ポドリア紀行

 

 

失われたシュテットル、

ユダヤ人町の跡を尋ねる        

〜 旧ロ シア帝国、ウクライナにあった妻のルーツ 〜

   山口法美  

©Copyright 2001-2005, Norimi Gosei Yamaguchi, All rights reserved.

本頁に掲載されました記事の版権は山口法美の所有物です。

無断にて一部或は全文の転載を禁じます。著者の連絡先は下記のとうり。

Norimi Gosei Yamaguchi

187 Monte Carlo Way, Danville, California  94506  USA

E-Mail: nhyamp@pervin.net

 

セクション I       ポドリアへの巡礼 

 

墓参りと取材旅行をかねる

 

 

左の地図をクリックすれば、1882年現在の古いロシア、ウクライナの地図にリンクされます。ポドリアは中央に位置しています。同地図の版権所有者は、FEEFHS Map Room です。URL は下記のとうり。http://feefhs.org/maps/ruse/re-ukarai.html

 

 

ポドリアは現在のウクライナ共和国の首都、キエフ市の西南、Dniepro河の左岸に位置した約25、600平方キロの地域である。深さ6メートルに及ぶ肥えた「黒土」に恵まれ豊かな農耕地帯として知られる。主な産物はチェリーとビーツと呼ばれる甜菜がある。人の棲息の記録は古く、新石器前期にのぼる。ポドリアの名前は西暦7世紀以後、キエフ公国、オルグが同地をAvars族から占領した後、「低い土地」の意味のあるポニジーの名前が訛ってできた。以後、モンゴルの元国、リスエニア公国、ポーランド王国、ツアーリ露帝国と歴代を経てソ連邦の崩壊後、1991年ウクライナ共和国が独立した時、その圏内に編入される。(コロンビア百科事典)

「Litiu  は Litin の誤り」 

〜 デイビット · チャピン

 

目次
イントロダクション

エリスアイランドのウェブサイトからパービン家系図の登場まで

小見出しの目次
パーバックの姓 5人のマニフェスト
ルーツはべララス共和国か
ルーツの所在地はキエフの西南
シャログロッドが見つかる
バグリノビチ発見
pervin.net の登場
パービン家系図のホームページ
レイブとその家族の生まれた村
九つのパービン家系図
パービン家系図 I
パービン家系図 II
パービン家系図 III
パービン家系図 IV
パービン家系図 V
パービン家系図 VI
パービン家系図 VII
パービン家系図 VIII
パービン家系図 IX
パービン家系図 X

セクション I

 

ポドリアへの巡礼:

墓参りと取材旅行をかねる

小見出しの目次
Litiu はLitin の誤り
BORDERLAND
暴動、内戦、ポーグロム、飢餓、粛清
過去のウクライナ
"Podolia and her Jews"
ポーグロムの津波
イザヤ·ベンダサンの警告
リチンを襲ったポーグロム
1919年5月4日のポーグロム
1919年7月18日のポーグロム
パービン家を襲ったポーグロム
5人姉弟のエキソデス
祖母、シーバの最後
アルコール飲料を密造
ポーランド経由で脱出
ポーランド潜入
ルーツを共有するトレイドとデトロイト
ポービン姉弟のパッセンジャーリスト
レイブ·ニコライアベス·パービン
兵役を完了したユダヤ人への恩賞
ビーツ砂糖精製工場
アシカナジ系ユダヤ教の命名法
デトロイト ブランチに残された口承
土地と砂糖工場を手放す
ホテルに訪ねてきた謎のユダヤ人
ベニチヤ県内にある砂糖工場
"The Road from Letichev", 「レチチェフからの道」を共著した、デイビット·チャピンによると、現在のウクライナ共和国ヴィニッツア県(オブラスト)は帝政ロシアのツアーリ時代のポドリア県(Guberia - グべリア)の一部であるという。同氏はポドリア地区におけるユダヤ人家系図研究家のパイオニアである。Litiu を Litin と判定するのに専門家の意見を質しておきたいと思い、ぼくは彼にメールした。下に翻訳したのは、彼の2001年9月21日付けの返事である。

 

結構なウェブサイトですね。パスオーバーの写真が気に入りました。

貴君の資料を検討してみましが、どう考えても、「ボドロスノイのリチュウ」ではなくして、「ボドリアのリチンです」 リチュウとリチン。違いは末尾の u と n ですね。ドイツ語のアルファベットは u と n の筆記体は上部に線を入れるか入れないかの違いだけです。それ以外は全く同じ字です。出身地を何もべララスの遠方に探す必要はないでしょう。パッセンジャーのリストをタイプした人が手書きの書類を読み間違えたものです。あなたの家族ばかりでは有りません。この種の例は他にも沢山あります。(後略)

 

これで先ず、リチンは確実である。この時点ではバグリノビチはまだその所在地が分かっていなかったが、「パービン」のサイトを発表するに当たって、出身地はウクライナのベニチヤ県(オブラスト)と定めて間違いない。

      

BORDERLAND

 

A JOURNEY THROUGH THE HISTORY OF UKRAINE

- Anna Reid -

「ウクライナを文字どうりに直訳すると、” on the edge",或は、"borderland" で、全くそのとうりの国である、、、」

 

上の一節は アンナ · レイド女史著作による、「ボーダーランド」の冒頭の書き出しである。同書は彼女がウクライナとその歴史を書いた本である。オン · ザ · エッヂ とは「端っこ」, ボーダーランドは 「境界にある土地」 の意味で、成るほど、東ヨーロッパの最先端の奥に位置するウクライナにはふさわしい名前である。レイド女史の書き出しはなかなか魅力があるのでいま少し続けてみる。

「平坦で肥えた土地が宿命的に侵略者の魅惑を唆して来たウクライナを、17世紀から18世紀の終わりまで、ポーランドとロシア帝国の2カ国が分割、19世紀にはオーストリアとロシア帝国の2カ国が分割、第一、第二の両世界大戦中にはロシア、ポーランド、チェッコスロバキア、ルーマニヤの4カ国が分割した。ここは、1991年にソビエット連邦が崩壊するまで、一度も独立した事のない国だったのである。

暴動、内戦、ポーグロム、飢餓、粛清、ホロコスト

アンナ · レイド女史はウクライナの歴史を一冊の本に纏めるに当たって、ボーダーランドと言う地勢の特異さがその土地の受け継いできた遺産、− 暴動、内戦、ポーグロム、飢饉、粛清、ホロコストと言う歴史をつくり上げた事を指摘。その特異性が更には、そこに住むものに共同体を持つと言う自覚のない、希薄で曖昧な国家意識しか残さなかったと言う。

人の住む土地の地理的環境がその人々の政治的な生活に与える影響が大なる事は当然の事である。当然ではあるが、あまりにも悲惨で極端な暴力の歴史を持つウクライナを語るものは、その地理的特異性を持って説明せざるを得ないほど、残忍な過去を持つ国柄だと言う事だろう。

