夫を早く戦争で失い。一人娘を女手一人で育て上げなければならなかった、という。この日は同じ町に住む娘と、たまたま、ミンスクから遊びにきた孫娘のナタ‐シャが曾孫を連れて里帰り、家族四代がそろって団欒中だった。その他、中学校で英語を教えているという友人が遊びにきていた。
おおきいようでもやはり、地方のコミューンである、ぼくらを案内してくれたサーシャが家族ずれでとうりがかり、垣根越しに暫く話が弾んだ。サーシャとはもう会う機会はないので、お礼方々に挨拶をと思いハイヂを一人クララとその家族に残して、ぼくも垣根越しの会話に参加した。サーシャにはうっかりお礼の贈り物はできないから、大聖堂改装の為の寄付金として、少々の為替を紙に包んで提供した。さすがのサーシャもこればかりは断りきれないと見えて、受け取ってくれた。最も寄付金だからこちらの姓名、住所を書き込んだノートを添えてくれと頼まれた。全く実直な男である。
さてサーシャと別れの挨拶をして、ハイヂの許に帰ると、彼女の顔色が優れない。英語の先生に質問攻めにあっているのである。聞くのはぼくらの仕事で、聞かれるようなビジネスは持ち合わせがないはずだと思ったら、悪いのはブラッドだった。先週の土曜日、初めてサーシャに会った時、ぼくらは招かれざるよそ者客とし扱われた。通訳をかねるブラッドとぼくらの関係を激しく追求されたらしい。ブラッドは単なる通訳に雇われた者と思われたくなかったものと見えて大変な作り話を考え出した。つまり、彼はぼくとハイヂの婿養子であると言ってしまったのである。即ちぼくとハイヂの間に娘が一人いて、ブラッドはその娘に婿入りした。うそをつくのに事欠いて大変下手なうそついてもらったものだ。第一ぼくらに娘がいたとしても年が合わない。クララはその話を覚えていて、彼女の家族と友人に、ハイヂをブラッドの義理の母親だと紹介した。
怪訝に思ったのは英語の先生である友人である。英語を話せるから早速、ハイヂを詰問した。ハイヂの年は?ブラッドの年は?ハイヂとぼくの娘だと言うブラッドの妻の年は?云々である。ハイヂは嘘がつけない。幸運にもブラッドが前もってハイヂにことの詳細を告白していたので、ブラッドのうそに口を合わせて大事に至らずに済んだが、後で大変だった。ホテルに帰ってからブラッドはこてんこてんにハイヂからしぼられることに相成った。ハイヂは怒ると、立て板に水を流すように喋りたてる。会社では上役の男性ですら彼女に一目置いて、うっかり彼女を怒らせるようなことはしない。ブラッドもすっかり度肝を抜かれて、謝っていた。
クララの招待でぼくらは家の中に招かれることになった。内庭を見て歩いていたブラッドが畑の土の中に何か見つけてぼくのところに見せにきた。なんと真鍮製の薬莢である。戦後60年、今でも土を少し掘ると、人骨を含めて戦役の残骸が出てくるとは聞いていたが本当だ。この薬莢にはぼくも見覚えがあった。満州で終戦を迎えた時、ぼくは小学高の4年生。遊び道具の玩具の替わりに道端に落ちている手榴弾や、弾薬を拾ってきて遊んだ。弾夾をはがして中から火薬を取り出し、手製の手榴弾を作るのである。火薬をたくさん入れすぎて、暴発、片手をなくした友達もいた。ブラッドが見つけたのと同じ薬莢である。
日本もアメリカも国内が肉弾戦の戦場になったことがない。もちろん沖縄を例外としての話である。爆撃は確かに蒙った。しかし銃剣と銃剣を相対しての肉弾戦でないから、土の中から薬莢が出てくるということはまずない。我が家が戦場になった国は悲惨である。肉体的な疵だけで無くして、精神的な後遺症を含めて。それも内庭の畑の中から出てくるのだから、気の重い話である。
ザルジナのペトロとマリアの家もそうだったが、クララの接待も心が篭っていて、気持ちが良かった。苦しかった戦後の生活、ユダヤ人としてウクライナの建国を促進するための精神的な悩み。とうとう10人にも欠くユダヤ人の一人となってしまった。さすがに市の名士とあって、年金も他の退役軍人より多く生活には不自由しないようだった。
クララの孫娘、ナタ‐シャが息子のサーシャを伴って帰宅しなければならない時間がきていた。ブラッドはその会話を耳にして、ぼくらが送っていくと言っている。話によると二人はビニッチアニ行く用事があるらしい。ビニッチアはぼくらもかえる所である。ぼくも様子がわかって、クララと別れを告げて、ナタ‐シャとサーシャの坊やを伴い、車に乗った。
ビニッチァの入り口で、ぼくらはナタ‐シャとサーシャに別れを告げ、二人が人ごみに消えるまで見送った。 |