ポドリア紀行

シャルゴロッド

12日目(シャルゴロッド)

シャンデル パービンの生まれ故郷

金曜日 7月16日2004年  11:00

シャルゴロッドはシャンデルの生まれたシュテットルである。この老舗町はポドリアにあって、最もポドリア的性格を発揮、典型的な東欧ユダヤ人の文化を結晶した。シャロム アレックハイムの短編に書かれたシュテットルの世界は視覚的に限ってではあるが、今尚残っていたのはここだけであった。もちろん、ポーグロムの被害はポドリアのほかの街の例外ではなかったが、1941年のナチス ドイツ軍によるホロコーストの災害だけは免れたのである。理由はこうである。第2次世界大戦中はこの地だけ、ルーマニア軍がナチス ドイツ軍に替わって進駐していた為だ。ルーマニア軍隊はナチス ドイツ軍隊ほど徹底したユダヤ人虐殺を施行しなかった。被害者は出た。病死、凍死、餓死による死者は他の町並みに出たが、秩序だてられた殺人からはまぬかれたのである。

ぼくら3人は7月16日、この街を訪れ、過ぎし日のユダヤ人老舗の文化を偲び、半日を過ごす機会に恵まれた。ヴィニッツァの南56キロ、朝11時にホテルを出て、午後1時過ぎ過ぎに街の西口に到着した。2時間あまりのドライブは途中、道に迷った事と、DAI に又止められて、パス ポートを検査されたためである。今回は罰金なし。ブラッドのパスポートが汗のため少し湿っている理由を聞かれただけで済んだからである。ブラッドは内心面白くなかったようだ。パスポートが湿っていてなんで悪いのか。あら捜しをして罰金をとりたいのかと、冗談話にして、終日、こぼし続けていた。

1589年に建立されたユダヤ教のシナゴグ。現在は製酒工場として使われている。案内書にはジュース工場と書かれてあった。地元ではアルコール飲料の工場で知られている。パービン家のビーツ甘藷工場ではないが、似たような話は何処にもあるようだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シャログロッドの紀元は古い。リスエニアの貴公子ビトブットが西暦1383年5月5日、この街の建立を公認した記録が残っている。200年後、かの有名なポーランドの大富豪兼チャンセラーのジャン ザモュスキーがこの地を取得する。16世紀後半、ザモユシキーはユダヤ人家族が同市のカソリック教会内に居住することを許可したのをきっかけとして、ユダヤ人の人口は急激に増加。一説によると、同世紀、約一千人にあまるユダヤ人が居住、彼らは砦を思わせる巨大なシナゴグを建立した。シャログロッドッドはポドリアにあって最も大きなユダヤ人租界となった由縁である。

シャンデルとレイブ夫妻はパービン家、第一代目の移民者であった。彼らの子供達5人もまた、アメリカに移民した。1869年、シャンデルはシャログロッドのラビの娘として生まれ、成長して、バグリノビチ在住のレイブに嫁いだ。パービン家は近郷に知られた資産家だったという口承はあるが、今回その屋敷跡が発見されるまでは、それを証明する物件はなかった。レイブの弟、サムエルはシーバ ミルスタインと結婚している。ミリスタイン家はオデッサの富豪、一般にはブルジョア ユダヤ人として知られている。日本ではバイオリン弾きの大御所、ネイサン ミルステインの名前が知られていると思うが、ネイサンとサムエルの妻、シーバは従姉妹である。

19世紀のユダヤ人は伝統的に結婚はマッチメーカー によって決められた。日本でも仲人を媒した見合い結婚があった時代があるのと同じである。マッチメーカーが仲人に入ると、当然、新郎、新婦の家庭の経済的なバランスが重要視される。大富豪の娘がオデッサからはるばるバグリノビチまで嫁いできたのは、パービン家がミルスタイン家と相応する家柄だったと思われる。レイブの妻、シャンデルはラビの娘である。ラビは日本の和尚さんと同じで、あまり金には縁がない。そのかわり格式の高い家柄であるから、資産者の家に嫁いでくるのも不思議ではない。もちろんラビといっても格式の違いはピンからキリまである。シャログロッドはハシデズム派ユダヤ教、温床の土地でもある。ぼくの想像ではシャンデル父親は規模の大きいコングレゲーションの僧、ラビだったと想像する。

路を間違ったことに気が付いたのは、国道の沿道に「バール」の標識を見たときである。バールも又、知る人は知る、ユダヤ人シュテッツルのひとつである。しかしぼくらのスケジュールからは訪問をはずしてあった。所在地がぼくらのルートからかなり離れていたからである。そのバールに間違って入ってしまったということは、国道をひとつ間違って、予定よりもはるかに西へきてしまったということになる。

ヴィニッッァをあとにしたとき、南西に向け国道 P 10 を走っているつもりが、いつのまにか国道を離れ、別の道路に入ってしまったのだ。運よくバールを南に向かってシャログロッドに行ける路があった。だから、目的地に着いた時は、当初の計画に反して、北口ではなく、南口から同市に入ることになった。