国柄と言う言葉すら使いがたい。国と言う国体ができてから未だ10年の年月しか経っていないのだから、共同体としての統一性、そしてその自覚がないのも当然である。そこに住むものを代表する言語、習慣、宗教、規律と言うものに「自覚」がないのだから。

ウクライナ語という古くからの言語は成るほどある。しかしその言葉を使用して生活に必要な意思の疎通を図る人口に限度があり、同じウクライナ人とは言いながら他の言葉を使って生活が成り立っている共同体が別にあるところでは、ロシア語を話す隣人達は必ずしも異邦人ではないのだ。

ぼく個人の心境を語ることが許されるならば、ウクライナは未来の国であると言いたい。いまは未だ個性のない赤子みたいなものなのだから、年を経て成長し、無事成年するよう祈るしかないものである。

アンナ · レイド女史は面白い事を指摘している。ウクライナ国の隣国の人たちはウクライナ人という国民が居ることに実感をもっていないと言う。ロシア人に言わせれば彼らはロシア人で、ポーランド人に言わせれば彼らはポーランド人なのだから。

ぼくにはるばる最新のロード·マップを持ってきてくれたウクライナ人の学生、ブラドミル君を相手にぼくは、ウクライナの未曾有な将来性を語って聞かせたことがある。

「肥えた土地に恵まれた大平原があるのだから、国の経済を支えるのは交通機関の機動性である。先ず高速道路を施設して、都市から都市の距離を短縮すること。高速道路沿岸の町村にガソリン·ステーションを増設して市民が自家用車を持てる環境を作り上げる。市民一人一人の生活が豊かになれば国も豊かになるのだから。」

ぼくはこれでも熱弁をふるっていたつもりだったのである。しかし、ブラドミル君のほうは、一向に熱してこないのである。黙って聞いていたが、とうとう、呆れて物が言えないと言う目つきでこういった。

"You don't understand, Mr. Yamaguchi"

今考えれば、ぼくが無知だからこそそんなことが言えたのであった。しかし、そのときは、さすがに白けたぼくの態度を気の毒に思ったのか、こういいなおしてくれた。

"You don't understand their mentalities."

彼の言うのには、ウクライナの生活は百年一日が如しで、百年前の生活がいま尚続いていると言うのだ。そんな生活のある人たちのメンタリチーに訴えて、フリーウェイとかガススタンドのアイデアを与えても、マイカー需給の促進に結び付けようがないと言うのだ。

ぼくはふとマリー·アントワネットが言ったと言う逸話を思い出していた。

「貧乏人はおなかを空かしていると言うが、おなかが空けば、おやつを食べればよいのに!」

アメリカと言う恵まれた国で生活するのに慣れてきたぼくみたいなものが、ウクライナと言う悲惨な過去の洗礼を受けてきた土地に住んできた人たちを理解しようとしても、それはマリー·アントワネットのメンタリチーになるほど、ぼくらは幸わせだったのだろうか。

巻頭に戻る

*****

過去のウクライナ

ぼくは理由があってウクライナを知る必要があった。妻の家系図のルーツをそこに発見したからである。そこは現在のウクライナではなくして、過去のウクライナでなければならない。ぼくの指し当たっての義務は、ハイヂの曾祖父母に当たる、レイブとシャンデル夫妻が後にした郷里、ポドリアの1923年を最上限として、その年から過去に遡る事であった。そこは後ナチス、ドイツがもたらすホルコストの被害を未だ受けていないウクライナであるが、そのホルコストに勝るとも劣らないポーグロムと言う人災の災炎が延々と燃え盛る時であった。そこにはユダヤの民という異邦人が、ツアーリ、ロシア帝国の国籍をもって居住していたのだ。ユダヤ人家系図協会は、1888年にロシア政府の行ったセンサス(国定人口調査)を例にとって、ポドリア居住のユダヤ人が32万5千907人だったと記録している。同地区の総人口が247万142人であったから、その13%がユダヤ人であったことになる。

即ち、1941年のホルコストで文字どうり死滅してしまう、ユダヤ人亡きウクライナとは全く違う世界が過去にあったのである。ぼくがここに紹介しなければならないウクライナはそのときのウクライナ、そのポドリア地方である。

いま下記に抄訳したのは David Bickman 著による"Podolia and her Jews- A Brief History" である。ユダヤ人の家系図協会が同会のサイトに発刊した優秀な記事である。同URLは下記のとうり。

www.jewishgen.org/Ukraine/Podolia/Podolia_Gubernia.htm

 

 
巻頭に戻る

"Podolia and her Jews- A Brief History" 

David Bickman

ポドリアに最初に居住したユダヤ人はイタリア、ギリシャ、トルコから来たグループだったと信じられている。これらの居住者はこれと言って明確な記録を残していない。記録が残っているのは、ドイツ圏領、並びにポーランドから来たアシュケナ-ジ系ユダヤ人で、残された資料によると、1400年代にポドリアの三つの町に入居したらしい。

ユダヤ人の集団が群をなして西からポドリアへ入ってきるのは西暦1500年代である。特に1569年後、現在のウクライナがポーランド領に併合されてからの事である。1569年、約750人のユダヤ人がポドリア地区9箇所に居住していたものが、1648年、クメンリンツキーによるウクラリア人反乱が起こったときには、約4000人ものユダヤ人がポドリア地方18箇所の地区に居住した。

17世紀、ポドリアのユダヤ人の社会的階級は統治者を代表するポーランドの貴族地主達とその雇用人である自分の土地をもたないウクライナ人の百姓達の中間、中産階級とも言うべき地位にあった。

同時代のポドリアのユダヤ人たちの繁栄はやがて土地の人々からポーランドの同じ統治者と見なされ嫌われた。

クメンリンツキー反乱はウクライナを統治するポーランド貴族地主を対象にした反乱ではあったが、同時にユダヤ人も彼らの残酷な暴力と破壊行動の犠牲になった。1651年から1655年の間に1万人にも達するユダヤ人が殺害され、この間のポドリアのユダヤ人はまさに消滅するほどに到った。

1672年から1699年の間の短期間、ポドリアはオットーマンの支配下に入るが、1699年再度ポーランドとなり、、ポーランドの貴族地主が同地を統治、ユダヤ人が各地の管理人商人等の地位を占めた。

1765年には約4万5千人のユダヤ人が554箇所のポドリア地方の町村に居住した。

18世紀のポーランドは国家の衰退を招き、自領地を少しずつ隣国に取られてしまう。1793年、ロシアはポドリアを含めた、ポーランドの極東領地のほとんどを併合した。その後百年間における、ポドリアのユダヤ人の生活は宗教的迫害に関する限り、比較的平穏な時代を迎える。Baal Shem Tov による、Chassiidism (ハシズム派ユダヤ教)の誕生はこの時代に始まった。

