ポドリア紀行

目次

イントロダクション

図のエリスアイランドのウェブサイトからパービン家系登場まで 

セクション I

ポドリア巡礼: 墓参りと取材旅行をかねる

セクション II    

  キエフ: ウクライナ共和国の首都

セクション III

巡礼行:パービン家の発祥地 ポドリア

エピローグ

キャプテビチ(囚虜)、デアスポラ(離散)、 ピリグリメジ(巡礼)、シオニズム(建国)考

 

2004年の夏である。7月5日から7月21日の2週間、妻のハイヂを伴って、ウクライナ共和国は首都キエフの西南、約256キロ地点にあるビニッチァ(オブラスト) 地区、旧名ポドリアを訪れる機会に恵まれた。3年余を費やして企画した、念願のパービン家、発祥地の巡礼である。そこは旧ロシア帝国領、ユダヤ人居住地として指定され"Pale of Settlement"とも呼ばれたユダヤ人文化の繁栄した特異な土地であった。かつてはイエデッシ語でシュテッテルと呼ばれた老舗のあったところである。ぼくらの目的地はバグリノビチ、シャログロッド、そしてリチンである。バグリノビチはオハイオ州トレイド市に移住してきたレイブ パービンの出生地。シャログロッドはその妻、シャンデルの出生地。そしてリチンは両夫妻とその子供達が渡米までに居住していたというシュテッテルである。しかしウクライナは東ヨーロッパにあって、アメリカのテキサス州にも匹敵する広大な土地である。首都キエフにしかない国際空港に着陸後、バス、鉄道の公共機関を利用すれば一日がかりの旅程になる。幸いにも教え子のブラッド · ボンダレフ君も同行を承諾、通訳と道案内の役を引き受けて呉れることになった。彼には一人、弟のテムール君がキエフに在住、偶々自家用車を一台使わせて貰えるということで、ボンダレフ君には「運ちゃん」を加えて、一人三役の役割を勤めて貰うことになった。当初の計画ではキエフを出発後、真西にジトミル迄135キロ、真南にベルデチェフを経てビニッチャまで125キロ、ビニッチャでホテルを探してその周辺にあるパービン発祥の村町を10日間がかりで訪問する予定だった。

失われたシュテットル、

ユダヤ人町の跡を尋ねる

〜 旧ロシア帝国、ウクライナにあった妻のルーツ

 

山口法美

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セクション III  巡礼行

パービン家の発祥地、 ポドリア

上の写真をクリックすると画像は拡大、英文の絵解きが入ります

出発の朝

サンフランシスコ発 UNITED FLT 16

月曜日 7月5日2004年   08:00 AM   

 

 

 

 

 

7月4日はジュライ · フォース、 アメリカの独立記念日である。今年は同祭日が日曜日と重なったので、7月5日の月曜日も休日になるという珍しい年になった。助かったのはフリーウエイのトラフィック(交通量)が全く無いということだった。サン · フランシスコ近郊は、平日の朝、6時から8時までのラッシュがすさまじい。ぼくらの住むダンビルからサン ·フランシスコの国際空港に行くのに2時間以上はかかる。例の 9-11のテロ以来、国際便の乗客はデパーチュアーの2時間前にチェックインするように指示されてるから、フライトは8時だが、6時には空港に着かなければならない。普通ならば朝3時には自宅を出る所である。幸い休日とあって、SFOのエアポートまで1時間足らずで行ける。朝、5時に家を出ても充分に間に合った。

朝4時起床。45分後には自宅を後にすることができた。

事情があって、ハイヂの飛行機は航空会社もフライトも別便である。彼女はキエフまでの一人旅で、向こうで落ち合うことになっている。事情はこうである。今回の旅は3年がかりの計画だったから、同行3人の飛行券は10ヶ月前に購入してある。マイレージを貯めて、無料で旅ができる方法がある。最近は何処の航空会社にもあるマイレージ · プラスである。妻は旅好きで月、一 · 二度は航空券を利用するから、3年間節約することで、弟子のブラッドの航空券を含めて、計3人のキエフーSFO間の往復券が只で入手できた。残念ながら、マイレージは数ある航空会社を集計しての事だったので、ハイヂは、BRITISH AIR WAY ぼくとブラッドはUNITED AIR LINE と利用する飛行便は別々になってしまった。ハイヂはイタリア語、フランス語は自由に話すが、さすがにロシア語には疎い。一人旅を東ヨーロッパでさせるのは少し気にかかったが、航空機が英国の会社なのだから、機内は英語で通用するからということで、ぼくも強いては反対しなかった。

