · サムエルの父の名がシュメイルその又父の名前がレイブ · ニコライアベスとはっきり残されてあった。毎年、家族の寄り合いの席上で、語り続けられてきた伝承によると、レイブ · ニコライアベス · パービンは幼少の時、露帝ニコライ1世の兵役徴集を担当する組織に捕まり、無理やり、徴兵の義務を強制された。旧ロシア帝国の徴兵の義務は厳しく、男子18歳のものは25年から終生の使役で、特に12歳の男子ユダヤ人は4年間の予備兵役の義務がある。12歳になったユダヤ人の子供を徴集する組織, khapers は実は人攫いをする人たちでユダヤ人共同体の中にあった。普通は子供の親達が賄賂を使って、その使役を逃れることができたが、身寄りのない、あるいは貧しい家庭ではその余裕がなく、泣く泣く、子供達を失ってきたと言うのが実情であった。Cantonists, カントニスツと呼ばれた予備兵役の子供達は実は帝政ロシア政府がユダヤ人の改宗を目的にした政策でもあった。すなはち子供達はギリシャ正教のキリスト教の教育を受けた次第である。ユダヤ人の共同体の中には年間定まった数のカントニスツを招集する義務があり、決められた数の子供が集まらない時は、人攫いまでしてノルマを達しなければ、その町のユダヤ人全員の責任となるという背景があった事情がある。 |
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***** 兵役を完了したユダヤ人に与えられた恩賞第1級市民権と土地
ニコライ1世統治のロシア帝国では当初、ユダヤ人が徴集兵の過半数を上回ったこともあった。しかしながら、兵役の厳しさが知られると、当然、徴兵を忌避するものが跡を絶たず、やがて自分の身体を故意に傷つけて兵役を避るという悲惨な忌避が始まる。徴兵年齢になる前に町を逃げ出す子供達も跡を絶たなかった。あたりまえの事だろうが、25年の兵役を完了するユダヤ人の数は少なかった。もちろん目出度く、完了したユダヤ人もいた。パービン家第1世のレイブがその一人である。当時はユダヤ人が自分の土地を所有することは許されていなかった。しかし兵役を完遂したユダヤ人には第1級のロシア帝国市民権がおり、恩賞として、自分の土地が与えられた。もちろん、レイブ · ニコライエブ · パービンも例外ではなかった。レイブにはリチン市郊外にかなり大きな土地が支給された。レイブはそこに甜菜砂糖製造の工場を建て、ブルジョア ユダヤ人として裕福な余生を送ったそうである。 |
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ぼくはこの話をはじめ本気にしなかった。はなしが少しうますぎるし、童話じみていたためである。しかし、ものは試しと、妻の実家では一番年長者でもあるハイヂの父親に笑い話のつもりで話したのである。義父はしかし笑わなかった。記憶を探るように熟考していたが、その話を義父の父、つまりハイヂの祖父、マックスから聞いた事があるというのだ。ぼくはたまげた。ロシアに自分の土地を持つ事が許されたユダヤ人がいたというのか! マックスは前述のとうり、14−5歳の頃渡米したがその記録はまったく残っていない。何か傷害事件に巻き込まれて逃げてきたと言う噂もある。義父が言うにはその傷害事件は実はマックスの父親が所有、経営する工場で起きたものだという。そしてこんな逸話を話してくれた。マックスはマックスの父親、叔父、その他多数の雇用者達が砂糖を作る工場から帰ってくる日を怖がっていたと言う。工場は歩いていける距離にあったが、道程がかなりありので、ウイークデイは工場に宿泊して、週末になると全員がサバテを祝うために帰ってきた。マックスの父親、レイブ · ヤフダ は大変癇癪もちだったらしく、帰ってくると、未だ推さないマックスに辛く当たり、叩いたり、怒鳴ったりした為である。傷害の話は義父は知らなかった。 砂糖製造工場の存在は、マックスの弟のジョセフの一人娘、バニースからも確認が取れた。レイブ · ヤフダは確かに土地と工場を持っていた。しかし、ウクライナにおけるユダヤ人迫害は日増しに募り、ジェンタイルに売ってしまわなければならなかったのだそうだ。 |