19世紀初頭、ロシア帝国はポドリア地方を同帝国のgubernia に指定、以後ポドリア県(グベルニア)と呼ぶ。1804年、ユダヤ人は姓を持つことを規定された。それまでのユダヤ人は自分の名前と父親の名前のみを称し、姓を持っていなかった。

1827年、ニコラス一世皇帝はユダヤ人の徴兵令をを発布、18歳位の男性に25年間の使役を強制する。同徴兵の義務に先立って、12歳に達したユダヤ人は両親の手を離れて、6年間徴兵前準備の訓練を受ける事が義務ずけられる。

1791年にキャサリーン2世によって設立されたPale of Settlement (居留地の境界) はロシア皇帝政府により1835年より施行されユダヤ人は指定された居留地内のみに住む事が義務ずけられた。

19世紀のポドリアは全時代を通じて、ポーランド人が地主、工場主、知識階級など支配クラスを占め、中産階級とと商工業はそのほとんどがユダヤ人、小作農業者はウクラリヤ人にて占められていた。ポーランド人とウクライナ人の間の社会的交渉はほとんど無くに等しく、ユダヤ人はその中に挟まって常に双方からの圧力に苦しめられた。ロシア帝国政府は意識的に三者の人種的対抗を利用した傾向があった。ポーグロムはこのような社会的背景の中で頻発し始めた。(後略)

 
巻頭に戻る

 

ポーグロムの津波

俗称、「解放者の皇帝」の異名を持つアレクサンダー皇帝II世(1855ー1881)の即位中の一時期、約20年間は、ポドリアのユダヤ人居住地に経済的な繁栄をもたらした。同皇帝の即位の翌年、1856年、カントニスツと呼ばれた、12歳から18歳までの予備新兵の徴兵が改正、子供達は親元に帰ることが許された。

しかしながら、ユダヤ人に向けられたウクライナ人の反感は年々激化し、特にアレクサンダー皇帝IIの暗殺により、アレクサンダーIII世の統治が始まった1881を期して、ポーグロムの暴力は津波のように、ポドリアを含めてウクライナの全地域嘗め尽くし始めたのである。

この種の移民族に対する迫害の前例があまりない日本人には理解しがたい集団暴力であるが、ユダヤ民族の行くところ常に、反ユダヤ人迫害があった。もちろん、日本の歴史に全く例のない話ではない。関東大震災の直後、パニックにみまわれた一部の日本人集団が、韓国人の居住地を襲撃した事実がある。「部落民」と呼ばれた異人種に対する差別待遇が昂じての暴力行為としてしか例のあげようが無い。

ポーグロムを自ら経験した人たちの描写によると、地元ウクライナ人達による、暴力と破壊行動はすさまじかった。ユダヤ人の住居に侵入して家具を破壊するのは序の口で、火をつけ、家ごと燃やしたり、婦女を強姦、はむかう物は、男女の見境いなく殺害した。被害を受けた町村はポドリアのみでも63ヶ所に及んだと言う。

この集団暴力が取りも直さずロシア系ユダヤ人の大量移民のきっかけとなる次第であるが、同年1881年から1914年までの間に数百万人が米国、カナダを含めた北アメリカに移住、帰化する結果となった。政府はこの暴力を率先して阻止しようとしなかった。

問題は何故そこまでユダヤ人が嫌われたのかと言う理由である。ユダヤ人が信奉するその宗教ゆえにキリスト教徒である地元のウクラリヤ人から白眼視されたのは事実である。しかし理由はもっと他にもあった。アレキサンダー皇帝II世統治のの20年間、商工業を職にするユダヤ人が利潤を受け、裕福になったことに対する恨みを受けたのもその一つである。ウクライナが未だポーランドの統治下にあった時代も前記のユダヤ人の家系図協会の記事にもあるとうり、ウクラリア人にしてみればユダヤ人はポーランドの貴族地主の手先となって、暴利を我が物にしていると解釈された事もあげられる。

いまここで、ウクライナがポーランド領であった時代のユダヤ人はその社会的地位の為にクメンリツキー反乱の犠牲者になったことを再考してみる。彼らが何故ポーランド貴族と小作農のウクラリア人の間に入って施政者を代行する地位を得たのかと言う事である。ユダヤ人の共同体にはタルムッドやトラを読む習慣があり、その子供達を教育するに当たって、読み書きから数詞の扱い方を幼少から教育する伝統があった。結果的に小農を家業とするウクライナ人より高い確率を持って知識階級の地位を占め、当然商行為に携わり経済的利潤を収穫した。ウクライナ人のユダヤ人に対する恨みは、階級闘争の一例であったと言う見方をする人もいる。即ち迫害の対象になるのは必ずしもユダヤ人ばかりではないかもしれない。

「ユダヤ人と日本人」を書いたイザヤ · ベンダサンはその著作の中で、「われわれは迫害されたが故に人類に対して何らかの発言権があると思ってはならない」と断って、ユダヤ人に限らずある社会的な地位に置かれれば迫害を受ける可能性があると予言している。被害者が日本人である可能性もあるので引用してみる。

 
巻頭に戻る

*****

イザヤ ベンダサンの警告

前述のように、迫害されたのは、何もユダヤ人だけではない。ある社会的位置におかれれば、その国民は常に迫害を受ける可能性がある。私はユダヤ人だから、ユダヤ人のことを語ればやはり感情が高ぶる。従ってまずインドネシアの華僑と黒いアフリカのアラブ人のことから話を進めようと思う。インドネシアでは言うまでもなく、政治、経済の機構を握っていたのはオランダ人であったが、その末端を掌握し、民衆と直接接していたのは華僑であった。オランダ人の政権が壊滅し、スカルノ大統領とその一党が政権を掌握したとき、例え彼らのスローガンや外交政策や政治的姿勢が同であれ、結局はオランダ人が握っていた権力がこの一党の手に移り、オランダ人の座っていた椅子に彼らが座っただけで、民衆も華僑もそのままであった。だがその政権が崩壊した時に、決定的な、華僑の大迫害起こったわけである。黒いアフリカでも事情は同じであった。(以下略)   「ユダヤ人と日本人」_山本書店_143頁_12章_しのびよる日本人への迫害
 
巻頭に戻る

 

リチンを襲ったポーグロム

ポドリアを嘗め尽くしたポーグロムの津波は、The Tree I, II, VI に属するパービン家の居住地だったリチンをも例外とすることなく襲った。記録によると、1919年の夏5月から7月の間に、数回連続して同市はポーグロムに見舞われている。この襲撃が取りも直さず、両パービン家をウクライナを離れさせ、アメリカ移住の決意をもたらせただけに、この事件の歴史的意義は大きい。偶々、shtetllinks.jewishgen.org/Litin/ のウェブサイトに当時の関係者が残した文書が紹介されているので下に引用する。

