ポドリア紀行

バビ · ヤール (史上未曾有なるホロコースト)

 

4日目

バビ · ヤール 鎮魂詣

木曜日 7月8日2004年   01:00 PM   

 

 

 

 

 

 

前夜は一睡もしてないから、気ばかり高ぶって、怒りを制御するのに手間取った。テムールのアパートで夜をあかせたブラッドから電話が入った。手っ取り早く事情を説明して、市内のホテルに移るよう手配した。彼はあまりぼくから怒鳴られたことの少ない教え子である。可愛そうに、ぼくの語調の厳しさを察して、ドギマギしていたが、わかってくれて直ぐ、タクシーで迎えにきてくれた。

行き先はHOTEL DANIEPRO である。ウクライナの外から来る観光客が多いというので、safety, security, そして、sanitation の 3S の設備を持つことを期待したわけだが、やはり部屋を見て見なければ分からない。一晩で1000.00 グリミナが最高だそうだが、米ドルで約$200.00だから値段ではアメリカの中級程度で問題はない。幸いチェックしてくれた、ハイヂもこれならば、まあまあということで、今晩一晩だけの宿泊所に決めた。

今日の予定はバビー・ヤールを鎮魂をかねて参詣することになっている。ホテルの探索で朝の貴重な時間を無駄にしたため、既に昼過だった。部屋に荷物を残して、現代史上、前代未聞の大虐殺の舞台となったバビィ · ヤールにはメトロ(地下鉄)で行くことにした。

バビー・ヤール 鎮魂行

 

バビイ · ヤールの惨劇はその事実が世に知られてからまだ 日が浅いためだろうが、西洋でも知らない人が多い。ましてや日本に於いておやである。独逸は第二次大戦中の同盟国だった。軍の情報部関係者の間では知っていた軍人も居たかもしれないが、仮に知っていたとしても、それがヒュ-マニテイ問題の常識を逸する行為だったと認識ができるほど、詳細な数字を調べた者は恐らくいなかったと思う。百歩譲って、軍司令部では知っていたとしよう。しかし犠牲者がユダヤ人だったことが災いして、ナチス独逸の行為を批判の対象にしようとしたほどの良識者は皆無だったと思う。

事実を正確に報道するのは、ジャーナリズムには欠かすべからず、プリンスプルである。仮に同盟国、ナチス独逸の軍事行動であったとしても、バビイ · ヤールで行われたユダヤ人処刑を自分の目で見たものならば、殺されている人たちの、人種、宗教、顔かたちの違いに関わらず、慄然として正視できる光景ではなかったはずである。仮にユダヤ人を憎む正当な理由のある人でも、殺されていく人たちが一糸も纏わぬ裸体では、殺人を正当化できる判断ができなかろう。しかも、ほとんどが婦女、子供だったのである。ユダヤ人ホロコーストが当初、批判の対象にならなかったのは、その事実が正確に報道されなかったからに他ならない。 何故、報道されなかったのか。

理由は沢山あるだろう。まず同盟国者、同国者、家族の者ならば事実に目を瞑るだろう。一方、ソビエット側はナチス独逸の侵略を受けた当事者である。ところがスターリンはホロコーストの事実を意識して隠蔽した。その理由を追求するのはここでは控えて、まずぼくが知った事実から書きたい。

かってのソビエット市民、今のロシア人、ウクライナ人ですらウクライナで行われた、そのホロコーストを知らない人がほとんどであった。英米国軍にリバレイトされアウシュビッチではユダヤ人ホロコーストの報道が即刻全世界にされたから,このホロコーストに関す限り日本人ですら、誰でもよく知っている。しかしウクライナで行われたホロコーストは、最近ようやく日本でも読まれ始めた、ユダヤ系ロシア人作家、ワシリー · グロスマンでさえ、自分でベルデチェフのホロコーストの跡を見るまで、信じていなかったのである。彼は、ソ連邦「赤軍」の従軍記者だったから、軍事機密にはアクセスできる立場でありながら、自分の母親が犠牲者の一人だった事実を知って初めて、ソ連邦の政権上層部の政策に気が付いたほどだった。同上層部は徹底的にユダヤ人ホロコーストの事実を隠蔽しようとしていた。天井桟敷に置かれてきた一般市民がその事実をウクライナ独立の1991年までしらなかった由縁である。

