ポドリア紀行

 

3日目(ハイヂ、キエフ着)

ボリスポル国際空港 BRITSH AIRWAY FLT 882

曜日 7月7日2004年   01:15 PM   

 

 

 

 

 

 

朝4時起床。サンフランシスコとの時間差は12時間だから、まだ向こうは前日で夕方の4時。睡眠は充分にとり戻したのでさすがにもう眠れない。

ハイヂの飛行機が今日、着く。BRITISH AIRWAY の882便。持参のセルフォンはウクライナでは使えない。マヌュアルでコンピューターのチップを換える予定である。かの女の着くのを待ってからのことであるので、丸二日間、何も話もしていない。さすがに気になる。最近は便利になって、地球上何処にいても、いつでも、誰とでも話せる時代である。そんな習慣が災いして、電話が通じないと、今度は不便で仕方がない。贅沢な話だ。ロンドンは彼女の母親の生れた土地、勤務の関係で息子のとアロンを連れて2年ほど住んだいたので、親戚も、知人も、友人も多い。

一泊どまりなので、不都合が起こるはずもないのだから、心配するぼくのほうが悪いのである。テムールが飛行場までつれていってくれることになっているが、まだ皆眠っている時間で、しばらく暇をつぶさなければならない。

寝かせて貰った応接間の窓は今、西ヨーロッパで流行している回転窓である。上下、左右、どっちからでも開けられる。住宅街を後ろから見渡せた。UNDER CONSTRUCTIONの風景なり。終夜、工事が進められたいたらしい。ライトが煌煌と輝いて、クレーンが稼動している。日の出を直前にして夜は明けつつあった。夜を徹して聞こえていた工事用警報の理由がわかった。偶然だが前回、家族を連れて帰った来た、東京でも同じビープの音を夜どうし聞いたので知っている。1996年のことだった。眠れないので、起き上がって、夜明けを眺める。

 

あさ6時、ブラッドが起きてきた。ぼくがデナーにも起きてこないので、弟夫妻と外食して、一足先に町の見学に入ってきたらしい。彼はウガンスク生まれだが、キエフは初めてではない。しかし、長期間、住みこんだことはないから、やはり、おのぼりさんである。あれこれ子供時代に見落とした、名所、遺跡を話で知っているから、行くべきところは自分で知っている。観光客にたかる子供の群れに困ったという。そのことは、ぼくも聞いていた。ソビエットが崩落したために、未少年を保護する機関がなくなり、身寄りを無くした浮浪児達が、街にあふれているという。10歳にも満たない児童達が観光客を目当てに物乞いをするのだそうだ。中には幼い子供を持つ母親が率先して子供立ちに小銭を物乞いさせる例も増えて来た。ぼくは小銭をポケットに持って歩く予定にしていた。

そこで思い出したのが、今朝、最初にしなければならないこと、持ってきたアメリカのドル紙幣をウクライナのお金、グリブナに換金しておくことであった。クレデット · カードも使えるそうだが、間違いが頻繁に起こるというので、外国人には未だ信用がない。ぼく達はドルを現金で持っていって、現地で必要に応じてエクスチェンジする計画にしておいた。ガイドの本によると、ドル、パウンド、EURO、からのエキスチェンジは簡単にできるとかいてあったのを信用したからである。但し紙幣は新品でなければならないという。ぼくはその一文をうっかり見落としていて、銀行でもらった100ドル紙幣の何枚かがすこし傷んでいたのに気がついた時は後の祭りだった。出直していった銀行では、生憎、新しい紙幣がないと体よく断られてしまった。やむなくその紙幣を持ってきてしまったが、望むらくは、いちゃモンのつかないことである。

法定では 1$ = 5.33 グリミナ 也。しかし、エクスチェンジする銀行や立替店によって、レートが違うという。ブラッドに頼んで、朝一番に換金店につれていってもらう事にする。テムールはオフイスをキエフ市内に持っている。ハイデの飛行機は昼過ぎだということで、取り合えず、彼のオフイスを訪問、飛行場に行く前に、ブラッドとぼくは近くの公園を見て回ることした。まず、currencyの exchange である。確かにガイドの本に書かれたとうりである。銀行でなくとも、まるで日本の煙草屋サン見たいに小さな窓口付きの店が、文字どうり、何処の街角にもあった。1ドルが約5グリブナというのは便利だ。覚え易いというのでなく、ものを安く買えるからという意味である。

良く知られた、ロシア オーソドックスの寺院も少し見て回ることもできた。シタ-やグレッスリーに似たコードフォンを手に古い民謡を歌う芸人がいた。地元では「バンドラ」と呼ばれているそうだ。ぼくの年代の日本人だったら誰でも知っている曲を弾き歌っている。日本の唱歌になっている民謡もあった。昔のロシアにきてキエフでロシア民謡を聞く。なんと夢みたいな話ではないか。