 
巻頭に戻る  

5月14日のポーグロム

 

政府の調査官 V.A. Guminer の報告書

 

本官はいま略奪の被災を受けた市、リチンの悲惨な状況を視察、調査を終えて帰還した。同市はリチン地区の首市、県庁べネツァ市から約30キロ、舗装された公道にて連結される。総人口1万2千人中ユダヤ人が4千人、ウクライナ人が5千人、ロシア人が2千人、そしてその他ポーランド人他の1千人からなる。同地区におけるユダヤ系と非ユダヤ系の居住人達の過去の関係は優秀だった。

 

リチン市のユダヤ人にとって、この日のポーグロムは全く予期しなかった事である。最近の各地における被災の例にもかかわらず、この市のユダヤ人がこの危機に面していると言う、兆候は言うに及ばず、その計画を上訴する情勢はまったく見受けられ無かった。にもかかわらず、5月14日の前夜、シェルペルによって組織された一団が同市に突然侵入した。同団体の規模は小さく僅か25人から50人から成る。同市守衛の屯兵は邀撃するもその一部は見て見ぬ振りして、役目を果たさ無かった。同朝、ユダヤ人を対象にしたポーグロムが発生する。リチン市近郷の町村に居住する小農、現地のものもこの略奪に参加した。ウオッカの酔いの勢いも手伝って、侵害、略奪、殺害の行為となる。その結果、100人が殺害される。

 

このポーグロムは、べネツィア臨時委員会派遣の分遣隊の介入により、近郷の町村に砲撃が加えられる事によって鎮火された。砲兵隊の介入は短時間にとどまり、同隊が去ると共に又暴民はりチンに侵入、しかし略奪は行われなかった。このたびの犠牲者は一人のみ偶々最侵入してきた一団と道で遭遇したものと思われる。この暴民の一団はその後ベニチアにも侵入しかけたが成功しなかった。リチンはその後、国際連隊とソ連邦常備隊により解除された。

 

リチン市は現在、死の町の観なり。商店はすべて店を閉じ、市の経済状態は全面的に停止の状態にある。小作農者による食物の供給は中止され、市内における貨幣による食品の売買は中止された。数日後、事態はいくらか緩和され少しずつ市外から食料が配送されてきたものの、売り手は貨幣を受け取らず、塩や他の加工品との物々交換を要求している。

(以下略)

 
巻頭に戻る  

7月18日のポーグロム

 

G. Zeidis の証言

 

リチンに住むユダヤ人共同体の中にある、沢山のサークルは率先してコミニズム運動の活動に参加しました。現ソビエット社会組織の上部階級には沢山のユダヤ人が活動しております。リチン地区居住の非ユダヤ人社会の国粋者(ウクライナ人)たちの間には沢山、ソビエット連邦の思想に反対、シェテック、サランチ、そしてカラパチ、等の団体は現ソビエット政権に反対、「ユダヤ人を殺し、ウクライナを救え」のすろーがを唱え、反ユダヤ教運動を行っております。

 

最初のポーグロムは5月14日に犯されました。侵略行為は、伝染病が流行するがごとき用に広がり、120人のユダヤ人が殺害の犠牲となったほか、約20人が負傷、10人の婦女が犯されました。以後、これらの団体による暴力行為は毎週のように繰り返されました。7月18日、ベニツィアからのヤストレフ靴工場労働者は(リチンから約3キロ離れた)ボニアガと言う農村を訪ね、穀物ほか補給品の買出しを求めました。ところが同村の農民の居住者はこれを拒絶し、これらの訪問者を追い出し更にはりチンにまで至り、7人のユダヤ人を殺害しました。

 
巻頭に戻る

 

パービン家を襲ったポーグロム

上記のポーグロムに先立つ事約2ヶ月、今ひとつのポーグロムの記録が残されている。1919年3月14日地元ぺツラ団によるポーグロムである。記録によると「ポーグロム、リチン市に発生、ユダヤ人10人が殺害される」とある。その犠牲者の一人がパービン家の家族員だったと考えられている。

彼女はサムエル · パービンの妻シーバ だった。サムエルはレイブ · パービンの弟、妻がポーグロムで殺害された時、既にアメリカにきていた。家族全員の移民を計画してその準備に当たって、単身渡米したのが1914年、ドイツがロシアに対して宣戦布告した8月1日を船中で迎え第一次世界大戦の発生の知らせを聞いた。移民船の運航は中断されサムエルは家族を迎えに帰れなくなってしまっていた。そして5年、妻、シーバの凶報をデトロイトで聞き、残された5人の子供達をアメリカに呼び寄せるために必死に奔走していた。

シーバが殺された日の記録はポービン家の記憶に残されている。下記の手記はサムエルの孫娘、ロシエル · ポービン (結婚してトービスマン)により記されたサムエル · ポービン家の悲劇そしてその後の話である。

ロシエルは祖母、シーバが殺されたポーグロムを1919年3月14日付けに起こったポーグロムに指定した。理由は次のとうりである。ロシエルの母親はサムエルの生き残った子供達のなかの一番幼少の娘ベシア (後Beverly) である。ロシエルによるとベシアは死ぬまで自分の生まれた月日を知らなかったと言う。3月14日の誕生日を必要に応じて使用していたが、その日が本当の誕生日だとは信じていなかった。

ロシエルはリチン市に残された1919年の編年史の中に3月14日のポーグロムを発見した時、その理由に気が付いたと懐古している。3月14日は母親の誕生日ではなくして、祖母、シーバの命日である。その日を忘れる事のなきように、姉弟して末娘の誕生の日と仮定したのだと。

ぼくはこの話を聞いた時、慄然とした。漢字の熟語、「嘗胆」の言葉のできた故事を思い出したからである。熊の胆は苦い事で知られている。その肝を乾燥して、軒先につるし、口に舐め、忘れるべからず過去の事実を覚えておこうとする努力の由来である。

 
巻頭に戻る

*****

5人姉弟のエキソデス

イスラエル (サムエル)の妻はシーバ·ミルスタイン、世界的なバイオリン家として知られるネイサン · ミルスタインの従妹でした。サムエルとシーバの間に6人の子供が生まれます。最初の娘フルーマは1900年に生まれですがが、1918年18歳の時、チフスに感染して死亡しました。

次女、べチア(又の名前ベイラ)はアメリカに移民後、Betty の名前で知られます。エリスアイランドでの記録では、彼女が入港した1921年8月23日、彼女の年齢が19歳、なので生まれは1902年だったと思われます。しかしながら、米国市民権申請の書類によると彼女は1939年の時点で33歳と年齢を記入しています。これが事実ならば、彼女の生まれた年は1906年となり前記の記録と矛盾する事になります。

