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〜 旧ロシア帝国、ウクライナにあった妻のルーツ 〜 山口法美
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キエフは東欧最古の「古き母なる都市」とまで言われたウクライナ共和国の首都ではある。 ロンドン、パリ、ローマも「古き都」である。しかし、西欧のロンドン、パリ、ローマには人災が齎せた歴史の悲劇が忘れ去られている。そこが、常に専制君主たちの勝利の舞台であった為、勝利者のシンボルとしてのイメージが人災の歴史的な後遺症を緩和し、恰も無かったかのごとき印象を与える所以であろう。
一方、キエフの歴史は悲惨である。キエフを語ろうとするものは、この古都に残された戦乱の被害の傷痕を語る時、しばし躊躇せざるを得ない。人災の深い爪痕をその街区とそこに住む人たちの心に垣間見ての事である。それは恰も、今日、訪れて目のあたりに見る「広島」、「長崎」の被爆の残影を語ろうとする者の感想に匹敵するだろう。 「広島」、「長崎」の経験が日本人を含めて全人類の心に残した刻印はなるほど惨い。しかし両市ともに被害は一回のみで終わっている。キエフはしかし同じ悲劇を歴代、反復して、蒙ったのだ。 西暦1240年ジンギスカンの孫、バッツウ汗は当時、パリと同じく8万余の人口を誇るキエフを攻略、都は全焼、ほぼ全市民が焼け死んでしまうのがその始まりである。以後、リスエニア公国(1362年)、ポーランド(1569年)、コサック(1648年)そしてロシア帝国(1654年)の相次ぐ侵略のため街は崩壊、無実な生命がその犠牲となった。 近世は20世紀に入るにおよび、その被害は更に深まる。ボリシヴックによるロシア革命を期して始まる内乱、独立運動、スターリンによる粛清、第二次大戦はナチス独逸の侵略を経て数百万人の生命が消え去る。人命は蝿、蟻の昆虫程の価値ももたずに奪われ、或は射殺、或は生焼き、或は又土中に生き埋めにされていくという生き地獄の情景が白昼の日課となった。
残されたホロコーストの爪痕 さて、今から書かなければならない話は、実はしたくない。あまりに悲惨で、残酷な行為が人間の行為として現実に起こったことに、同じ人間として恥ずかしく、悲痛を覚えるからである。しかしこれを書かなければ、東欧系ユダヤ人、アシケナジの民の苦痛は分かって貰えまい。ぼくの妻はその犠牲者の末裔の一人である。ウクライナ全国に起こったナチス独逸部隊によるホロコーストの話は耳にたこができるほど聴いて来た。ぼくはしかし意識的にその記録映画や実録の写真を見ないで済むように、逃避してきたことがあった。しかしこの紀行文を書くに当たって、さすがに無視すること事態が犠牲者に対して礼を失することに気がついて、意を決して、世に知られるウェッブサイト http://tfn.net/holocaust/online/babiyar.html を訪れその記録写真を見たのだ。 誤解の無い様、書き添えておきたい。ぼくは人の行いの残忍性を認識することではうぶな子供ではないつもりである。ホロコーストほどの大規模ではなかったが、似たような経験を満州で経験してきている。まだ9歳の少年ではあった。人のかばねが山をなす奉天の5条道りを日夜歩き回り、偽煙草の行商をしたこともある。食べさせるものも無く死んでしまった妹の死体を背中におい、荒野を歩きに歩いたこともあるから、死人の感触も身をもって知っている。母と幼い弟とともに妹を荼毘に付した。だから人間の肉がどんな臭いなのかということも覚えている。 そのぼくでさえ、バビイ · ヤールの記録写真は正視できなかった。恥ずかしい話であるが、不覚にも嗚咽がこみ上げてきて、止めるすべもなく、暫し頭を抱え、涙を隠さざるを得なかったのだ。 バビイ · ヤールはキエフ郊外の北にある渓谷の名前である。そこで、1941年9月29の早朝から翌30日の夕刻の36時間中に3万3千771 人のユダヤ系民間人が、ナチス独逸ソンデルクコマンド4A部隊の手により全員全裸にされて射殺される。