シャログロッドは確かに古いユダヤ人の文化が残っているポドリァ唯一の街だった。19世紀のユダヤ人の屋屋が今なを残っているのである。

 

この街は新旧二つの町がある。新しいのはレーニン街とカール マルクス街に沿っている。旧ソ連邦独自の所謂、特色の全くない灰色のコンクリ−トのビル街である。古い方に入って驚いた、映画にでもなりそうな典型的なユダヤ人ステッテル居住地がそのまま残っている。残念ながら、ほとんどが空家であるが、歩いていると何か錯覚を覚えそうなほどである。古いきめの細かい石畳の道。泥と藁を捏ねてつくり上げた家、皮肉な話であるが、コンクリート立てのソ連邦時代のアパートメントより遥かに美しく居住性もある。

上の写真がソ連邦のレーニン街である。写真左の家と写真右の家が19世紀のユダヤ人シュテッテルの家並みである。家によっては今でも人が住んでいる。テレビのアンテナのついている家がそうである。土地の人の聞くと、まだまだたくさんのユダヤ人が居住しているらしい。しかし、残念ながら年年その数が少なくなってきたそうである。やむをえない話ではある。

 

ユダヤ人の墓地(セメタリー)に行って驚いた。敷地は広いし16世紀以来の墓標がまだ残っていた。新しいのは最近立てられたものも見受けられる。ぼくらは旧墓地の方で、シャンデルの婚前の姓と思われる 「ラッチ」 と 「バクロフ」を捜し求めたがなかった。墓地には住み込みの墓守もおり、リストもできていたが、両姓とも見つからなかった。

恐らくロシア語から英語の発音に直したとき、そのスペルが違っていたものと思われる。今後の調査に期待をかける次第である。

 

帰りに又、道に迷った。どうも迂闊な話だが、道路標識に忠実に従ったつもりだが、ヴィニッッアのホテルに帰るつもりが、なんとまあ、リチンに着いてしまったのである。不思議な回り合わせである。シャンデルがレイブの許に嫁いだときには、まだ自動車は普及していなかっただろうから徒歩でない限り乗り物は、鉄道か、馬車だっただろう。ぼくらは又道草をしながらのドライブだったから、1時間の道程を2時間かけてリチンに帰った。道草といっても、写真をとることと、ネイチャー コールを含めての事だが、ぼくは腹痛と酷い下痢に悩まされていた。風邪をひき、声を失い、そして今度は腹痛である。今回の旅は些か呪われ気味であると考えるのは、さて、思い過ごしだろうか。

今日の楽しみはなんと言っても、ポドリア南部の風景を堪能できたことであろう。特にひまわりの草原は圧巻だった。ひまわり草はウクライナの特に南西部の特産物である。ぼくだってひまわり草を見るのは初

めてではない、しかしこれほど壮大なひまわりの草原を見たのはこれが始めてである。見渡す限り、目に入る地平線まで、黄金色のひまわりの大海なのである。今日の楽しみはなんと言っても、ポドリア南部の風景を堪能できたことであろう。特にひまわりの草原は圧巻だった。ひまわり草はウクライナの特に南西部の特産物である。ぼくだってひまわり草を見るのは初めてではない、しかしこれほど壮大なひまわりの草原を見たのはこれが始めてである。見渡す限り、目に入る地平線まで、黄金色のひまわりの大海なのである。今ひとつ深緑の森が地球の果てまで続くのが見える。黄色と緑と青空。今日は朝、雨が降ったが、真白い雲が千切られた綿くず見たいに浮かんでいる。スイスイト低空飛行を繰り返すツバメの群れ。ここは一見、天国なのだ。

千頭はいると思われる牛の群れが国道を埋め、延々と歩く様を感心して観賞する。大自然の環境に関する限り、この土地で

は10世紀の月日が一日であるかのように過ぎていくのだ。ぼくはおもはず東京の町々を思い浮かべた、1年間留守にしたら街の姿が変わってしまう。

リチンには北東から入る。ユダヤ人墓地を過ぎ、レーニン街で車をとめた。金曜日の夜、黄昏時である。ヴィニッッァのホテルは明後日出払ってキエフに戻らなければならないから、リチンは明日が最後である。見忘れたれたところが無いよう、車を降りてしばらく周辺を歩いてみる。

そして又、歌声を聞いた。今度は男性の合唱。素人ではない。週末の一時を使って、公演のリハーサルだろう。少なくとも、二,三十人のコーラスである。歌う曲は「ダロギ」、日本人にもなじまれている「道」だった。この辺は官庁のビルがたくさんある。ぼくは小路にたって重厚な歌声を堪能した。テナーの声域を唄う時、はウクライナ人の右に出る者はいないという人もいる。確かにそうかもしれない。