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東欧出身のアシュケナ-ジ系ユダヤ人の社会には、生まれた子供の命名に当たって、面白い習慣がある。孫息子が祖父の名前を継ぐのがまずその一つである。一所帯に同じ名前をもつものは、年長のほうは既にこの世にいない。即ち近親者からファーストネイムをもらうのが習慣であるが、その名前をもつものが未だ生存していたらそれができない。これはもちろん迷信だが、もし同じファーストネイムを持つものが、同じ家族にいた場合、迎えに来た天使(エンジェル)が間違って年下の方を連れて行ってしまうからだという。この話は実感がある。義父のミドルネイムがアロンである。息子が生まれたとき妻は義父の名前を頂いてアロンと名付けて、後で義父からかんかんになって怒られた経緯がある. カルフォニアでは子供の名前は出生した時点で、病院のアドミニステレーションが出生届を代行してくれるので、義父に知られて、怒られたときには後の祭り、既に遅かった。望むらくは義父がなくなるとき、迎えに来るエンジェルが間違えないように祈るばかりである。 話が横道にそれたが、レイブ · ヤフダの祖父の名が同じくレイブだということは蓋し、あり得るべき事であるので、まさに家系の確証を得たと同じことだった。偶々、名付けの習慣を言及したので、スラブ社会に広く普及されている、ミドル · ネイムの意味を紹介させてもらう。俗に言う patronymic - ペイトロニミック(父名)であるが、ミドル · ネイムは父親の名前である。例えば、サムエル · ヤコブイッチ · パービンと言う名前は ヤコブ · パービンの息子サムエルという意味である。これは、アシカナジ、ユダヤ人の慣習と同じく、Zeb Ben Yakovはヤコブの息子ゼブと呼ぶ次第である。つまり Ben の後ろに来る名前が父親の名前であると言う事は、家系を調べるものには大変便利で、ウクライナくんだりまで、墓参りを思い至った動機の一つとなる。 デトロイトに移住してきたサムと、劇的なポドリア脱出を決行してきた5人の姉弟はその後、姓を正式にパービンからポービンに変更する事になるが、彼らには貴重な家系図の記録が残されてあった。もちろん口承ではあるが、それをシンヂイ · トービスマンの手記から下記に引用する。シンヂーは前述のロシェル · トービスマンの姪、例の5人姉弟の一番末娘、べバリーの孫娘に当たる。
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SABBATHE (サバテ) = 安息日 ジュウデオ、クリスチャン、モスレムは週1日の安息日を厳守する。ユダヤ教は土曜日、モスレム教は金曜日、キリスト教は日曜日がそれぞれの安息日である。ユダヤ教では金曜日のサンセット、夕陽が地平線に落ちた時を期して始まり、来る土曜日のサンセットまで一切の就業から身体を休ませる習慣である。
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砂糖製造工場と土地を手放すパービン家デトロイト ブランチの口承は読んでいても楽しい。サバテの儀式に間に合うようにに帰ってくる、父イスラエルを待って、彼の子供達が挙って弁当もちで迎えに出かけ、通い道にて待ち合わせる話が印象ぶかい。情緒豊かなに劇化された幸せな家族円満のシーンが、紫がかった地平線に落ち行く夕陽を背景に展開されるのを思い起こす。一方、トレイドの方のエピソードは対照的である。父、レイブが帰ってくるのを恐れ子供達はその夜の来るのを忌み嫌ったと言う。イスラエル(サム)とレイブの家庭の違いには明暗の差がある。トレイドのほうには現実の生活の厳しさ、暗い人生の翳りがあった。両者ともにポドリアのユダヤ人共同体の生活を代表する情況である。口承の方には当時のアシュケナ-ジ派ユダヤ人に共通した、ある慣習を暗示している。すなはち、イスラエルは次男だったので、土地と工場を継ぐことができず、長男のレイブを補佐して、その会計係を勤めたという。レイブとその子供達の渡米は5人姉弟を遅れること2年、1923年である。ぼくの気になったのは、一体誰がレイブの土地と工場を受け継いだかと言う問題である。レイブとその家族がニュウヨークに入港したときのシップ · マニフェストに拠ると、レイブにはボーノといういま一人の息子がリチンに残っていたと言う記録がある。仮にこのボノがレイブの長男だったとすれば、何故、ボノはリチンに残り移民しなかったのかその理由がはっきりするのである。即ちパービン家の土地と工場の遺産を受ける資格のあるのはボーノを置いてほかにいなっかからである。 一方、トレイドの方には別の口承が残っていた。それによると、レイブがリチンを去る時、その土地と工場を、ジェンタイル、つまり非ユダヤ人、近所のウクラリア人に売らねばならかったという話である。 |
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〜 ぺテルスブルク 余話 〜