死体はその場に掘られた塹壕に突き落とされ射殺を免れた者も生き埋めにされたのだ。見るものの胸を切り裂くのはいたいけない子供達と婦女の処刑である。一糸纏わぬ老若女の一団が恰も昆虫の群れのごとく殺されている写真はまさに生き地獄の様である。 その日以来同、渓谷はソ連POW 、ユダヤ人の処刑場と化し、更に数千人の人命が略奪される。大戦後ここで処刑されたユダヤ人の数は10万人余に達したといわれる。アウシュビツのホロコストを知らぬものはまずいまい。しかしアウシュビツより数年前にウクライナで起こったホロコウストを知らない日本人は意外と多いのではあるまいか。もちろんキエフばかりではない、キエフが陥落する前までに既にレビブ(同年6月30日)、ベルデチェフ(同年7月15日)も落ち数万人に上るユダヤ人たちはキエフ同様、惨殺されていた。ベルデチェフでの処刑は目撃者の話を聞いただけでも、身震いを覚える。生きたまま土に埋められた女子供のうめき声が夜を徹して聞こえたのだと。 この一連の記録写真は妻ハイヂには見せておかなければならなかった。ウクライナ行きを決めた時、一番気になったのはこの旅がハイヂを不愉快にさせる旅になるかもしれないことだった。キエフとベルデチェフにある昔のユダヤ人地区は訪れるつもりであったから、歴史に残された「バビイ · ヤール」と「ベルデチェフの骨」の話は彼女にも知っておいてもらうべきだと思ったのだ。ぼくの家ではホロコストの話題は意識的に避けられてきたので、家族員の間でも、互いに、誰がどれほどその知識を持っているかという事すら知らなかった。 ぼくらの旅の目的地はリチンだから、ウクライナ入国は航空便の場合、キエフ経由が一番適している。ということは、キエフにまず滞在、ポドリア地区の元シュテッテテルの町々を訪問するのが、誰でも考える旅程だろう。キエフの市内に入っておきながらバビイ · ヤールを無視するべきではあるまい。不自然だからである。何もできないが、二つある記念碑に花束を一つずつ供えるのが、最も自然な礼節と思えた。しかしそれをするには、まず、妻に説明しておかなければならないことである。ある夜ぼくはその計画を話してみた。予想どうり、彼女はバビイ · ヤールの話はよく知っていた。 「家族のお墓参りなのだから、あそこにもいかなければならないとは思っていたの。気は重いけど、やはりするべき事はしておかなければね」 ハイヂはそういってぼくの計画に納得してくれた。そのとき、ぼくは思い切って、その記録写真を見てもらった。詳細な記録はぼく以上に知っていたが、写真だけはぼくがそうだったように、彼女も敬遠してきたのだそうだ。 妻は泣かなかった。涙一筋流さなかった。モニターを食い入るように直視した横顔を、ぼくは一生忘れないだろう。彼女の属する民族の血と肉を食い荒らし、迫害するアンチ · セミチストの暴虐行為を無表情に凝視するとき、妻はぼくの手と感情を離れ、はるか遠く一人で毅然と立つ他人に見えた。「顔面蒼白になる」という日本語の表現があることを、ぼくに思い起こさせた。 ぼくは思わず、座りなおして、居住まいを正した。 「どうせ殺されるのならば、なぜ必死に逃げてみなかったのかしらね」 暫くの沈黙を破って、一言、そう呟いた。そういった時の彼女は、見慣れ、聞きなれた、ぼくの愛妻に戻っていた。ぼくはほっとした。彼女はもう他人ではなかった。妻がぼくの腕に戻ってくれたかのような安堵感ではある。 記録によると、1941年9月28日、キエフ市内の街角の要所、要所に下記のような掲示板が表示されたという。