私の祖母シーバは1919年頻発に発生したポーグロムにより、当時ぺツラ団と呼ばれた略奪者に殺戮されました。その日、祖母は子供達を近所付き合いのあった友好なのジェンタイル(ユダヤ人から見た異邦人)の家庭に預けて、家族全員で町を逃げる計画をしていました。その前に今一度自家に帰り隠しておいた貴重品を取りに行くため、長男のアルバートだけ連れて、自宅に立ち寄った時、一団の暴民に見つかってしまったのです。一部始終を目撃したべチー伯母さんさんの話では、まず、祖母のシーバが倒れ、次にアルバートに銃砲が集中したそうです、運良くアルバートはその場を逃れ、伯母は彼女の母親の介添えに駆け寄りました。祖母、シーバはべチー伯母にくれぐれも子供達が離れ離れにならないよう、責任もって、全員をアメリカにいる父、サムエルのもとに連れて行くよう頼みながら彼女の腕の中で息を引き取ったそうです。

その夜べチイ伯母は祖母を誰にも分からないところに埋めて姉弟達が隠れているジェンタイルの家族にことの状況を告げ、母親の遺言を守って、全員をアメリカに連れて行く用意を始めたのです。

まず、弟妹達を養育しなければなりません。べチイ伯母は未だ15歳の小娘でしたが、読み書きができました。隣近所のユダヤ人商人の代読、代書をするほか、家畜の売買、更にはアルコールの蒸留器を買い、ハップの実を採集してビールを作り飲酒の密売までしながら生活費を稼ぎました。

伯母の妹や弟達をかくまってくれたジェンタイルの家庭には男の子がおらず、下の弟のシャーマンを養子に貰えないだろうかと頼まれた事もあったそうである。高い金額を払うからと言う頼みであったが、べチイ伯母は祖母との約束があるからとそれを断じて断ったそうである。

アメリカ行きのための準備は、秘密裏の内にプライベイトの代理店を通じて行われました。伯母とその弟妹には同行者ができ、まず隣国のポーランドまで逃亡しなければなりませんでした。

リチンを脱出する数日前、偶々、手に取り上げた榴散弾の破片が爆発してた叔父のアルバートが大怪我をした。喉首が破れて重傷となったのです。べチイ伯母は昔、しょうじ麻痺に罹ったとき世話になった医者の下に60キロの道のりを馬で駆けつけ、アルバートの一命を取り留めました。リチン脱出はそのため2週間遅れたそうです。

伯母とその弟妹達はロシヤ領側のボロチスクに到着。そこはガリチア側のポドーヲロチスクから河一つ隔てと所です。伯母は妹達をあたかも小作農者の娘達がマーケットに行くかのような服装に変装させ、弟達は森の中に住む地元の伯母さんに頼み込み、川を泳いでアルバーとシャーマンを対岸まで連れて行ってもらいました。ユダヤ人の男の子は12歳に成ると予備兵役に参加しなければならないので政府の役人にみつからないように気をつけなければなら無かったのです。シャーマンは無事河をを泳ぎわたりましたが、アルバートは体力が充分に復活しておらずやっぱり駄目でした。やむを得ず、アルバートはあたかも小作農者の子供がポーランド国の医者の診断を受けに行くという形振りに、身を固めて、どうにか国境を超えることができました。べチイはそのとき小作農業者のむすめに変装しておりました。ポーランド滞在中はアメリカ行きのパスポートを申請、許可が下りるまでに1年以上かかりましたが、とにかく目的地のアムステルダムまで到着、そこから、SS フィンランド号にて出立、1921年8月21日エリシアイランドに着く事になる訳です。

べチイ伯母はポーランドで移民の許可が下りるのを待つ間、同地のポーランド人医師から求婚を申し込まれたそうですが、彼女には妹弟をアメリカに連れて行かなければならない使命がありましたので、断ったそうです。

 

 
巻頭に戻る

 

同じルーツを共有する

トレイドとデトロイトのPERVIN

ポービンの5人姉弟の母、シーバが不幸な死を遂げてから、ニューヨク港に到着するまでに丸2年半の月日がたっている。シーバの孫娘に当たるロシェルの素朴な手記は、家族の寄り合いで、暦年、折りに触れ、時に触れ、繰り返し繰り返し語り継がれてきた物語であろう。いたずらに感情を高ぶらせるような表現を使わず、淡々と事実のみを正確に反復する文体が、叙述される内容が強烈な逃避行であるだけに胸を打つ。

ユダヤ教にはユダヤ歴の1月16日に行われる「過ぎ越しの祝い」 − パスオーバーの名の祝日がある。祝日と書くと誤解があるが、むしろ、被災の経験を思い起こす為の記念日である。モーゼが申命を受けて、エジプトからユダヤの民を引率して、神の「約束の地」へと脱出した出来事を記念、ユダヤの民が如何に苦労したかと言う教訓を子女に口承するための、宗教日である。この脱出をエキゾデスという。

べチイとその妹弟のポドリアからの脱出も、規模は小さくともやはりエキソデスである。ぼくの想像では、姉弟5人の物語は例年パスオーバーの席で語り継がれた神聖な口承の習慣だったのだと思う。

同姉妹の話をここに引用したのには、実は理由がある。この姉妹とぼくの妻、ハイヂの先祖は基が同じであった事が証明されたからである。確証は彼女達が乗ってきた移民船に残されたシップ · マニフェストに記録されてあった。まず下に彼女達のパッセンジャー · リストを転載する。

 
巻頭に戻る  

ポービン姉弟のパッセンジャー · リスト

パッセンジャー名

先住地 

到着日

年齢

1)   Abraham Perevin

Kupiel, Poland  08-21-1921

15

2)   Basia Perevin Kupiel, Poland  08-21-1921 11
3)   Betia Perevin Kupiel, Poland  08-21-1921 19
4)  Krejla Perevin Kupiel, Poland  08-21-1921 14
5)  Samuel Perevin Kupiel, Poland  08-21-1921 17
 

     1代目の名前は レイブ · ニコライアベス · パービン

巻頭に戻る パッセンジャーの3番目にリストされた Betia が一番年上の Betty であるが、彼女の欄の先住地に彼女達の伯父の名前 レイブ · パービンがリチン市に未だ滞留していると記録されてあった。このレイブは2年後に妻、シャンデルはじめ3人の子供を連れて移民してくるレイブ · パービンと同一人物である。レイブの家族はオハイオ州トレイド市に住み着くが、地理的には、ミシガン州のデトロイトは州は違っても、隣町だ。