ハイヂの便はSFOからロンドン経由、そこで一日宿泊する。翌日、ロンドンからキエフ迄の直便なのでぼくより1日遅れることになる。幸い出発はぼくと同じく7月5日、ぼくの便の1時間後に出るスケジュールだったから、家を出るのは、同じ車で同じ時間で済んだ。航空券を手にした段階では、息子のアロンはまだ車の免許証を取っていなかったので、自家用車を丸2週間、何処に駐車しておくかという問題があった。幸い出発2週間前に、息子が晴れて免許を取ってくれたので、彼が車を運転して帰れることになり、長期のパーキング料を浪費しなくて済む。

ぼくの旅のいでたちといえば、息子から借りたバックパックを背中に、妻のハンドルと車付きのスーツ · ケースを手に、身軽にしてきた。巡礼行とはいえ、取材もかねての事だから、カメラもデジタルと使い慣れたキャノン、それに記録映画用のカム · コードも必要になると考えて、荷物になるがやっぱり持ってきた。ぼくは旅はあまり好きでなく、慣れてもいなかったが、この旅ばかりはわがままも言えない。カメラ用のショルダー · バッグを左右の肩からかけて、いささか大げさな立ちずまいになり、おもばゆい思いだった。不思議な話しだが、60年前の満州からの引き揚げ時代を思い出していた。

午前5時50分 SFO エアポート着。

飛行場の United のカウンターは早朝にもかかわらず、もみ合うような混雑を呈していた。同行の弟子、ブラッド君は時間どうり待ち合わせた場所に1分の狂いもなく、やってきた。朴訥な男で、信頼の置ける学生である。この旅は彼がいなければおそらく企画できなかったことだろう。もともとウクライナの地図をもってきてくれたのが彼なのである。

留守番役のアロンはいたって愉しそうだった。そうだろう、2週間、親の監督なしに、自宅を独占、2台の自家用車を好きに乗りまわせるのだから。ハイヂとは1日の別れだが、少し心配である。無理に笑顔をみせ、キエフにての無事再会を約して、ぼくとブラッドはメタル · デテクターをくぐってゲイトに向かう。予定ではぼくらはキエフに着くまで合計3便の乗り換えになっていた。まずニューヨク迄, United の16便。ニューヨクは Kennedy 空港から国際線、独逸の Luftansa 航空 407 便に乗り換えて、フランクフルト迄。最後は、同じく Lufthansa で 3236便、フランクフルト から キエフまでのフライトだ。

サン · フランシスコの離陸は予定どうり、08:00 AM. ニューヨーク迄4時間55分、午後、5時無事着陸。スケジュールでは5時半着の予定だったが着陸は30分早かった。乗換えが多いと、気になるのはフライトからフライトの乗り継ぎの連絡である。ニューヨクでは1時間20分の待ち合わせで連絡がうまくいくかどうか心配だったが、まずは順調な出足である。後で気が付いたことだが、ケネデイ空港はドメステックとインターナショナルのターミナルが遠く離れており、ターミナル 7 からターミナル 1 に行くのにモノレールで20分かかったので、ニューヨーク着が時間どうりだったら危ないところだった。

おかげで待ち合わせの時間に余裕が出来て、ターミナル1 の国際線のゲイトでは、ブラッドはDUTY FREE の買い物もできた。話が前後するが、ウクライナ訪問に当たって一番喜ばれるみやげ物はアメリカ製の煙草だと聞いていた。ぼくは出発一日前、市販のキャメルを2ダースほど買ってきておいたが、DUTY FREE では特に煙草の場合安くつくということで、ボンダレフ君は土壇場まで土産の買い物を控えて来たわけである。しかし、ウクライナ入国に当たって持ち込める煙草の制限が聞く人によって話が違う。没収されるのを覚悟で彼も2ダースのカートンを買い込んでいた。確かに市販よりははるかに安かった。

