ポドリア紀行

13日目(リチン)

クララを訪問(最後のユダヤ人)

土曜日 7月17日2004年  13:00

雨。苦しい夜を過ごす。朝7時、少し睡眠をとれる。1時間ほど寝て起きると、身体の痛みが取れて感じられる。9時、朝飯が割烹からデリバリーされる。今日の予定は全て中止しなければならないのかとも考えてみたが、朝飯を食べ終わると、これならば大丈夫と自信ができた。

ビニッチァのホテルに宿泊するのは今夜が最後である。明日はジミ‐トル向け出発しなければならない。リチンには最後に残した計画がある。今ひとつ、ハイヂにみやげ物の買い物をさせてやらなければならない。遊びにきたのではないが、やはり何か記念品を買いたいであろう。リチン行きは昼過ぎからとして、ビニッチアのバザールを少し歩いてみることにした。

明日の予定であるが宿泊地を何処にするか未だ決めていない。キエフへの帰路、ベルデチェフかジミトルで一泊するか、キエフまで足を展ばしてウクライナの首都で今一度宿泊するかの選択がある。問題はベルデチェフとジミトルの宿泊場所の状態である。過去には優れた国際的に知られたホテルがあった町であるが、ソ連邦以来ツーリズムは最低の状態である。現在宿泊中のホテルのデスクに行って今晩の宿泊代を完納して、ガイドにリストされたジトミルのホテルに予約をとってもらうことにした。ガイドには第1級とは書かれてあったが、こればっかりは行って見て見なければ判らない。ところが、ホテル間を連絡するシステムが未だできていないといわれた。やむをえない、行き当たりばったりに行ってみて、気に入らなければ、キエフまでかえれば良い。偶々、ブラッドの弟、テムール夫妻もバケーションで出かけて彼らのアパートを使わせて貰えるという。

明日の出発に備えて銀行でまとまった現金を両替して、電子メールの施設がある店で、ハイヂとブラッドは溜まったメールを処理する。ハイデのショッピングに付き合って約2時間。午後1時に予定した、リチン行きは計画どうり決行できた。雨はにわか雨になりやがて晴れ上がってくれた。

リチン最後の訪問にあたって、計画したことは二つ。ひとつはミュージアムに戻って、パービン家の屋敷跡の写真が見つかったかどうか確認すること。約束は昨日だったが、それを度忘れしたブラッドが思い出したのが今朝のことである。今日は土曜日、まず、博物館はオープンしていないだろうが、行くだけでも行ってみようということにした。

予想は当たっていた。館長が個人で使用している別のオフイスにも寄って見たがいなかった。博物館の扉の下に一日遅れのアポイントメントを詫び、寄付金を少々包んだ封筒を差し入れて、クララの家を訪問することにした。

リチンについた最初の日、リチンには今ユダヤ人が10人住んでいると聞かされた。クララはその一人である。ヤーシャの紹介で一度その家を尋ねて立ち話をしたこともある。

 

中央の勲章で飾られたジャケットをきているクララ。その前に立つのは曾孫のサーシャ。その後ろが母親のナタ‐シャ。ぼくとクララの間に立つ白髪の女性は中学で英語を教えている。

    クララ

クララの家はリチンのカルマリユカ街、ホロコーストのキリング フィールドに近い西側の古い居住地にある。ぼくらは訪問に当たって、マーケットで少し手土産を買い物して、訪れた。内庭で、友人や娘家族が集って、和やかなパーテイの最中であった。ありがたいことに、ぼくたちを覚えていてくださった。

昨日、博物館の館長が訪れて、古いパービン家の写真を探しておられたともいう。ぼくらは感激した。ぼくらのために街の人たちが協力してくださる様子である。

クララは大戦中、ソ連邦赤軍の看護婦兵として従軍、数々の功績をたて、写真に見るように胸一面を被う勲章を受賞された。今でこそリチン市の名士として公式の式典には必ず出席を依頼されてきているが、戦後リチンの郷里に帰ってきたときは戦災で一切の財産を失い、荒れ放題のままに残された無人の我が家を補修、少ない年金を捻出して、新生活を立て直さなければならなかった。今住んでいる家は、もともとご主人の生家だあったが、国の検察官に没収されたのを申告して、返却して貰った。

  若き日のクララ

夫を早く戦争で失い。一人娘を女手一人で育て上げなければならなかった、という。この日は同じ町に住む娘と、たまたま、ミンスクから遊びにきた孫娘のナタ‐シャが曾孫を連れて里帰り、家族四代がそろって団欒中だった。その他、中学校で英語を教えているという友人が遊びにきていた。