ソビエット連邦政府はM. Lysenko の作品であるブロンズのモニュメントを1976年に建立、これを公式な、バービィ · ヤール事件のメモリアルとして発表した。添えられた石碑に、「侵略者、独逸 ファッシストは1941年から1943年、ここで10万人を上回るキエフの市民並びに War Prisonersを銃殺にした。」 と記されてある。ロシア語、ウクライナ語、イエデッシユ語の三つのプレ-トがあるが、ユダヤ人犠牲者のことは、イエデッシ盤を含めてその言及がない。施政者の意図は明らかである。集団殺戮の事実は認めても、その対象がユダヤ人という特定のコミュニテイだった事実の説明は意識して、避けているのである。

バビイ · ヤールの真相は結局、市井の有志の篤志家、詩人、音楽家、小説家たちの出現を待たなければならなかった。

"Nad Bab'im Yarom pamyatnikov net." の一節で始まるYevgeny Yevtushenko(1933−) の BABI YAR は音楽家 Dmitri  Shostakovich (1906-1975) の目にとまって、同作詞に曲が創られてできたのが、ショスタコビッチの第13交響曲である。スターリンの死後9年、1962年12月18日の初演となった。一方、散文学界にあっては、George St. George(1904-?)の"The Road to Babi Yar", Anatoly Kuznetsovの "Babi Yar", Vasily Grossman 編纂の "Black Book", そして、ナチス側の記録を編集して、Lucy Dawidowicz が発行した"A Holocaust Leader"等々がある。

中でも、キエフで生まれ、偶々、12歳の少年だったAnatoly Kuznetsov (1929-1979)の作品は自分が目撃した事実に他の生き残りの被害者の証言を加えて、記録小説にした作品だけに、必読の本である。ところでこれらの作品は書き下ろしで発表されたわけではない。当局の検閲を避けて、国外で発表したものが、1980年代を過ぎて、晴れて本国のロシアでも発行されたものだった。

イェブツセンコ、グロスマン、クズネトフたちが施政者の顰蹙をかったのは、彼らが当局が率先してカバーアップせんとする、ナチスの暴虐行為を暴いたばかりでなく、これを隠蔽しようとするソ連邦当局の態度を厳しく、批判したが故であった。グロスマンに到っては、ナチス ファッシストの行いは鬼畜の残虐行為であるが、ソ連邦当局の行いはこれに勝るとも劣らない残虐行為に等しいと追及した。

時と事情如何よっては、真実を歪曲しても許されるという古い考え方があった。日本人には意外と受け入れられ易い考え方である。ホロコーストは確かにヒュ-マニテイに反する行為であるが、間違いは人間の習性にも繋がるのだから、柔軟性のある感覚をもって観察すべきことである、というビジョンである。そんなことを言う人たちには、真実を正視して他の人にそれを的確に伝えるという責任の問題は絶対に分かって貰えない。かりに今、あなたが、一人の人間が幼児の首をひねって殺すところを目撃したとする。あなたが正常な感覚をお持ちの方ならば、よもや、人は罪深いものなのだからといって、見て見ぬ振りはできないはずである。見てみぬ振りをするのは、見た事実に対決する勇気がないからである。