トレイドの家系Iのほうには,レイブ · ヤフダとその妻、シャンデル以前の系図がまったく残されていない。一方、デトロイトの家系VIのほうには、その家主、イスラエル · サムエルの父の名がシュメイルその又父の名前がレイブ · ニコライアベスとはっきり残されてあった。毎年、家族の寄り合いの席上で、語り続けられてきた伝承によると、レイブ · ニコライアベス · パービンは幼少の時、露帝ニコライ1世の兵役徴集を担当する組織に捕まり、無理やり、徴兵の義務を強制された。旧ロシア帝国の徴兵の義務は厳しく、男子18歳のものは25年から終生の使役で、特に12歳の男子ユダヤ人は4年間の予備兵役の義務がある。12歳になったユダヤ人の子供を徴集する組織, khapers は実は人攫いをする人たちでユダヤ人共同体の中にあった。普通は子供の親達が賄賂を使って、その使役を逃れることができたが、身寄りのない、あるいは貧しい家庭ではその余裕がなく、泣く泣く、子供達を失ってきたと言うのが実情であった。Cantonists, カントニスツと呼ばれた予備兵役の子供達は実は帝政ロシア政府がユダヤ人の改宗を目的にした政策でもあった。すなはち子供達はギリシャ正教のキリスト教の教育を受けた次第である。ユダヤ人の共同体の中には年間定まった数のカントニスツを招集する義務があり、決められた数の子供が集まらない時は、人攫いまでしてノルマを達しなければ、その町のユダヤ人全員の責任となるという背景があった事情がある。

 
巻頭に戻る

 

*****

兵役を完了したユダヤ人に与えられた恩賞

第1級市民権と土地

 

ニコライ1世統治のロシア帝国では当初、ユダヤ人が徴集兵の過半数を上回ったこともあった。しかしながら、兵役の厳しさが知られると、当然、徴兵を忌避するものが跡を絶たず、やがて自分の身体を故意に傷つけて兵役を避るという悲惨な忌避が始まる。徴兵年齢になる前に町を逃げ出す子供達も跡を絶たなかった。

あたりまえの事だろうが、25年の兵役を完了するユダヤ人の数は少なかった。もちろん目出度く、完了したユダヤ人もいた。パービン家第1世のレイブがその一人である。当時はユダヤ人が自分の土地を所有することは許されていなかった。しかし兵役を完遂したユダヤ人には第1級のロシア帝国市民権がおり、恩賞として、自分の土地が与えられた。

もちろん、レイブ · ニコライエブ · パービンも例外ではなかった。レイブにはリチン市郊外にかなり大きな土地が支給された。レイブはそこに甜菜砂糖製造の工場を建て、ブルジョア ユダヤ人として裕福な余生を送ったそうである。

 
巻頭に戻る

 

*****

ビーツ(甜菜)の砂糖精製工場を経営

 

ぼくはこの話をはじめ本気にしなかった。はなしが少しうますぎるし、童話じみていたためである。しかし、ものは試しと、妻の実家では一番年長者でもあるハイヂの父親に笑い話のつもりで話したのである。義父はしかし笑わなかった。記憶を探るように熟考していたが、その話を義父の父、つまりハイヂの祖父、マックスから聞いた事があるというのだ。ぼくはたまげた。ロシアに自分の土地を持つ事が許されたユダヤ人がいたというのか!

マックスは前述のとうり、14−5歳の頃渡米したがその記録はまったく残っていない。何か傷害事件に巻き込まれて逃げてきたと言う噂もある。義父が言うにはその傷害事件は実はマックスの父親が所有、経営する工場で起きたものだという。そしてこんな逸話を話してくれた。マックスはマックスの父親、叔父、その他多数の雇用者達が砂糖を作る工場から帰ってくる日を怖がっていたと言う。工場は歩いていける距離にあったが、道程がかなりありので、ウイークデイは工場に宿泊して、週末になると全員がサバテを祝うために帰ってきた。マックスの父親、レイブ · ヤフダ は大変癇癪もちだったらしく、帰ってくると、未だ推さないマックスに辛く当たり、叩いたり、怒鳴ったりした為である。傷害の話は義父は知らなかった。

砂糖製造工場の存在は、マックスの弟のジョセフの一人娘、バニースからも確認が取れた。レイブ · ヤフダは確かに土地と工場を持っていた。しかし、ウクライナにおけるユダヤ人迫害は日増しに募り、ジェンタイルに売ってしまわなければならなかったのだそうだ。

 

          *****

頭に戻る

アシュケナージ系ユダヤ教の命名法

東欧出身のアシュケナ-ジ系ユダヤ人の社会には、生まれた子供の命名に当たって、面白い習慣がある。孫息子が祖父の名前を継ぐのがまずその一つである。一所帯に同じ名前をもつものは、年長のほうは既にこの世にいない。即ち近親者からファーストネイムをもらうのが習慣であるが、その名前をもつものが未だ生存していたらそれができない。これはもちろん迷信だが、もし同じファーストネイムを持つものが、同じ家族にいた場合、迎えに来た天使(エンジェル)が間違って年下の方を連れて行ってしまうからだという。この話は実感がある。義父のミドルネイムがアロンである。息子が生まれたとき妻は義父の名前を頂いてアロンと名付けて、後で義父からかんかんになって怒られた経緯がある.

カルフォニアでは子供の名前は出生した時点で、病院のアドミニステレーションが出生届を代行してくれるので、義父に知られて、怒られたときには後の祭り、既に遅かった。望むらくは義父がなくなるとき、迎えに来るエンジェルが間違えないように祈るばかりである。

話が横道にそれたが、レイブ · ヤフダの祖父の名が同じくレイブだということは蓋し、あり得るべき事であるので、まさに家系の確証を得たと同じことだった。偶々、名付けの習慣を言及したので、スラブ社会に広く普及されている、ミドル · ネイムの意味を紹介させてもらう。俗に言う patronymic - ペイトロニミック(父名)であるが、ミドル · ネイムは父親の名前である。例えば、サムエル · ヤコブイッチ · パービンと言う名前は ヤコブ · パービンの息子サムエルという意味である。これは、アシカナジ、ユダヤ人の慣習と同じく、Zeb Ben Yakovはヤコブの息子ゼブと呼ぶ次第である。つまり Ben の後ろに来る名前が父親の名前であると言う事は、家系を調べるものには大変便利で、ウクライナくんだりまで、墓参りを思い至った動機の一つとなる。

デトロイトに移住してきたサムと、劇的なポドリア脱出を決行してきた5人の姉弟はその後、姓を正式にパービンからポービンに変更する事になるが、彼らには貴重な家系図の記録が残されてあった。もちろん口承ではあるが、それをシンヂイ · トービスマンの手記から下記に引用する。シンヂーは前述のロシェル · トービスマンの姪、例の5人姉弟の一番末娘、べバリーの孫娘に当たる。

 

