ポドリア紀行

キエフ (古き母なる都)

翌日(キエフ着)

ボリスポル国際空港 LUFTHANSA FLT 3236

曜日 7月6日2004年   01:00 PM   

 

 

 

 

 

キエフ上空 ドネプル河

 

キエフ上空から垣間見た景色は圧巻であった。旅は嫌いだが私用であちこち旅行してきたから、飛行機から見る地上の景色は見慣れてきている。何処の都市でも、それぞれ違いはあっても、千差万別、慣れてしまうと、同じようなもので、「ああ綺麗だな ...」ほどの印象しか受けないものだが、キエフの上空は特筆に価した。手にしたデジタルのカムコードをビデオに切り替えてしまったので、上に掲載した、お粗末な航空写真しか紹介できないが、大きな湖が二つも三つも重なり合うように横たわるドネプル河。黄金色(コガネイロ)に輝くロシア正教特有な寺院が林立する左岸に、延々と続く、深緑の森。青、黄、緑のコンストラストが、これほどまでに美しく組み合わされたパノラマを見たことがない。 今となっては瞼の裏に残る記憶ばかり。その写真をお見せできないのが残念。ウクライナ共和国の首都、キエフはボリスポル国際空港、着陸5分前であった。

何処の国に行くにも、入国に当たっては、税関を経由しなければならない。慣れない旅行客には頭痛の種でもある。ぼくの経験では、入国の申告はスチュアートの指示で、着陸前に機内で済ませるものと理解していた。フランクフルトからキエフまでは2時間半の旅程であるから、申告書の書類を書き入れる時間は充分にあるはずだったが、とうとう着陸するまで何の御沙汰もなかった。

離陸は遅れたが、遅れはアジャストされてキエフ着はスケジュールどうり、現地時間で、7月6日午後1時。サンフランシスコ時間では、未だ同日の午前1時とあって、さすがに眠気を覚えた来たところだが、遠来のキエフが眼下に見えるとあっては眠るわけにはいかない。胸の高鳴りを意識する。SFO を離陸してからまる17時間、飛行時間は3便を合計して14時間30分、SFO - 成田を往復して長距離の空のたびには慣れてはいたが、見知らぬ国、更には治安の悪さでは、とかく悪名高い旧ソ連圏への初の訪問である。身の締まる思いではあった。

ボンダレフ君を伴って、機外に出ると、予想どうりそこは税関用の申告所だった。目前に大きなコンベアのベルトが稼動して、乗客のラッゲイジが自動的に入ってくる。ハイヂから借りてきたスーツケースは直ぐに見つかった。念のためと、緑色の風呂敷をハンドルに結んで目印にしておいたのが役立った。運が良いと自分に言い聞かせる。サンフランシスコを出る前に、日本人のホームページに到るまで調べたところによると、チェック · イン したはずのラッゲージがなくなったり、中身が抜かれてあったりすることが多々あるということなので、自分の荷物が無事に手にいるまで、あれこれ、妄想するものである。 米国内でもスーツケースが他所の飛行場に行ってしまうこともあるのだから、気にし出したら、きりがない。

他の国際線も入港したのであろう。広大な施設も延々と続く、旅客の人と、波と、列。小一時間をかけて、通過したカストムズの窓口に着いて驚いた。監察が簡単すぎたのである。所持金の額を聞かれただけで、バックパックもスーツケースも開けろとも言わない。アメリカから成田、ロンドンに行くのと変わりがない。

"Welcome to the Republic of Ukraine !" 検察官がアクセントのある英語で挨拶してくれた。ぼくは自分の耳を疑った。

「ボルショイ、 スパシーボ」 慌てて、こちらも応答したものの、些か拍子抜けの格好になった。

ぼくの後ろについていたボンダレフ君も直ぐ追いついて来て、ニヤニヤ笑っている。手にしたパスポート振りながら、”American Passport" と、嬉しそうにいう。ブラッドは来る4週間前にアメリカ合衆国市民権を取得していた。ウクライナ入国はアメリカ人としてビザを取っていたのである。パスポートのおかげで入国が簡単だったのだという。ぼくのパスポートはもちろん日本国発行である。御国のおかげだ。持ち込みの制限を超過している筈の 「洋もく」 キャメルのお土産が無事通過できた。

これがウクライナの市民、或は他の東ヨーロッパのパスポートではこうはうまくいかなかったらしい。目の前では、別の列で大声で怒鳴られているのはロシア人国籍の旅客のようだったし、自国のウクライナ人はぼくらの外国人旅客とは離れた列に並んでいたが、検察が厳しいのであろう、列は遅々として進まない。3年前ボンダレフ君が一時帰国したときは、少し複雑な事情があって、彼のパスポートはイスラエル国籍のものだった。 そのため、ウクライナ入国はできたものの、再出国が不可能になりかけたという。彼はウクライナ東端のウガンスク市生まれ、れっきなとした、ウクライナ人であったが、生まれたときはウクライナがまだソ連邦の一地方だったので、旧ロシア市民の取り扱いを受けた。今回はアメリカ合衆国発行のパスポート持参だから、はれて米国市民である。

Welcome to the Republic of Ukraine !"