ソ連邦当局のパージにリストされながら敢えて、書き続けてきた上記のひとたちは、真実、勇気のあるひとたちだった。彼らがいなければホロコーストの惨事は永久に忘却の彼方に葬られてしまったであろう。忘れられるということは、将来また同じことが繰り返される恐れがあるということである。ホロコーストは二度と繰り返されてはならない。繰り返されないようにぼくらは常に次の年代の人たちを善導して行く責任がある。このホロコーストの言葉を「広島」と「長崎」の言葉に言い換えれば、日本人にはわかって貰え安いだろう。「広島」と「長崎」は相手が誰であろうとも繰り返えしてはならないのである。それを、「アメリカ側には、敢えて、その核兵器を使用せざるを得なかった事情もあったのだから、その事情をも斟酌して、、、」、云々等と媚びたり、あたかも第三者の立場を気取るような言動は、日本人は絶対にしてはならないのだ。日本人は「核」の犠牲にされたが故に、その悲劇が繰り返されないように、万全の対策をしなければならない責任と権利があると思う。

ユダヤ人が人種差別に殊のほか敏感で、戦闘的であるのは、かれらがジエノサイドにされた経験があってのことである。かれらはホロコウストの対象にされたが故に、それに反対する発言権があるのである。

問題になるのは、バービィ · ヤールでユダヤ人を殺害したのは、ナチス独逸軍人だけではなかった事実である。ウクライナの複雑な歴史は最近では日本人の間でも理解し始められてきているらしいが、ウクライナ人はことあるたびに(いつの時代でもよそ者であったが)施政者が窮地にあるとすきをみて、蜂起を興してきた歴史がある。ナチスの侵入で、あっけなく陥落してしまったキエフを取り仕切っていたのは、ナチスの進駐軍だけではなかった。警備員のタイトルで市内のセキユリテイを担当したのは実は地元のウクライナ人だったのだ。

ポーグロムはユダヤ人居住地、(シュテッテル)の近郷に住むウクライナ人百姓の行為である。ナチスのアンチ · セミチズムの思想を擁護して、ウクライナ人百姓がユダヤ人婦女を殺害して尚且つその行いを正当化できる、下図は既にできていた。もちろん、1941年に始まったナチスのホロコウストでユダヤ人を匿って、援助した地元のウクライナ人だって沢山いたし、いろいろ、涙ぐましいエピソードも残っている。しかしそれは従属的な例外ともいうべき物語で、実情は進んでユダヤ人清掃に参加したのが地元のウクライナ人だったのである。

この辺の事情に疎いが故に、局外者が犯す間違いを、ぼく自身の例を挙げて取り上げてみる。ぼくは前述したとうり、ロシア人、並びにその国土、文化、文学に異常な興味を抱いて成長した。理由は後述するが、その好みは、昂じて、その地をわが心のふるさとであるかのような錯覚すらしていたものである。ロシア民謡に傾倒して、終戦直後、暫く流行った歌声喫茶店を転々とした記憶もある。だから、古いロシアの民謡をいつも口ぶさみ、ハミングする癖があった。その癖は、アメリカにきても変わらなかった。

「コザックの子守唄」という童謡がある。ぼくの好きな唄の一つである。いつも知らない顔をして、黙って聞いていた、ハイヂがある日口をはさんだ。

「それ、コザックの唄でしょう」

「そうだよ、なんだ、知っていたのか」

ぼくは一瞬、緊迫した。知っていて、今まで黙っていたのには、なにか、悪い理由がありそうだったからだ。

「あたし、コザックが余り好きじゃないの、お分かりでしょう。」

これは、ぼくが無神経だったのである。もちろん、ぼくだって、コザック、ウクライナ、ロシア、ロシア系ユダヤ人の人種的、歴史的な違いは知っていた。しかし、それを観念的に知っていることと、その違いゆえに、深刻な現実を生きてきた者との距離は千キロに等しい。「メロデーの良し悪しは、文化の違いに関係なく愛され観賞されても良いのではないのか」という一言で、ぼくの立場を保留することは簡単である。もちろん、ぼくは自己弁護をすることはしなかった。ぼくが言おうとすることは所詮、理屈であって、ぼくの妻にも、先刻、分かっている。要は、「坊主、憎くば、袈裟まで憎い」と、同じで、理屈の通じないところで、いかんともし難い相克が起こるものなのである。恥のかき捨てに今ひとつ。