キエフの国際空港、ボリスポルは二度目だから、大体様子が分かってきた。昨日は気が付かなかったが、午後1時から3時までは国際便の着陸で混雑するらしい。

午後2:30、カストムズの外で一時間と少々待たされはしたが、満面に微笑を浮かべて出てきたハイヂを見てほっとした。元気そうである。外国の地で女房と待ち合わせるような経験はしたことがない。人生いろいろなことがあるものである ...と、つまらないことに感心した。初対面のテムールと引き合わせて、また、キエフ市内に戻る。

夜はテムールとナタ-シャがあれこれ歓迎の用意をしてくれている由。まず今晩の宿泊用に準備して貰った商用のアパートに荷物を置いて、一休みすることして、行って見て驚愕。BUSINESS 用のアパートというが、とても人が宿泊できるようなところではない。もちろん、終戦直後の東京を思い出せば、野天ではなく、ちゃんと屋根つきなのだから、非常時であれば泊まることもできるかもしれない。ハイヂも驚いて口も利けなかったようだ。たまたま案内してくれたテムールが傍にいるので、文句を言うのは礼を失すると思い、ぼくもハイヂもこのことに関しては何も話さなかった。とにかく鍵は厳重にかかる見たいなのでラッゲージだけ置いて、外に出ることにした。テムール夫妻にはアメリカから持ってきた手土産もあるので、それをもって、テムールの自宅のほうに回ることにした。

ナタ-シャも仕事があって、夜にならなければ帰らない。観光もそれが目的で来たのではないから、あまり気が進まなかったが時間つぶしに、ブラッドに案内させて、キエフの市内を少し見て回ることにした。キエフは一見して、他のヨーロッパの都市と比べてあまり変わっているとは思えなかった。しかし東欧の老舗の都を、乗用車の走る近代の都市にリノベートするには期間がかかる。一夜ずけでに変革したのでは何処かに無理ができる。例えば駐車場のパーキングである。車は歩道に駐車してよいらしい。マグロが魚市に投げ出してあるかのように、各種各様の車が歩道に置かれてある。交通量から言えばアメリカの主要な都市とも変わりがなのだから、パーキングの設備を含めた都市計画をスキップしたからだろう。広々とした歩道のペーブメントが車の停車場になってしまっている。車道も広いから、東京、大阪みたいな交通の渋滞もない。しかし自家用車もコマーシャル用の車も狂ったようにスピードうぃ出している。あちこちで事故の現場を目撃した。

地下鉄に乗って古い寺院を見て回る。地下鉄といえば、ものすごく深い。エスカレーターで延々と降りていかなければならない。文字どうり「どん底」だ。セントぺテルブルグの地下鉄が世界一深いそうだが。これよりも深いというセントぺテルブルグのそれがどんなに深いのか、想像もつかない。

日本には門前町という古い社寺が発達してできた都市がある。キエフは言うなれば東欧の門前町である。あっと、息を呑むような、美しい大聖堂 (Cathedral) が林のように建っている。スラブ · ビザンチン特有のスタイルが西洋の美術を見慣れたものには特にエキゾチックな印象を与えずにはいられない。1991年の独立を期して、全面的に改装されてきたらしいが、良くこそボルシビックの手を逃れてくれたと、祝福したい思いである。こと美意識に関してはボリシビックは、生理的に無知、色盲、音痴のきわみだったのだから。

キエフは文字どうり東と西の違いを二分している。ドニプロ河西岸に立って東を見ると、延々と広がる平野にソビエット時代のコンクリートのブロックがぶざまに残っている。一方、西は緑の森の波が地平線まで続いている。ここにもインコンスタンシーが存在するのだ。

文字どうり直線を描くのは東の地平線。醜悪なコンクリートのビルがスターリンによる都市計画の成果。

ローヂナ · マチュウ

(故郷が母)

時間的スペースもそうである。キエフには古い歴史に新しい未来ができつつある、その過渡期にあったのが1917年に始まって1991年に終わりを告げるソビエット · イデオロジ-の時間帯である。矛盾はそこに介入している。

ここで、ぼくが何故、この地に発生した社会主義革命に、これほど拘るのか、告白しなければならない。日本にはある時代、マルクスを読みレーニンを語り、そして、それをインテリゲンチャの嗜みだと教わって育った世代がいた。じつはぼくはそのジェネレーションに属するのだ。ソビエット · ユニオンが崩壊した時、恰も心の底にあった、我が家の棟が、焼け落ちるのを悟る思いをしてきた記憶がある。今回のウクライナ巡礼に当たって、心の都の焼け跡を自分の目で見て来るという使命感があったのである。

この旅はぼくに思いもかけぬ教育をしてくれた。「思想」はそれがいかに優れて見えても、「思想」は「思想」以上のものではあり得ないこと。「思想」をいたずらに理想化するおこないは、人の幸わせを破戒することはあっても、万人を救済できるものではないこと。これは宗教であっても同じことである。しかし宗教を嫌って、これを粛清しようとすれば、その行いが、スターリンのメンタリテーとなってしまうのである。このヂレンマはぼく自身が自分で決着をつけなければならない問題なのである。今ここでこれ以上、私情を披露するのはひと迷惑である。最後に章をあらためてかくことして、ここでは今少し、キエフの寺院周りを紹介する。

