ポドリア紀行

カリノフカ、ベルデチェフ、ジトミル

14日目(巡礼行)

ベルデチェフとジトミル

日曜日 7月18日2004年  11:00

カリノフカ

ホテルをチェック アウトしてベニチァを出たのが朝10時。ベルデチェフとジトミル向け真北に国道を走った。すっかり健康を害してしまったが、成すべきことは一切、完了したので、悔いを残すことは一つもない。全てが計画どうり事が運んだ。ただひとつ、ビニッチアの北、約32キロにあるカリノフカのユダヤ人老舗の租界をいま少し取材すべきだった。この街は来る時にも、車を降りて、おもな街の風景を写真に収め、帰りにも2.3箇所停まって、念には念を入れたつもりだったが、ユダヤ人墓地には立ち寄らなかった。その必要がなかったからであるが、自宅に帰って、モスコウのパービン博士からメールが着いていたのを読んで大変な失敗をした事が判った。時間が又前後するが、モスコウのパービン家と妻のパービン家の直接なつながりは未だ発見されていないが、肉体的な外観ではこの二つが最もよく似ているのである。

例えばパービン博士自身がそうである。彼の顔写真をウェッブサイトで見たとき、その顔が妻の父親の弟、リチャードにそっくりだったのを覚えている。しかし同博士のお祖父さん、サムエルはベルデチェフ生まれで、ハイヂの父親のお祖父さんの出生地と少し離れすぎている。ハイヂの父親のお祖父さんは商人、パービン博士のおじいさんは教育家でこれも共通点がない。

ぼくは、一度、博士に彼の親指の写真を送って貰ったことがある。理由はハイヂの親指が、俗に言う「蝮指」で、視覚的に特徴が顕著だったからである。ぼくは博士の親指と比べてみたかっただけである。送られてきた博士の親指の写真を見てぼくらは魂消た。博士の親指も「蝮指」だったのである。当然、偶然の一致だとも考えられる。しかし遺伝子的な共通点はやはり物件で証明されるべきである。このウェッブサイトのロシア語版にサムエルの自伝の日記を一部、掲載してきた。最初の3分の1のロシア語の原本で、ぼくらで英語に翻訳してこれも発表してあった。その残り3分の2のロシア語原本が、ようやく今回送られてきていたのである。そしてそこに大変な事実が記されてあった。

サムエルとその家族は1981年ごろから20年ほどビニッチァに住んでいた。ビニッチァはぼくらが宿泊したホテルのある町、今出てきたところである。しかもサムエルは教職の仕事を失って、アルコール飲料を造る工場で働いたと言う。これも偶然だと、あなたもおっしゃるかもしれない。ぼくもそう思いたい。話があまりにも稀有だからである。念のため、レイブ パービンのお父さんのお名前もサムエルである。

ぼくが失敗したと思ったのは、パービン博士のサムエルの手記に彼の息子エブセイの墓が「カリノフカ」にあると書かれてあるのを読んだ時である。エブセイ パービンはソビエット連邦、「赤軍」の高官で英雄だった。ただ、スターリンと折り合いが悪く、一説に100万人とも伝えられるスターリンの犠牲になって「処刑」された一人である。有名な1937年の大粛清だ。

ぼくたちはカリノフカの墓地に行っておくべきだったのである。1937年の墓標、しかも中央共産党本部の高官の墓であるから、探すのにそれほど難しくはなかったはずである。もし博士のメールを2週間前に貰って置けば、こんな間違いをしなくとも済んだと思うと、けだし残念である。

そのときはだからぼく達は何も抵抗なしに、カリノフカを通りすぎてしまった。したの写真はカリノフカのバスの停留所である。

 

ベルデチェフ

ベルデチェフは来るときに既にユダヤ人墓地を参観してきた。今日の予定は市内を見ること、そして、できれば軍用飛行場跡を探して、1万8千6百40人の犠牲者に心ばかりの花束を捧げることであった。やんぬるかな、同飛行場跡は閉鎖されていて、行くことがなきなかった。ところが街を歩いて聞いて回る内に、元ユダヤ人ゲットーで、今日、巡礼の式典が行われていると言う。

ぼくは少し戸惑った。ベルデチェフのホロコーストは1941年9月15日、未だ2ヶ月も先のことである。何処かのコミニテイが先駆けて祭典を行っているのかもしれない。ぼくらは、とにかく、そこにいってみることにした。

その前にランチ用の食料を買い出しする必要があって、マーケットに入ろうとして、入り口で止められた。ハイヂが持っていたショルダーバックをローッカーに預けなければ、店に入れないという。

ぼくはこれは面白いと思った。マーケットに入る客は手ぶらでなければならないと言うことだ。つまりバッグを持っていれば、店の商品を万引きする恐れがあるから、店の入口にロッ

 