これも鼻唄が原因で失敗した話であるが、ぼくは軍歌を毎日歌わされた、幼年時代に育っている。つい口ずさむのは、習慣である。軍歌は日本帝国軍人用ばかりでなく、ドイツ、イタリアの同盟国の軍歌も含んでいる。やはり、サンフランシスコに住みついたころの話だが、デイト中のガールフレンドがまたユダヤ人だった。大戦中のドイツの国歌は歌い易く、子供にも人気があった。ぼくもワーグナーをハミングする調子で、良く歌った。これも、癖で、うっかり彼女の前でそのメロデーをハミングしたのである。延々とお説教されたものである。

ヒットラーが愛用したスワシテカ 「卍」は、もともと、梵語で、辞書をを引けば本来の意味が書いてある。 ナチズムとは何の関わり合いのない意味である。 しかしこの「卍」の図に悪夢のような記憶のあるものには、仮に、本来の意味が如何様に高邁で正しくとも、胸が張り裂けるような記憶を忘れられものではない。日本の四国に発祥した「少林寺」拳法は、この卍を組織のインシグニアにお使いになっている。外国で指導に当たっている指導員は、さぞかし、不自由な思いをされているだろう。お察しする。

今度のポドリア行きは、ぼくの弟子ブラッド ボンダレフが居なければ、これを計画することもなかっただろうとは、前述した。彼が、コザック出身であることも既に書いた。今ひとつ説明しておかなければならないことがある。それは、かれが、ウクライナをエキサイルする前に妻帯して、女の子がひとり居たのであるが、その奥さんと言う方が、ユダヤ人だった。彼はだからイェデッシの読み書きもできる。かれは初め、奥さんと子供を連れてイスラエルに移住した。ユダヤ系のウクライナ人が北アメリカか新興のイスラエルに移住するのは珍しくない。しかしイスラエルにはアメリカ同様、厳しい兵役の義務があり、入国してきた外国国籍のものでも、兵役につかなければならない。ブラッドはウクライナで既に3年の兵役の義務を終えてきている。

この話は実はぼくも身につまされる。ぼくはアメリカにきたとき時29歳だった。兵役につかなければならない年齢なのである。そのころはベトナム戦役たけなわの時、ぼくは困った。アメリカ兵になってベトナムくんだりまで従軍する気にはとてもなれなかったからである。幸い29歳は少し年が行過ぎているということで、クラスDの資格を受け、幸い、とうとう召集(ドラフト)されずにすんだ。

ブラッドの場合はそうは行かない。24歳の青年だったから、奥さんと娘を義父に預けて、カナダに逃げ出さなければならなかった次第である。この話はぼくもハイデにしてある。ハイデにしてみればコザック出身の男が、進んでユダヤ人のルーツ探しを援助してくれることに感謝していたから、ブラッド同行の件では全く反対したことはなかった。

 

最初の予定はキエフ在住のユダヤ人が1941年9月29日を期して、集合を命じられた場所、メリノコフスキーとドクツロフの二つの道の交差点まで歩いていき、そこから約1キロの坂を登って処刑の現場を参詣するつもりであったのである。しかし昨夜の不眠が祟って、体調がすぐれない事に気がついた。年のせいだろうが一晩中、睡眠をとらないと、体の耐久性が極度に低下すようになってしまった。。一時間ほどの道のりと計算はしていたが、無理をして、大事な旅を損なってはいけないと思い、ホテルの近くから、ポデリ地区のターミナル、ドロツキ- ステーションまで地下鉄に乗った。初めからの計画だった、花束を二つ買っておくことは、計画どうり進み、胸に抱えてきた。

ソ連邦が建立したモニュメントとユダヤ人教会が1991年建立したメノラの記念碑を含めて4ヶ所の参詣の場所があると聴いて来た。

 