 
巻頭に戻る

  デトロイト ブランチに残された口承

私の家系はデトロイトに発祥しましたポービンのブランチです。

ここに紹介する、家系の歴史は私どもの家庭で語りつながれてきた口承の伝記であります。

初代、レイブ · ニコライアベス · パービンは幼少の折、露帝ニコライ1世により(拉致されるようにして)兵役に召集されました。彼は後、抜群の成績にて退役、広い土地と第1級市民権の褒章を授かりました。ほとんどのユダヤ人の子供達は、兵役中ギリシャ正教の教育を受け改宗させられましたが、レイブはユダヤ教を守りとうし、退役後もユダヤ教の祭式の執行を続けました。レイブ · パービンの子供達のうち長男シュメイルが父レイブの土地並びに、甜菜砂糖工場を世襲する事になりました。その砂糖製造工場は一名、ロザンスキー · サッカリン工場と呼ばれます。所在置は旧露帝国、ポドリア県(グベルにア)にありました。

シュメイルには沢山の男の子が居りました。次男が私どものご先祖のイスラエル · パービンです。イスラエルは次男でしたので、土地と工場を受け継ぐ事はできませんでした。イスラエルは会計係を勤めながら、長男、レイブ(一代目のレイブと同じ名前です)の下で工場の経営を助けておりました。イスラエルは週6日間工場で働き週末になるとサバテの儀式を行うために家族の下にに帰ってくるのです。イスラエルの子供達はサバテの日にはお父さんの帰りを待ちきれず皆で弁当もちで工場からの帰り道まで出迎えに出かけたそうです。

 
巻頭に戻る

SABBATHE (サバテ) = 安息日

ジュウデオ、クリスチャン、モスレムは週1日の安息日を厳守する。ユダヤ教は土曜日、モスレム教は金曜日、キリスト教は日曜日がそれぞれの安息日である。ユダヤ教では金曜日のサンセット、夕陽が地平線に落ちた時を期して始まり、来る土曜日のサンセットまで一切の就業から身体を休ませる習慣である。

 

 

 

砂糖製造工場と土地を手放すパービン家

デトロイト ブランチの口承は読んでいても楽しい。サバテの儀式に間に合うようにに帰ってくる、父イスラエルを待って、彼の子供達が挙って弁当もちで迎えに出かけ、通い道にて待ち合わせる話が印象ぶかい。情緒豊かなに劇化された幸せな家族円満のシーンが、紫がかった地平線に落ち行く夕陽を背景に展開されるのを思い起こす。

一方、トレイドの方のエピソードは対照的である。父、レイブが帰ってくるのを恐れ子供達はその夜の来るのを忌み嫌ったと言う。イスラエル(サム)とレイブの家庭の違いには明暗の差がある。トレイドのほうには現実の生活の厳しさ、暗い人生の翳りがあった。両者ともにポドリアのユダヤ人共同体の生活を代表する情況である。

口承の方には当時のアシュケナ-ジ派ユダヤ人に共通した、ある慣習を暗示している。すなはち、イスラエルは次男だったので、土地と工場を継ぐことができず、長男のレイブを補佐して、その会計係を勤めたという。レイブとその子供達の渡米は5人姉弟を遅れること2年、1923年である。ぼくの気になったのは、一体誰がレイブの土地と工場を受け継いだかと言う問題である。レイブとその家族がニュウヨークに入港したときのシップ · マニフェストに拠ると、レイブにはボーノといういま一人の息子がリチンに残っていたと言う記録がある。仮にこのボノがレイブの長男だったとすれば、何故、ボノはリチンに残り移民しなかったのかその理由がはっきりするのである。即ちパービン家の土地と工場の遺産を受ける資格のあるのはボーノを置いてほかにいなっかからである。

一方、トレイドの方には別の口承が残っていた。それによると、レイブがリチンを去る時、その土地と工場を、ジェンタイル、つまり非ユダヤ人、近所のウクラリア人に売らねばならかったという話である。

 

 

 

巻頭に戻る  

    ホテルに訪ねてきた謎のユダヤ人 

   〜 ぺテルスブルク 余話 〜

 

些かハリウッド製のミストリーじみていて恐縮ではあるが、ぺテルスブルクを舞台にしてこんな逸話が残されている。

妻、ハイデには4人の従姉妹が居る。その一人、事情があって本名は使用できないので、ここでは単ににパービン女史と呼ばしてもらう。彼女がまだ結婚する前の事で、まだ結婚前の姓を名乗っていた時だった。1989年の事である。パービン女史はビジネスでぺテルスブルグのあるホテルに滞在していた。そのホテルに、中年のユダヤ人夫婦が訪ねてきたのだ。同女史はフロントからの内線で、彼女と同じ姓名のパービンを名乗る客が来ているという知らせを受けて直ぐロビーに下りて行った。

客は英語をまったく解しなかった。女史のほうもロシア語は話せなかった。ただイエデッシを少し片言で話せたので、何とか客の訪問の理由だけは理解できたそうである。二人は女史の近い親戚だと名乗った。彼女を二人のアパートに招待したいという。女史はさすがに返事に窮した。親戚を名乗られても、女史の方にはまったくその知識がなく、それが本当かどうか確かめるすべもない。アメリカ人旅行者と知ってのたかりかもしれない。アパートに来いといわれてもはじめてきた都市とあって西も東も分からない。見受けたところではまったく敵愾心のない好人物とも思えたが、面識のない他人についていく事がいかに剣呑な事であるかを考え逡巡せざるを得なかった。ぼくに言わせると、そこが如何にも冒険好きで度胸のある、パービン家の女性らしく、結局は二人についていってしまうのである。ぺテルズブルグの地下鉄はその深さから言うと世界一である。文字どうり地下のどん底を走る地下鉄線を乗り継ぐ事、一時間あまり。ようやく親戚だと自称する夫婦のアパートにたどり着く。大都市の真っ只中に在って、自分のいるところが皆目分からない事が如何に恐ろしい事であるかこのときはじめて思い知らされたと、女史は述懐している。話をあまりミステリーにしたくないので、結末を先に話すと、女史は数時間後無事にホテルに帰りつく。もちろん例の二人に送ってもらっての話である。では二人のアパートで何があったのか。パービン女史によると彼女はそこで彼女の従姉妹達に紹介されたらしい。ぼくとハイヂにすればこれほど大変な発見はない。同女史も大変エキサイトしたらしい。しかし、そこで彼女が頼まれたのは、アメリカ永住の為のスポンサーになることだった。この種の問題は片言の言語で検討できるものではない。経済的、政治的に詳細に定められた書類を作成して、なおかつ移民を専門にする弁護士を雇って行動しなければ、女史の社会的地位をもリスクする事になる。結局彼女にはこの問題の複雑さを説明する事もできなかったいう。見知らぬ町で見知らぬ血縁者に遭遇したが、まったく何も分からず仕舞いでいとまごいをしなければならなかったと言う。