ケネデイ空港からの離陸は予定では東部海岸時間で午後5:50分、フランクフルト到着は翌日朝、7時20分延べ7時間余の飛行である。大西洋を横断して東ヨーロッパの入り口まで行くのだから当然ではある。昨年もロンドンに行く必要があって、空路、大西洋を飛んだが、眠れなかった。今度もそうだった。考えてみれば、アメリカは西海岸と東海岸では3時間から4時間の時間差があるから、機内は翌日の朝でもサン · フランシスコはまだ前日の真夜中にも達していない。眠れ訳がない次第である。

最近の空のたびは、サービスの質も落ちて、バス旅行にも等しくなったが、LUFTHANSA 航空は悪くなかった。アメリカ人の旅行客には悪評高い、フランク · フルト空港も、何故、人気がそんなに悪いのか怪訝に思うほど、良く秩序が整っているように見受けられた。行きはヨイヨイ帰りは怖いで、帰りはそうはいかなかった。帰りはポーランド航空で、ワルショー経由だったのでフランクフルとでちゅうけいできなかった。悪夢を思わせるような帰り旅となったがこれは後の話である。行きはフランク · フルトでの乗り継ぎも順調で、翌朝、07:20分着、2時間待って、最後の便、Flight 3236 にて、一路、キエフのボリスポル国際空港目指して離陸した。この行程で、初めてではあったが、離陸が30分ほど遅延するというトラブルがあった。この遅延で思わぬ恥をかくことになったのである。

キエフ行きのゲイトはボーデングが遅れたために旅客がゲイトの待ち合い室には入れきれず、通路にまであふれていた。満員電車で新聞を読む訓練のできているのは、日本人しかいないであろうが、実はその混雑の中で、「朝日新聞」か、「毎日新聞」か忘れたが、日本の新聞を両手を肩の上まであげて、読んでいる東洋人がいた。まず日本人に間違いがないが、まさかキエフ行きのローカル線に、日本人の旅客がいようとは、想像もしていなかった。これはてっきりキエフ在住の、数少ない日本人の有志だとかんぐった。面識はなかったが、ウェッブのホーム · ページを通じてメールの交換をしている数人の日本人の一人だと思い、近付いて挨拶をしたのである。ぼくは渡米以来、人生のほとんどをアメリカで送っている。他人を捕まえて数年来の友人かのような会話をすることにも慣れている。当然なことであろうけど、相手の日本人にはそれは通じなかったようだ。バタ臭い日本語を話す、なれなれしいぼくの態度に辟易されたようだった。キエフ在住の方で、東京まで行って帰ってきた、という事情までは分かったが、話は弾まず、ぼくは失礼をわびて彼の傍を離れた。キエフには日本食のレストランが既に入って営業している時代なのだから、日本人にあって驚喜するぼくのほうが阿呆なのである。実はその翌日、数人の日本人サラリーマンをあるレストランで見かけたり、観光客には良く知られた、洞穴カタコームの寺院で数十人に及ぶ日本人観光客にもで出合う始末となった。日本人にはキエフは東ヨーロッパの最果ての地ではなかったのだ。ぼくの見識の低調さを曝す一巻とは相成った次第だが。旅の恥は掻き捨てる他にはあるまい。

フランクフルト空港 · ゲイト A 52 · フライト 3236 · キエフ行 09:35

幸い間もなくボーデングが始まった。飛行券を購入した時期が早かった所為か、行きの3便はそれぞれ、便利なシートに恵まれた。ファーストクラスと同じキャビンで、トイレの往複も狭いアイルを延々と歩く必要がない。

これが最後の便である。のこり僅か2時間半。終着港、キエフ - ボリスポルが次。

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セクションIII