 

取り合えず、ソビエット政府が建立した記念碑からと考えて、メトロから出るとすぐ南口を目指して外に出た。予想どうり、緑の南公園が道路越しに横たわり、写真で見慣れた例の異様なブロンズの後部が見えた。正門は同公園南端を東西に走る、リジカ通りにあるらしいが、あらためて正面から入園するには、南北を走る、O テリギ通りに添って遠回りをしなければならない。地下鉄に乗ると、何処の都市でもそうだが、方角の感覚が鈍って、西も東も分からなくなることがしばしばある。とくに初めての町がそうだ。バビィ ヤールはキエフの北端に位置しているが、メトロの駅が丁度、南公園と北公園の中央にあることを知らなかった。南公園からはじめるのが計画だったから、公園は裏門から入ることにした。最近新しく建てられた、ユダヤ人協会による記念碑があることを思い出した。偶然だったが、その石碑が、南公園の裏側にある筈だった。

キエフは森の多い町である。とても東京では見られそうもない深い緑の森を背景に、芝生の平面が広々と広がっている。その中央、こじんまりとした、一郭に茶色の石碑が見える。近ずくと、三角推の三面に、それぞれ英語、ロシア語、イェデッシにて印プリントされた、石碑だった。英文の碑文を訳すと下記のとうりである。

 

われはわが息吹を汝が御身に吹き入れんとする

如かして、御身はその生命を取り戻さん

エゼキル 37:14

ユダヤ人遺産協会に拠るこの基石は、バビイ ヤール大虐殺の60年を記念してここに基底させられた。    

2001年9月30日

 

ハイヂとぼくは石碑の台石に生い茂った雑草を取り除く作業に専念、暫し時を過ごした。

ソビエット連邦が建立したモニュメントはいかにも同連邦の美術品らしく、巨大で、威嚇的、前衛的なオブジェだった。遠目にはゴジラのシルエットを見るようで得体の知れないアーキテクチャーである。昔はロシア正教の墓地だったと言はれるが、大地が盆状に穿つ谷合の正面に立ちはだかっている。三角錐の石碑からは一本道、舗装された細道が延々と延びている。その細道が湾曲する一隅に、異様な風体の女性が数人、屯しているのが分かった。話しに聴いていたジプシーの物貰いだなと直感する。

「ダイチェ」はロシア語で「お頂戴」と言う意味である。道が細くて、迂回することもできず、真っ向から、対面する始末になった。

「ダイ」 「ダイ」 と連呼して手を差し伸べて来る。言葉がわからぬ振りをして、早足に擦れとうる。「ヂンギ」 「ヂンギ」と言う。「金」をたかっているのである。ふと、終戦直後の日本を思った。進駐軍のアメリカ兵に集って浮浪児が群れをなした風景だ。

ブラッドの一喝で難を免れる。慣れているのだろう、深追いはしてこなかった。

ゴジラのモニュメントを正面から見て初めて納得した。犠牲者の苦悶を象徴した「苦」の表現なのである。しかしながら、その苦しみには、惨めさがない。恰もヒーロー、ヒロインを連想させる、悲壮で劇的な苦難を暗示している。考えてみれば、それはそれでよいのだろう。この記念碑はユダヤ人婦女子の為ではなくして、あくまでも、旧ロシア軍人、ウクライナ市民の英雄的な死を誇っているのだから。

しかしここではっきりいっておきたい。英雄的な死は美意識のモチーフになる。バビィ ヤールで殺略された3万3千人のユダヤ人婦女子の死は救いの全くない無残極まりない悲惨な死である。惨めな死を美化することはできない。全く次元の違う世界のできごとなのだから。彼らの死を悼み、ただただその被災をねぎらう他すべはないはずである。ぼくらは持ってきた花束を供えて、お仕着せがましいこの記念碑を逃げるように後にして、北公園へ向かった。

 