と挨拶された一人である。

”Thank you very much." と答えたそうだ。彼の英語は検察官と同じく、アクセントが強い。同国人が時と所が違うと外国語で意思の疎通をしなければならないということだ。強いて言えば、そうすることで、礼節が保てるということ。

関税所を通過してドアを開けると歓迎の人の波と壁である。ひと一人がやっと通れる人壁の隙間の突き当たりに、両手を上げて飛び跳ねている、金髪の青年がいる。横のブラッドが「テムール」の名を呼んで走り出した。一見して彼の弟だと分かる。アメリカくんだりまで出て行った兄と、生まれ故郷に残って、新興の祖国で自活している弟の再会、やはり何処の国でも、肉親間の感情は同じ。抱き合って再会を喜ぶ二人を見て、心中、祝福する。

ブラッドとテムールは二人兄弟。コザックの末裔である。父親は機械工エンジニアが表向きの職業であるが、好んで自作の「詩歌」を創作する。母親はソ連邦時代からジャナーリズムを担当、独立国家の報道関係に従事している言う。ロシアはアメリカと並んで離婚率の高い国であるが、二人の両親もその例に漏れず共にウガンスクにて住んでいるが別居中。テムール君はブラッドより7つ歳下、新政府の外資不動産の官吏を経て、今では自分の会社を創始、同系のビジネスを経営している。最近結婚した奥さんの、ナタ-シャは来年はじめにおめでたの予定。

一頻り初対面の挨拶が済むと、まずはということで、テムール夫妻のアパートに向かう。一歩空港の施設を出ると、湿気の高い真夏である。なぜか昔の東京を思い出していたが、建築のビルは古く、垢抜けしないが、緑の森が眼前に広がるのが印象的。テムールの自家用車を見てたまげた。ホンダのCRV、数年前カルフォニアでもはやった、小型のバンである。ぼくが通学に使う車と同じだった。もっともテムールのは2004年版のモデルだからぼくのよりずっと新しい。

高速道路に入って、また、驚いた。道が広く良く舗装されているのだ。新興の都市ではある。復興は思ったより早かったのだ。ボリスポル国際空港はキエフ市の東、40キロ。交通量さえなければ、キエフのダウンタウンまで30分の行程とのこと。キエフ市内に入るとエアポートで何故昔の東京を思い出したのか、その理由が、分かった。終戦直後の焼け野原の一時期を過ぎてから東京オリンピックの開催を控えた1964年頃、東京は国を上げて町造りに全エネルギーを集中した。クレーンがいたるところに押しならんで、土砂利が山をなして、肌を曝さしていた時代の事である。眼前のキエフが恰も、あのときの東京みたいだった。

日本と違って道幅が広く、町並みは広々とはしているが、旧、ソ連邦(ここでは未だソビエットと呼んでいたが)独立前の古いビルが醜く立ち寂れている。ボルシビック革命は経済機構の破戒に始まった。国民の住居は生活の場であるから、生命の安全さえ保証されれば、それで目的は達せられる。ランド · スケープの美的感覚は贅沢の範疇に入り、それはブルジョアジーの意識だから、徹底的に排斥されたのだろう。矩形のコンクリートが高々と林立する建築物は全く灰色の牢獄を思わせる。取り壊して、新しく立て直すことはせず、そのままインテリア-のみ新装して、アパートにしているのだ。「美意識」を無視することが如何に人間の精神生活を阻むことになるのか、考える余裕がなかったほど緊迫した世界だったのか。

キエフはウクライナという国を自ら象徴している。石器時代から人の生活を証明する遺跡があるにもかかわらず、独立した国体を持った経験のない文化なのである。深さ6メートルもある肥えた黒土に恵まれた大草原は牧畜、農作に適し、その地に移住して来る人の波は跡を絶たず、常に民族、言語、文化のオリジンの違う異人が定住して来た。一方、行政機関を担当する施政者が、いつの時代も近隣から侵入してきて権力者で、我が物顔で、住民を酷使、土地を占有する。自分のものはいつかは他人に取られて、元も子もなくしてしまう歴史だけが、そこに住むものの歴史に残った次第である。