典型的な観光客のコースをあるいた。マイダン · ネザレシユノスチの地下鉄をでると、そこが同名の広場になっている。キエフの中心である。名前は硬いが、インでペンデンシーの意味である。広場を横断してフレシチャ-ク街に沿って北へ歩くとドニエプロ河、沿岸の丘陵である。

聖ミハイロフスキー修道院の一帯は同名の広場がある。その南に位置するのはセイントソフィア大寺院、1030年建立、キエフ最古の寺院である。アンドレイフスキー 坂街はソフィア大寺院に向かって左翼に添ってあり、露天の市になってる。アンドレイフシキー大寺院は女帝エカテリーナのために、1749年建築された。

ぺチュ-ルスカ · ラバラはカタコーム付きの修道院である。境内には数々の寺院が建立する。その中に 1) ウスペンスキー聖堂、(写真右) 2) 吊りかね堂タワー、3) 聖人堂 等々がある。前に少し触れたがこのカタコ-ムノ中で日本人の団体観光者とあった。

ぼくはサンフランシスコに40年間住んだから坂の登り下りには慣れている。キエフの町のある一角は全くサンフランシスコの丘陵地とその地勢を同じくしていた。しかし流石に疲労を覚えてきた時は、約束の夕食の時間に近づいていた。タクシーを拾ってテムールのアパートに行く。

夕食はテムール夫妻招待で、ドニエプロ河に停泊した船の中のレストランだった。偶然だが、昔、"EAST WEST"という名のロシア映画の撮影に使われたところではあった。テーブルについて気が付いたら日本語の会話が聞こえてきた。後ろに座った東洋人の3人が日本人のサラリーマンだったらしい。昨日の失敗しているから声をかけるのは遠慮しました。

過去3年間、ブラッドからウクライナのじゃが芋は世界一うまいと聞かされてきた。キエフ着の初めての外食である、まずはとそのじゃが芋を注文する。調味料を入れると本来の味が落ちるから、簡単に蒸したのと、オブンでブロイドしたのを別々に注文した。確かに美味かった。こんなじゃが芋があるものかと思われるほど美味かった。ハイヂも同意してくれた。実は来る前からブラッドの自慢話は話しておいたのだが、信用していなかった。

食事が終わるに近ずくに従って、ハイヂの口数が少なくなり始めた。流石に疲れたのだと思っていたが違った。うっかりぼくは忘れていたが、今晩泊まることになっているアパートのコンデションを気にしていたらしい。アパートにかえって、二人だけになったとき、初めて、一言だけ聞かれた。なぜホテルの予約をしなかったのかと ...。

ぼくは10歳の時、満州から引き揚げてきた時から、臭覚を失っていた。何も匂えないのである。日赤病院に通って治療したが、臭覚はついに元に戻らなかった。だから、このアパートに着いた時、視覚のみで判断して、宿泊は無理だなという予感はあったが、ハイヂさえ承知すれば、終戦時代に帰って、一両日ほどの不便宜には目をつぶる覚悟はしていた。ハイヂに指摘されて知ったのは、室内のサニテーションが最悪の状態らしかったことである。彼女の臭覚は鋭いから、ソビエット時代のアパートが老朽した臭いを嗅ぎ臭っていた。青黴で爛れた壁は、トイレをはじめキッチン、ダイニング、ベッドルームに到るまで、手を触れるのも憚れる程、不潔な悪臭を放っていると言う。

ぼくは直ちに、ガイドブックを開いて、キエフにあるはずの観光客用のホテルを探した。ホテルは見つかったが、電話が通じない。古風なテーブルフォンはあるが、内線なのかホテルに繋がらない。ハイヂは明日の夜、泊まるホテルさえあれば、今日は我慢してここで寝ようといって呉れるが、ぼくは少しずつブラッドの無神経さに腹を立てはじていた。彼にしてみれば、宿泊代を2日間倹約することで、少々の不便は我慢して貰えるだろうと推定しての事だろうが、物事には我慢できる限度というものがあることが分かっていない。ぼくだって、今回の旅が観光旅行だとは思ってきていない。必要とあれば屋外でキャンプするぐらいの覚悟はしてきている。しかし、免疫性の全くないバクテリアやバイレスが充満しているような個室に閉じこまれて、我慢するほどの無知ではない。屋外のほうが危険性がないのだ。

とにかく今晩だけは、室内の何物も手に触れないように注意して、翌朝、朝を待って、早速、ホテルに移ることにして、眠ることにした。数時間後、ハイヂは疲れが激しかったのだろう、眠りに就いたが、ぼくはとうとう朝まで一睡もできなかった。

ウスペンスキー聖堂

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セクション III