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キエフが独逸の第29師団と第6師団の手に陥ちたのは上の告知の出る10日前、同年9月19日のことだった。そのキエフ戦ではソ連邦側は計66万5千人に上る5個軍師団、全てがが投降、ナチス独逸の捕虜となった。戦役史上最高の軍隊降伏者数である。 キエフ市内に駐留したナチス側の師団はそれぞれ明渡されたビルを占領、仮の作戦本部を設置していた。ところがその建物が同月19日突然次々と爆破され、ナチス側に思いがけない被害を与えることになる。戦後、明らかにされたところによると、爆破したのは降伏したソ連邦、NKVDと呼ばれた秘密コマンドが仕掛けた時限爆弾によるものだった。ユダヤ人の民間人にはまったく関係ない、軍事工作の一つであったのだ。 独逸占領軍は26日臨時軍事会議を開き、これを市内に残っていたユダヤ人の責任だと決め付けた。全員を逮捕し殺害することにして、上に前述した告示を掲示した次第である。 キエフより先に落ちた、レビブ、ベルデチェフでは既に、数万人に上るユダヤ人が処刑されていたのだから、これは、もちろん、体の良い言い訳である。理由は後で何とでもつけられる。ユダヤ人を虐殺することが、ナチス独逸司令部にあって、事前に計画されてあったのだ。もちろん処刑されたのは、ユダヤ人だけに限らない。ウクライナ市民も組織的に次々と処刑され、その数は15万人を超えている。意外と知られていないのは、ナチス軍隊のキエフ攻略の時、スターリン足下のNKVD秘密コマンドは、逃走に先立って、レビブに収容されていたウクライア人思想犯約1万9000人を処刑してから逃走した事実である。死者は交戦の結果によるばかりではなかったのである。 Shmuel Spector 著の Encycropedia of the Holocaustに掲載されたBabi Yar の記事抜粋はウェブサイト www.zchor.org/BABIYAR.HTM で読むことができる。 その抜粋によると、1941年9月19日のキエフが陥落の日、同市には16万人のユダヤ人が住んでいたということである。そのうち10万人はナチス軍団が入市する前に市の脱出に成功している。ということは9月28日に掲示されたユダヤ人に対する告示が公表されたとき少なくとも6万人のユダヤ人が同市に残留していたということだ。だから、バビイ · ヤールで行われた集団処刑で殺された3万3千7百7拾1人は逃げ遅れた半数だったのだ。妻が怪訝に思ったのも当然である。決して全てのユダヤ人が殺されるのを待って従順とと死んでいったのではないはずである。下に9月29日の朝8時に告示に従って集合してきた、ユダヤ人集団の運命を同抜粋を翻訳して紹介する。
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ボルヒニアのヨルサレム 旧ロシア帝国のボルヒニアはポドリアの真北、その首都、ベルデチェフはキエフの南西、186キロに位置する。現在のウクライナ共和国、ジトミル郡(オブラスト)ではあるが、かつてはキエフを凌ぐ、ユダヤ人の街、「ボルヒニアのヨルサレム」とまで呼ばれた。記録に残された、1765年の人口調査によると同町とその近郷に住むユダヤ人の数は1千,220人。24年後、1789年の国勢調査では1千,951人だったのが、1847年には一躍、2万3千160人、1861年には、4万1千617人に増加、モスクワについでロシア帝国第2のユダヤ人住人の町になっていた。ユダヤ人はその他の住民の80%を占めていた。 18世紀に入り、街の興隆とともに、沢山のユダヤ教学者はベルデチェフのラビとして就任、ここは、ボルヒニアにおける敬虔派ハシデズム温床の地として知られることになる。ここにはハシズム派運動に活躍した著名な指導者達が埋葬されている。中でもラビ、アイザック · レビの名前は最も顕著である。 ボルヒニアはもともとポーランド貴族のもので、18世紀の終わり、ポーランドが、プロシア、オーストリア、ロシア帝国の三つに分割されるまで、その支配下におかれた。ベルデチェフの繁栄は、同ポーランド貴族の保護によるもので、1732年、町の領主公爵淑女のテレサ · ザウィシャがユダヤ人による衣服仕立て屋のギルドを公認したことに始まる。