テムール君は英語を良く話す。ドイツ語のほうを使い慣れているそうだが、再会の兄、ブラッドとは英語とロシア語をちゃんぽんにして話す。細君のナタ-シャが入ると会話はウクライナ語になり、ぼくが口を入れると皆、英語になる。言葉からしてこのとうりなのだ。

テムールのアパートはデニプロ河の東岸にある。同河西岸にあるビジネス · オフイスのファイナンシャル地区の市心を避けた住宅地にあるが、ここもクレーンが林立して、町全体がレノベ-ションの真っ最中だった。十階を余る高層ビルは壁は崩れ、タイルは剥げ、色あせて見すぼらしい。中に入ると、更に酷く、2,3人の大人がやっと収まる小さなエレ-ベータ-にガタガタ揺られて、あがりついたのが8階。三所帯のアパートの一つがテムールとナタ-シャの住居。二重式の重たいドアを開けて中に入ってまたまた驚いた。見事なインテリアなのである。サンフランシスコだって、これほどのアパートはそんなにない。テムール君によれば、アパートを買って、あとは自費で改装したのだそうだ。

来る前の予定では、ぼくとハイヂは目的地のポドリアに往くまで、テムールが顧客のために別に買った、ビジネス用のアパートに宿泊することになっていた。話によると、昨日、不備の客が入って、そのアパートが塞がっているという。今晩はテムールの自宅の応接間で寝ることを勧められた。

写真は左からナタ-シャ夫人、テムール、ブラッドの順

今一度、初対面の挨拶をテムールの奥さん、ナタ-シャと済ませると、シャワーかバスを取るよう言われた。ところがお湯がなく、水は冷たいという。ぼくは困った。長旅のあとである。ゆっくり熱いバスに浸って、取損ねた睡眠をとりたいところだが、お湯が出ないとなると風邪を引く恐れがある。疲れたからまず一眠りさせて貰うといって、応接間に引き取った。大きなカウチがバネつきのベッドになる仕組みである。

キエフのエアポートに着いて以来、「見かけと本質の違い」に驚いてきた。飛行機から見た景色とは全く違って見えた。そして、これほどのインテリアを設備したアパートにお湯が出ない。日本人なら分かることだろうが、アメリカ人にはまず理解できないことだ。ハイヂはシャワーとお風呂がないと、日を過ごせない。後で聞くと、日によってはお湯が出るそうで、問題はインテリアではなくビルの構造でタンクのお湯を8階まで即刻送る設備が完備していないわけである。建物がソビエット時代の物で古いのだから、取り崩して、新築すれば、ボイラーも鉛管も新装できお湯の問題も解消する筈だが、何かが矛盾、いや、インコンシスタントなのである。

ハイヂの来るのは明日である。あすは予定された別のアパートに宿泊するのだからバスのないことでハイヂを心配することはあるまい。念のため明日泊まるアパートにはお湯が出ることだけは確認しておいた。気がかりが全くないわけではない。そのアパートがどんな施設なのか分かっていなかった所為である。ハイヂとぼくの間ではキエフにあるまともなホテルを予約するつもりであったのだが、只ですむからという、ブラッドの強いアドバイスで、ビジネス用のアパートに取り合えず宿泊することにしてあった。実はテムールからブラッドあてのメールを読むと、「あまり良い施設じゃないが...」という但し書きがあったので気にはしていたのである。予感は当たっていたのだが、それは明日の話である。

猫がいた。困ったなと思う。実はハイヂは猫にアレルギーで性が合わない。何かの事情で、明日の晩もまた、ここに泊まるとなると困る。ハイヂは猫は嫌いではないが、触れると、風邪を引いたかのような症状になるので、猫のいるところは避けなければならない。とにかく眠かった。サンフランシスコはあさ4時の起床だったから、それ以来、24時間一睡もしていない。夕食も断って朝まで寝かして貰った。

ボンダレフ兄弟は水入らずで積もる話には事欠かなかろう。明日はハイヂが到着する。明後日は特別に準備してきたバビヤールを鎮魂をかねて参拝。その次はいよいよ、ポドリア行きである。時間差を調整して生気を養っておかなければならない。旅先でくたばってしまっては、3年越しの計画も無駄になる。ポータブルのベッドを作ってもらって、横になった。玄関のドアが開いたりしまったりする物音で、めをさました。時計を見ると夜の11時。今一度眠り直して、起きると翌朝、5時だった。

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セクションIII