些かハリウッド製のミストリーじみていて恐縮ではあるが、ぺテルスブルクを舞台にしてこんな逸話が残されている。 妻、ハイデには4人の従姉妹が居る。その一人、事情があって本名は使用できないので、ここでは単ににパービン女史と呼ばしてもらう。彼女がまだ結婚する前の事で、まだ結婚前の姓を名乗っていた時だった。1989年の事である。パービン女史はビジネスでぺテルスブルグのあるホテルに滞在していた。そのホテルに、中年のユダヤ人夫婦が訪ねてきたのだ。同女史はフロントからの内線で、彼女と同じ姓名のパービンを名乗る客が来ているという知らせを受けて直ぐロビーに下りて行った。 客は英語をまったく解しなかった。女史のほうもロシア語は話せなかった。ただイエデッシを少し片言で話せたので、何とか客の訪問の理由だけは理解できたそうである。二人は女史の近い親戚だと名乗った。彼女を二人のアパートに招待したいという。女史はさすがに返事に窮した。親戚を名乗られても、女史の方にはまったくその知識がなく、それが本当かどうか確かめるすべもない。アメリカ人旅行者と知ってのたかりかもしれない。アパートに来いといわれてもはじめてきた都市とあって西も東も分からない。見受けたところではまったく敵愾心のない好人物とも思えたが、面識のない他人についていく事がいかに剣呑な事であるかを考え逡巡せざるを得なかった。ぼくに言わせると、そこが如何にも冒険好きで度胸のある、パービン家の女性らしく、結局は二人についていってしまうのである。ぺテルズブルグの地下鉄はその深さから言うと世界一である。文字どうり地下のどん底を走る地下鉄線を乗り継ぐ事、一時間あまり。ようやく親戚だと自称する夫婦のアパートにたどり着く。大都市の真っ只中に在って、自分のいるところが皆目分からない事が如何に恐ろしい事であるかこのときはじめて思い知らされたと、女史は述懐している。話をあまりミステリーにしたくないので、結末を先に話すと、女史は数時間後無事にホテルに帰りつく。もちろん例の二人に送ってもらっての話である。では二人のアパートで何があったのか。パービン女史によると彼女はそこで彼女の従姉妹達に紹介されたらしい。ぼくとハイヂにすればこれほど大変な発見はない。同女史も大変エキサイトしたらしい。しかし、そこで彼女が頼まれたのは、アメリカ永住の為のスポンサーになることだった。この種の問題は片言の言語で検討できるものではない。経済的、政治的に詳細に定められた書類を作成して、なおかつ移民を専門にする弁護士を雇って行動しなければ、女史の社会的地位をもリスクする事になる。結局彼女にはこの問題の複雑さを説明する事もできなかったいう。見知らぬ町で見知らぬ血縁者に遭遇したが、まったく何も分からず仕舞いでいとまごいをしなければならなかったと言う。 このエピソードが在ってから。十数年が過ぎた。パービン女史は訪れた二人連れの住所も書き留める事もできなかった。ホテルで別れたとき数枚の書類を渡されたらしいが、それも何処かに紛失してしまったらしい。ハイヂとぼくは躍起になって、ペテルスブルグにいるはずのパービン家を探した。最近になってようやく、パービン姓を名乗るアパートを2箇所探し当て、電話をしてみたが電話番号は古く、該当する住居人とは連絡は取れなかった。手紙も出してみた。やはりなしのつぶてではあった。若しこの謎の訪問者が本当にパービン家の親戚であったとすれば、それはぼくの作成したトレイド系のパービン家系にない家族が存在した事になる。レイブとシャンデルには13人の子供が居り、その後の行方のわかったものが、僅かに5人しかいないのであるから、当然ありうる事である。パービン女史の話では当時、ソビエット領内のユダヤ人のイスラエル移民が容易であったところから、ぺテルスブルグのパービン家はそちらのほうへ行った可能性が強いと言う。
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ぼくのウクライナ帰化人学生、ブラダミル君に頼んで、ぼくはパービン家が手放した土地と砂糖工場がいまも残されているかどうか、調べてもらう事にした。ブラダミル君には偶々キエフに住む弟がいた。幸い不動産関係を管理する政府の役人だった。名前をチムール君という。コンピューターのデーターを探して、簡単に現在稼動中のビーツ砂糖工場のリストを探し出してくれた。ところがなんと、同県内に51箇所もの工場があることが分かった。 困った事にはパービン家が所有していた頃の住所がはっきりしない。リチンとバグリニブチの近辺にあったというだけでは、砂浜に失った鍵を探すも同然、どうにもならないのである。ぼくらの計画ではチムール君に頼んで、その工場の写真を取って来て貰いたかったのであるが、彼に言わせると、50箇所もある工場を100年も昔の記憶をたどって探すのは不可能だと言う。これは頼んだぼくのほうが迂闊だった。やむをえないが、僕自身、腰を上げてウクラリア探訪の企画を立てねばならない。ポドリア紀行の案はかくして出来上がった次第である。 工場の名前を下にリストしてみる。この中から一つ昔、ユダヤ人が所有したと言われる工場を探し当てなければならない。 |
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