1765年、ポーランド国王スタニスラウ布告により、定期「市」が立ち、以後年に4回「市」が開かれ、毛皮、絹物、金属木製の器物、海産物、穀物、そして牛馬の売買が行われるにいたり、ユダヤ人の人口は年々増加した。19世紀全般の町の交易は全てユダヤ人商人によって独占されるに到る次第である。ユダヤ人によるさまざまなる貿易会社や銀行業が創立されるのもこのときである。ユダヤ人は近郷の貴族地主の土地経営のエイジェントとしての地位を占め、その土地の産物は年四回開かれる「市」で売買されたわけである。 1863年の反乱はポーランド貴族地主をボルヘニアから追放、ポーランド王国の貴族制度はその為に没落の憂き目を見ることになるが、それは同時に地主のマネジメントを代行してきた、ベルデチェフのユダヤ人租界の通商に打撃を与えることになった。更には1882年に発布された、露帝ニコラス2世によるユダヤ人拘束の法令のため、ベルデチェフのユダヤ人の経済的な地位は衰退の道をたどるところとなる。20世紀の初頭、一時は6万5千人のユダヤ人の人口が記録されているが(1912年)、カナダ、米国向けの移民開始とともに、僅か13年後の1926年には3万812人に減少、1941年7月7日ナチス独逸がベルデチェフ攻略したとき、約3万人のユダヤ人が居住していた。同9月15日、2万人余のユダヤ人が処刑されるが、一説によると約6千人が処刑を免れまちから逃走したという。 パービン家系図の内、モスクワ、カナダ、米国のピッツバーグのパービンは全てベルデチェフの出身である。モスクワ パービンの第一代、サムエル · パービンはベルデチェフにて水の行商をしていた。彼の息子、サムエル(モスクワ パービン)とゼブ(ピッツバーグ パービン)はともにベルデチェフ生まれで、カナダのアロン(モントレオール)とモイシェ(トロント)は毛皮商人の息子で同じくベルデチェフ生まれである。幸い19世紀末には既にそれぞれの移民先に居住していたので、1941年のホロコーストは免れている。バービー · ヤール同様、いずれのパービン家への直接な打撃は無かったとしても、ホロコーストの犠牲がポーランドデ発見される数年前に、既にソビエット領ウクライナで始まっていたことを知って貰うために、ここに敢えて紹介する次第である。
ワシリー · グロスマン (1905−1964) ロシア近代文学に「ラーゲリ文学」と名付けられた、特異なキャタゴリーがある。スターリン粛清時代の強制収容所(ラーゲリ)をテーマにして書いた作家陣である。ボルシヴィック革命以来、ロシアには数千万人にのぼる思想犯が「ブルジョアジー」、「人民の敵」という汚名を受けて、強制収容所に送られた。同作者達は施政者たちの粛清の真の動機を究明して、思想、政治、権力の問題を文学の立場から提起したもので、「人生と運命」で知られるワシリー · グロスマン(1905−1964)はその代表的な作家である。 グロスマンはベルデチェフ生まれのユダヤ人ではあったが、早くからモスクワで教育を受け、大学卒業後、一時期ドンバスの炭鉱にて、化学技師として採用された。第2次世界大戦勃興とともに、ソビエットの従軍通信兵となって従軍、著名なスターリングラッド防衛戦をはじめ、カールスクそしてベルリン陥落にいたる取材をして知られた。赤軍反転の途上、彼は解放された旧ソ連邦の町々に残された、大規模なホロコウストの跡を発見、ナチズムの残虐行為を報道した初の報道員となる。ベルデチェフに居住していた母親もまた、犠牲者の中の一人であったことを知ったグロスマンはあらためて自分がユダヤ人であることを自覚、一時は真摯な社会主義信奉者、ソビエット市民であることに勤めたこともあったが、これを契機として、アンチ セミチズムの不条理、更には母国ソビエット全体主義体制に対して批判するに至り、党幹部の顰蹙を買う結果となる。短編「ベルデチェフの町にて」は当時、ソビエット文芸界の巨匠として知られた、マキシム ゴーリキの絶賛を得て、新進作家としての地位を確立するが、彼の数々の作品は政府の不興するところとなり発売禁止となる。 |