ベルデチェフは来るときに既にユダヤ人墓地を参観してきた。今日の予定は市内を見ること、そして、できれば軍用飛行場跡を探して、1万8千6百40人の犠牲者に心ばかりの花束を捧げることであった。やんぬるかな、同飛行場跡は閉鎖されていて、行くことがなきなかった。ところが街を歩いて聞いて回る内に、元ユダヤ人ゲットーで、今日、巡礼の式典が行われていると言う。
ぼくは少し戸惑った。ベルデチェフのホロコーストは1941年9月15日、未だ2ヶ月も先のことである。何処かのコミニテイが先駆けて祭典を行っているのかもしれない。ぼくらは、とにかく、そこにいってみることにした。
その前にランチ用の食料を買い出しする必要があって、マーケットに入ろうとして、入り口で止められた。ハイヂが持っていたショルダーバックをローッカーに預けなければ、店に入れないという。
ぼくはこれは面白いと思った。マーケットに入る客は手ぶらでなければならないと言うことだ。つまりバッグを持っていれば、店の商品を万引きする恐れがあるから、店の入口にロッ |
カーを設備しておいて、客にバッグを預けて貰う。確かにアイデアとしては、悪くない。しかしそれは店側だけの勝手ではないか。
ぼくはハイデのショルダーバックを預かって、店の外で待つことにした。ぼくらの所持品をロッカーに入れて店の中にはいるのを躊躇したからである。下の写真に見るように、外からでは中に何が入っているのか見えない。しかしぼくらが店の奥にいっている時に誰かがあけて持っていくかもしれないのである。つまり客の懸念を酌量していない。セイフテイ、セキュリテイ、サニテーションの3つのSの事は後で、書くつもりだが、ロッカーの一時預かりの設備を造る事はセキュウリテイを維持することにはなりえないことが判っていない。買い物が終わると、ぼくらは車に戻り、ベルデチェフの老舗を目指した。
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街角で数人のぺデストリアンに聞きながら目的地に着いて判った。ユダヤ人の巡礼ではなくして、ローマンカソリックはキリスト教者の巡礼だった。
考えてみると確かにおかしくない。ボリシビック革命で、地元のロシア正教を始め、ローマンカソリックからユダヤ教にいたるまで全ての教会は閉鎖されたのであるから、革命前のコングレゲーションが組織して当然、巡礼が成り立つ。
少なくとも1万人を超える人垣である。ぼくらは彼らの目に奇妙な現象と映ったのだろう。散々、見つめられながら、カソリックの式典を横切った。ベルデチェフは確かにヨルサレムである。キリスト教とユダヤ教が同時に巡礼が出きるところなのである。
坂を降り切ったところに、昔のユダヤ人ゲットーの入り口があった。水端にヘブライ語で刻印された墓標が「ダビデ」の星とともに、ホロコーストの記録を詳細に書き込んであった。2ヶ月後の9月には、ここでユダヤ教の巡礼者たちが集まり、犠牲者への鎮魂式典が行うことであろう。 |