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前夜は一睡もしてないから、気ばかり高ぶって、怒りを制御するのに手間取った。テムールのアパートで夜をあかせたブラッドから電話が入った。手っ取り早く事情を説明して、市内のホテルに移るよう手配した。彼はあまりぼくから怒鳴られたことの少ない教え子である。可愛そうに、ぼくの語調の厳しさを察して、ドギマギしていたが、わかってくれて直ぐ、タクシーで迎えにきてくれた。
行き先はHOTEL DANIEPRO である。ウクライナの外から来る観光客が多いというので、safety, security, そして、sanitation の 3S の設備を持つことを期待したわけだが、やはり部屋を見て見なければ分からない。一晩で1000.00 グリミナが最高だそうだが、米ドルで約$200.00だから値段ではアメリカの中級程度で問題はない。幸いチェックしてくれた、ハイヂもこれならば、まあまあということで、今晩一晩だけの宿泊所に決めた。 今日の予定はバビー・ヤールを鎮魂をかねて参詣することになっている。ホテルの探索で朝の貴重な時間を無駄にしたため、既に昼過だった。部屋に荷物を残して、現代史上、前代未聞の大虐殺の舞台となったバビィ · ヤールにはメトロ(地下鉄)で行くことにした。 |
バビー・ヤール 鎮魂行
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「ダイ」 「ダイ」 と連呼して手を差し伸べて来る。言葉がわからぬ振りをして、早足に擦れとうる。「ヂンギ」 「ヂンギ」と言う。「金」をたかっているのである。ふと、終戦直後の日本を思った。進駐軍のアメリカ兵に集って浮浪児が群れをなした風景だ。 ブラッドの一喝で難を免れる。慣れているのだろう、深追いはしてこなかった。 ゴジラのモニュメントを正面から見て初めて納得した。犠牲者の苦悶を象徴した「苦」の表現なのである。しかしながら、その苦しみには、惨めさがない。恰もヒーロー、ヒロインを連想させる、悲壮で劇的な苦難を暗示している。考えてみれば、それはそれでよいのだろう。この記念碑はユダヤ人婦女子の為ではなくして、あくまでも、旧ロシア軍人、ウクライナ市民の英雄的な死を誇っているのだから。 しかしここではっきりいっておきたい。英雄的な死は美意識のモチーフになる。バビィ ヤールで殺略された3万3千人のユダヤ人婦女子の死は救いの全くない無残極まりない悲惨な死である。惨めな死を美化することはできない。全く次元の違う世界のできごとなのだから。彼らの死を悼み、ただただその被災をねぎらう他すべはないはずである。ぼくらは持ってきた花束を供えて、お仕着せがましいこの記念碑を逃げるように後にして、北公園へ向かった。 |
南公園の正門を右に曲がり、西に半ブロック、更に右に折れると、出てきたメトロの入り口である。改札口を真っ直ぐ通り過ごして北口に出る。芝生がよく刈り込まれた、緑の公園である、目標の石碑は直ぐに見つかった。右に掲載した写真のとうり、ブロンズは幼、小児の犠牲者を傷む、記念碑であった。黒ずんだ黄金色に磨かれた子供達は、思はず息を呑むほど、無表情。非道な大人の手で恥辱されたお人形を連想させた。写真では見えないが、ヤマカをかぶった子供が一人、犠牲者はユダヤ人だったことも暗示していた。
ぼくにもぼくなりの苦しい思い出がある。終戦直前、住んでいた満州の自宅を避難したとき、出産して間もない、妹を背負っていた。母は過労のため、乳が出ず、間に合わせに用意した重湯のビンは土地の暴民の襲撃を受け失い、食べさせるものもないまま、ぼくの背中で餓死してしまった。 |
幸いといっては不憫だが、ユダヤ人の児童とは違い、銃弾で撃ち殺されたのではなかったから、まだ救いはあったが、飢えを訴えて、口をあけたまま硬直した死に顔には、苦悩の翳りがった。60年の年月を経ても忘れられない由縁である。それだって、性別も顔かたちも分からぬほどに、破壊されたユダヤ人児童に比べれば、まだ恵まれた死ではあった。それにしても、とぼくは思う。直接、手を下した加害者の精神状態がわからない、慄然とする。そんなことが現実にできるものなのだろうか。「鬼、畜生」と言う言葉はあるが想像を絶する話である。 |
子供達の記念碑から、処刑が実際に行われたと言う現場に向かう。ユダヤ教信者の慣習のある燭台、メノラの記念碑が目標である。当然ではあろうが、みんみんとなく蝉の声は緑樹の林に木霊して、いとも閑静な夏の昼下がりを奏でている。石畳を踏みしめて2キロの道を歩く。なぜか、息苦しく、前夜の不眠が身を苛む思いである。登りの坂を三人無言に進む。
メノラを探すのに手間取ったが、丘の上にやっと辿り着く。偶々、ガードナーが芝刈りの最中で、耳を覆いたくなるほどの雑音の中、メノラの前に立つ。後方は欝蒼とした森である。63年前、そこで、3万人余の罪の無い老若男女、幼児が身に一糸も纏うことも許されず、惨殺された。彼らがユダヤ人だからというだけの理由である。 ぼくとハイヂには奇妙な趣味があった。カルフォニアの墓地は何処も静かで閑散としている。週末には好んでセミタリ-を訪れ、墓標を読んだり、芝生に腰を下ろし、静穏ななたそがれを楽しんできた。不思議と気が静まるのであった。ところが、ここは全く違っていた。確かに緑の森林ではあったが何故か気が休まらない。気のせいか阿鼻叫喚の叫び声が、風も無い林から聞こえてくる。胸苦しさが昂じて息もできない。 ぼくはこれでも仕事柄、毎朝、2時間ほどかけてジョギングをする習慣がある。少しぐらい歩いただけで、息切れのするはずは無い。ハイヂに心配かけるといけないので、谷合の死の崖を見てくると言い訳をして、ひとりメノラの後ろにはいった。小一時間が過ぎただろうか、ぼくは谷あいに座り込み、耳を澄まし、暫し、胸騒ぎを聞いていた。森の外ではハイヂも一人、メノラの横でノートを開き、無心に何か書き込んでいた。 大事に抱えてきた最後の花束を、二人でメノラに添え、ブラッドに声をかけ、帰路に就くことにする。メノラを背にすると舗装された道が丘の下に延びている。その先には、「死の行軍」の名前で知られるメリニコファヤ街がある筈である。ぼくらは終始、無言のまま、旧ユダヤ人墓地へ下っていった。 偶然だろうか、丘を離れるに従って、息苦しさも和らぎはじめていた。 |