南公園の正門を右に曲がり、西に半ブロック、更に右に折れると、出てきたメトロの入り口である。改札口を真っ直ぐ通り過ごして北口に出る。芝生がよく刈り込まれた、緑の公園である、目標の石碑は直ぐに見つかった。右に掲載した写真のとうり、ブロンズは幼、小児の犠牲者を傷む、記念碑であった。黒ずんだ黄金色に磨かれた子供達は、思はず息を呑むほど、無表情。非道な大人の手で恥辱されたお人形を連想させた。写真では見えないが、ヤマカをかぶった子供が一人、犠牲者はユダヤ人だったことも暗示していた。

ぼくにもぼくなりの苦しい思い出がある。終戦直前、住んでいた満州の自宅を避難したとき、出産して間もない、妹を背負っていた。母は過労のため、乳が出ず、間に合わせに用意した重湯のビンは土地の暴民の襲撃を受け失い、食べさせるものもないまま、ぼくの背中で餓死してしまった。

 

幸いといっては不憫だが、ユダヤ人の児童とは違い、銃弾で撃ち殺されたのではなかったから、まだ救いはあったが、飢えを訴えて、口をあけたまま硬直した死に顔には、苦悩の翳りがった。60年の年月を経ても忘れられない由縁である。それだって、性別も顔かたちも分からぬほどに、破壊されたユダヤ人児童に比べれば、まだ恵まれた死ではあった。それにしても、とぼくは思う。直接、手を下した加害者の精神状態がわからない、慄然とする。そんなことが現実にできるものなのだろうか。「鬼、畜生」と言う言葉はあるが想像を絶する話である。

 

子供達の記念碑から、処刑が実際に行われたと言う現場に向かう。ユダヤ教信者の慣習のある燭台、メノラの記念碑が目標である。当然ではあろうが、みんみんとなく蝉の声は緑樹の林に木霊して、いとも閑静な夏の昼下がりを奏でている。石畳を踏みしめて2キロの道を歩く。なぜか、息苦しく、前夜の不眠が身を苛む思いである。登りの坂を三人無言に進む。

メノラを探すのに手間取ったが、丘の上にやっと辿り着く。偶々、ガードナーが芝刈りの最中で、耳を覆いたくなるほどの雑音の中、メノラの前に立つ。後方は欝蒼とした森である。63年前、そこで、3万人余の罪の無い老若男女、幼児が身に一糸も纏うことも許されず、惨殺された。彼らがユダヤ人だからというだけの理由である。

ぼくとハイヂには奇妙な趣味があった。カルフォニアの墓地は何処も静かで閑散としている。週末には好んでセミタリ-を訪れ、墓標を読んだり、芝生に腰を下ろし、静穏ななたそがれを楽しんできた。不思議と気が静まるのであった。ところが、ここは全く違っていた。確かに緑の森林ではあったが何故か気が休まらない。気のせいか阿鼻叫喚の叫び声が、風も無い林から聞こえてくる。胸苦しさが昂じて息もできない。

ぼくはこれでも仕事柄、毎朝、2時間ほどかけてジョギングをする習慣がある。少しぐらい歩いただけで、息切れのするはずは無い。ハイヂに心配かけるといけないので、谷合の死の崖を見てくると言い訳をして、ひとりメノラの後ろにはいった。小一時間が過ぎただろうか、ぼくは谷あいに座り込み、耳を澄まし、暫し、胸騒ぎを聞いていた。森の外ではハイヂも一人、メノラの横でノートを開き、無心に何か書き込んでいた。

大事に抱えてきた最後の花束を、二人でメノラに添え、ブラッドに声をかけ、帰路に就くことにする。メノラを背にすると舗装された道が丘の下に延びている。その先には、「死の行軍」の名前で知られるメリニコファヤ街がある筈である。ぼくらは終始、無言のまま、旧ユダヤ人墓地へ下っていった。

偶然だろうか、丘を離れるに従って、息苦しさも和らぎはじめていた。

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セクション III