おおきいようでもやはり、地方のコミューンである、ぼくらを案内してくれたサーシャが家族ずれでとうりがかり、垣根越しに暫く話が弾んだ。サーシャとはもう会う機会はないので、お礼方々に挨拶をと思いハイヂを一人クララとその家族に残して、ぼくも垣根越しの会話に参加した。サーシャにはうっかりお礼の贈り物はできないから、大聖堂改装の為の寄付金として、少々の為替を紙に包んで提供した。さすがのサーシャもこればかりは断りきれないと見えて、受け取ってくれた。最も寄付金だからこちらの姓名、住所を書き込んだノートを添えてくれと頼まれた。全く実直な男である。

さてサーシャと別れの挨拶をして、ハイヂの許に帰ると、彼女の顔色が優れない。英語の先生に質問攻めにあっているのである。聞くのはぼくらの仕事で、聞かれるようなビジネスは持ち合わせがないはずだと思ったら、悪いのはブラッドだった。先週の土曜日、初めてサーシャに会った時、ぼくらは招かれざるよそ者客とし扱われた。通訳をかねるブラッドとぼくらの関係を激しく追求されたらしい。ブラッドは単なる通訳に雇われた者と思われたくなかったものと見えて大変な作り話を考え出した。つまり、彼はぼくとハイヂの婿養子であると言ってしまったのである。即ちぼくとハイヂの間に娘が一人いて、ブラッドはその娘に婿入りした。うそをつくのに事欠いて大変下手なうそついてもらったものだ。第一ぼくらに娘がいたとしても年が合わない。クララはその話を覚えていて、彼女の家族と友人に、ハイヂをブラッドの義理の母親だと紹介した。

怪訝に思ったのは英語の先生である友人である。英語を話せるから早速、ハイヂを詰問した。ハイヂの年は?ブラッドの年は?ハイヂとぼくの娘だと言うブラッドの妻の年は?云々である。ハイヂは嘘がつけない。幸運にもブラッドが前もってハイヂにことの詳細を告白していたので、ブラッドのうそに口を合わせて大事に至らずに済んだが、後で大変だった。ホテルに帰ってからブラッドはこてんこてんにハイヂからしぼられることに相成った。ハイヂは怒ると、立て板に水を流すように喋りたてる。会社では上役の男性ですら彼女に一目置いて、うっかり彼女を怒らせるようなことはしない。ブラッドもすっかり度肝を抜かれて、謝っていた。

クララの招待でぼくらは家の中に招かれることになった。内庭を見て歩いていたブラッドが畑の土の中に何か見つけてぼくのところに見せにきた。なんと真鍮製の薬莢である。戦後60年、今でも土を少し掘ると、人骨を含めて戦役の残骸が出てくるとは聞いていたが本当だ。この薬莢にはぼくも見覚えがあった。満州で終戦を迎えた時、ぼくは小学高の4年生。遊び道具の玩具の替わりに道端に落ちている手榴弾や、弾薬を拾ってきて遊んだ。弾夾をはがして中から火薬を取り出し、手製の手榴弾を作るのである。火薬をたくさん入れすぎて、暴発、片手をなくした友達もいた。ブラッドが見つけたのと同じ薬莢である。

日本もアメリカも国内が肉弾戦の戦場になったことがない。もちろん沖縄を例外としての話である。爆撃は確かに蒙った。しかし銃剣と銃剣を相対しての肉弾戦でないから、土の中から薬莢が出てくるということはまずない。我が家が戦場になった国は悲惨である。肉体的な疵だけで無くして、精神的な後遺症を含めて。それも内庭の畑の中から出てくるのだから、気の重い話である。

ザルジナのペトロとマリアの家もそうだったが、クララの接待も心が篭っていて、気持ちが良かった。苦しかった戦後の生活、ユダヤ人としてウクライナの建国を促進するための精神的な悩み。とうとう10人にも欠くユダヤ人の一人となってしまった。さすがに市の名士とあって、年金も他の退役軍人より多く生活には不自由しないようだった。

クララの孫娘、ナタ‐シャが息子のサーシャを伴って帰宅しなければならない時間がきていた。ブラッドはその会話を耳にして、ぼくらが送っていくと言っている。話によると二人はビニッチアニ行く用事があるらしい。ビニッチアはぼくらもかえる所である。ぼくも様子がわかって、クララと別れを告げて、ナタ‐シャとサーシャの坊やを伴い、車に乗った。

ビニッチァの入り口で、ぼくらはナタ‐シャとサーシャに別れを告げ、二人が人ごみに消えるまで見送った。