このエピソードが在ってから。十数年が過ぎた。パービン女史は訪れた二人連れの住所も書き留める事もできなかった。ホテルで別れたとき数枚の書類を渡されたらしいが、それも何処かに紛失してしまったらしい。ハイヂとぼくは躍起になって、ペテルスブルグにいるはずのパービン家を探した。最近になってようやく、パービン姓を名乗るアパートを2箇所探し当て、電話をしてみたが電話番号は古く、該当する住居人とは連絡は取れなかった。手紙も出してみた。やはりなしのつぶてではあった。若しこの謎の訪問者が本当にパービン家の親戚であったとすれば、それはぼくの作成したトレイド系のパービン家系にない家族が存在した事になる。レイブとシャンデルには13人の子供が居り、その後の行方のわかったものが、僅かに5人しかいないのであるから、当然ありうる事である。パービン女史の話では当時、ソビエット領内のユダヤ人のイスラエル移民が容易であったところから、ぺテルスブルグのパービン家はそちらのほうへ行った可能性が強いと言う。

 

 

        

 

ベニチア県内に残された砂糖工場のリスト発見

ぼくのウクライナ帰化人学生、ブラダミル君に頼んで、ぼくはパービン家が手放した土地と砂糖工場がいまも残されているかどうか、調べてもらう事にした。ブラダミル君には偶々キエフに住む弟がいた。幸い不動産関係を管理する政府の役人だった。名前をチムール君という。コンピューターのデーターを探して、簡単に現在稼動中のビーツ砂糖工場のリストを探し出してくれた。ところがなんと、同県内に51箇所もの工場があることが分かった。

困った事にはパービン家が所有していた頃の住所がはっきりしない。リチンとバグリニブチの近辺にあったというだけでは、砂浜に失った鍵を探すも同然、どうにもならないのである。ぼくらの計画ではチムール君に頼んで、その工場の写真を取って来て貰いたかったのであるが、彼に言わせると、50箇所もある工場を100年も昔の記憶をたどって探すのは不可能だと言う。これは頼んだぼくのほうが迂闊だった。やむをえないが、僕自身、腰を上げてウクラリア探訪の企画を立てねばならない。ポドリア紀行の案はかくして出来上がった次第である。

工場の名前を下にリストしてみる。この中から一つ昔、ユダヤ人が所有したと言われる工場を探し当てなければならない。

 

 巻頭に戻る
ВІННИЦЬКА СПЕЦІАЛІЗОВАНА КОНТРОЛЬНО-НАСІННЕВА ЛАБОРАТОРІЯ ПО 
ДЕРЕБЧИНСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
ДОБРОВІЛЬНА КОМЕРЦІЙНО-ГОСПОДАРСЬКА АСОЦІАЦІЯ "ВІННИЦЯЦУКОР"
ДОСЛІДНО-СЕЛЕКЦІЙНА СТАНЦІЯ ІНСТИТУТУ ЦУКРОВИХ БУРЯКІВ З 
ЧОРНОМИНСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД АСОЦІАЦІЇ "ВІННИЦЯЦУКОР"
ЯЛТУШКІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
УКРАЇНСЬКА АСОЦІАЦІЯ ПО ВИДОБУТКУ ВАПНЯКОВОГО КАМЕНЮ ДЛЯ 
ДОСЛІДНЕ ГОСПОДАРСТВО "АРТЕМІДА" ІНСТИТУТУ ЦУКРОВИХ БУРЯКІВ 
ЯЛТУШКІВСЬКА ДОСЛІДНО-СЕЛЕКЦІЙНА СТАНЦІЯ ІНСТИТУТУ ЦУКРОВИХ 
 СІЛЬСЬКОГОСПОДАРСЬКЕ ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО ПО 
 СІЛЬСЬКОГОСПОДАРСЬКЕ ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО ПО 
 ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО МАХАРИНЦІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО БРОДЕЦЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 СІЛЬСЬКОГОСПОДАРСЬКЕ ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО 
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО КОРДЕЛІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО СТЕПАНІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
БАЗА МАТЕРІАЛЬНО-ТЕХНІЧНОГО ПОСТАЧАННЯ "ВІННИЦЯЦУКОРПОСТАЧ"
ГНІВАНЬСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО НЕМИРІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО СИТКІВЕЦЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ОРГАНІЗАЦІЯ ОРЕНДАРІВ ЦУКРОВОГО ЗАВОДУ ІМ.ЖДАНОВА
ІЛЛІНЕЦЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
БАБИНСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО КАМ'ЯНОГІРКІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ПО ВИРОЩУВАННЮ НАСІННЯ ЦУКРОВИХ БУРЯКІВ "КАМ`ЯНОГІРСЬКЕ"
 ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО ПО ВИРОЩУВАННЮ НАСІННЯ 
ГАЙСИНСЬКИЙ ЦЕГЕЛЬНИЙ ЗАВОД АСОЦІАЦІЇ "ВІННИЦЯЦУКОР"
 ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО СОБОЛІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ПО ВИРОЩУВАННЮ НАСІННЯ ЦУКРОВИХ БУРЯКІВ "СОБОЛІВСЬКЕ"
 ОРГАНІЗАЦІЯ ОРЕНДАРІВ БРАЇЛІВСЬКОГО ЦУКРОВОГО ЗАВОДУ
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО "СОСНІВЕЦЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД"
 ПО ВИРОЩУВАННЮ НАСІННЯ ЦУКРОВИХ БУРЯКІВ "СОСНІВСЬКЕ"
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО "ШПИКІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД"
ТОМАШПІЛЬСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ЯМПІЛЬСЬКА АГРОПРОМИСЛОВА АСОЦІАЦІЯ "ЯМПІЛЬЦУКОР"
 ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО КИРНАСІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО ОБОДІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
СІЛЬСЬКОГОСПОДАРСЬКЕ ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО ПО 
 ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО ПО ВИРОЩУВАННЮ НАСІННЯ 
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО КАПУСТЯНСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО СОКОЛІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО КРИЖОПІЛЬСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО ЧЕЧЕЛЬНИКСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО БЕРШАДЬСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 СІЛЬСЬКОГОСПОДАРСЬКЕ ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО ПО 
ВИЩЕОЛЬЧЕДАЄВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ОРЕНДНЕ ПІДПРИЄМСТВО ВЕНДИЧАНСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО МОЄВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД
 ВІДКРИТЕ АКЦІОНЕРНЕ ТОВАРИСТВО ПО ВИРОЩУВАННЮ НАСІННЯ 
ВАТ "УЛАДІВСЬКИЙ ЦУКРОВИЙ ЗАВОД"
САТ ВІДКРИТОГО ТИПУ ПО ВИРОЩУВАННЮ НАСІННЯ ЦУКРОВИХ БУРЯКІВ 

 

 

 

巻頭に戻る                                       次頁に進む