カーを設備しておいて、客にバッグを預けて貰う。確かにアイデアとしては、悪くない。しかしそれは店側だけの勝手ではないか。

ぼくはハイデのショルダーバックを預かって、店の外で待つことにした。ぼくらの所持品をロッカーに入れて店の中にはいるのを躊躇したからである。下の写真に見るように、外からでは中に何が入っているのか見えない。しかしぼくらが店の奥にいっている時に誰かがあけて持っていくかもしれないのである。つまり客の懸念を酌量していない。セイフテイ、セキュリテイ、サニテーションの3つのSの事は後で、書くつもりだが、ロッカーの一時預かりの設備を造る事はセキュウリテイを維持することにはなりえないことが判っていない。買い物が終わると、ぼくらは車に戻り、ベルデチェフの老舗を目指した。

街角で数人のぺデストリアンに聞きながら目的地に着いて判った。ユダヤ人の巡礼ではなくして、ローマンカソリックはキリスト教者の巡礼だった。

考えてみると確かにおかしくない。ボリシビック革命で、地元のロシア正教を始め、ローマンカソリックからユダヤ教にいたるまで全ての教会は閉鎖されたのであるから、革命前のコングレゲーションが組織して当然、巡礼が成り立つ。

少なくとも1万人を超える人垣である。ぼくらは彼らの目に奇妙な現象と映ったのだろう。散々、見つめられながら、カソリックの式典を横切った。ベルデチェフは確かにヨルサレムである。キリスト教とユダヤ教が同時に巡礼が出きるところなのである。

坂を降り切ったところに、昔のユダヤ人ゲットーの入り口があった。水端にヘブライ語で刻印された墓標が「ダビデ」の星とともに、ホロコーストの記録を詳細に書き込んであった。2ヶ月後の9月には、ここでユダヤ教の巡礼者たちが集まり、犠牲者への鎮魂式典が行うことであろう。

 

 

ジトミル

 

ジトミルでまずしなければならないこと、それは今晩の宿泊を決めることである。ハイヂとぼくがガイドブックから探し出したホテルはジトミル一番の宿泊所で在るべきはずだった。地図を辿って、ファイナンシャル地区のあるアップタウンに入る。ホテルは直ぐに見つかった。外観は成るほど立派な建物に見えたが近ずいてがっかりした。ビニッチァでもそうだったが、ビルの漆喰が剥げ落ちて、かび付いて見える。

ふとハイヂを見やると、既に諦めたような目つきだった。とにかく中に入って部屋を見て見ようと話し合ってロビーに入った。広く見掛けは悪くないのだが、古く、くすんでいる。デスクで事情を話してサニテーションの完備ができている部屋を見せてくれと頼んだ。アッシャーが出てきて案内してくれたが一番高いという部屋ですら、ハイヂは苦い顔をしている。悪臭が酷いと言う。所詮、無理な話だったのである。ぼくらはジトミルで泊まることを諦めた。あとはキエフまでドライブして帰るだけだ。ブラ

ッドは喜んでいた。初めから、高い金を払ってホテルに泊まるのは無駄だと考えているから、ぼくらの気もちは判らない。今晩はテムールのアパートで夜を過ごすことに決まるとぼくも気が楽になって、ジトミールのユダヤ人墓地を訪れことにする。トロリーの走る大道を少し歩いて大変なものを見てしまった。ぼくは思わずアット叫んで屈みこむ。タンクだ。大きな第2次世界大戦中のタンクが道の真中に陳列されているのだ。子供の頃に見慣れ、恐れた、T−34だ。ただのタンクではない。横でブラッドもうめいていた。"T Thjirty Four !" と呟いている。ハイヂは何のことか判らず怪訝な顔をしている。終戦前、数日、ソ連は講和条約を

 

無視して満州国に北から侵入してきた。何千と言う T−34を横隊に疾駆してである。大きさからいえば中型ではあるがその機動力のすさまじさでは第二次大戦中、最高の戦車である。何でこの型のタンクがここに飾られていなければならないのか。

横からブラッドが答えるようにいった。この戦車はウクライナの国産なのだと。ぼくは寡聞にして知らなかった。知っているのはこの戦車がぼくらの住む町を蹂躙するかのように走り回ったロシアの新戦車だった事。このタンクが来ると1キロ先から判った事。道路が地震のように振動した悪夢のような思い出を思い出して立ちすくんだ。

東京で爆撃を経験した人、広島か長崎で被爆された方は、B29の例の特徴ある、爆音を聞いたり、首の長い機首や幅広い尾翼を見ただけで、昔の悪夢をおもい出すのではないだろうか。

T−34はぼくの悪夢だったのだ。

 

 

ジトミルのユダヤ人墓地はキエフ側の東出口の近く、ボルショイ街に在った。シャログロッドのセミタリーにも匹敵するほど広大な敷地があった。墓地の入り口に、新旧両墓地の地図が掲載され、秩序が保たれているように見受けられる。新墓地には最近できたばかりの墓標が沢山立ち並び、ユダヤ人が今なを住んでいることがわかる。

旧墓地にも行って見た。やはり他所の墓地と同様、墓碑はあるが風化してしまってほとんど読めない。諦めた。ポドリアに来る前、これでも古い墓の扱い方を専門家に問い合わせて、研究はしていたのである。しかし目の前に、今当に零れ落ちんとする墓石を見たとき、墓石を洗ってみることすら不可能な仕事だと言うことがわかった。

これと言う収穫もなく、ぼく達は車に戻り一路キエフを目指してジトミルを後にした。