博物館に着いたのは10時過ぎである。ところが又、ドアが開かない。ぼくらは一寸戸惑った。開館が遅れている理由がわからないのである。とにかく時間潰しに、考古学展示場に足をのばすことにした。昨日の資料室で、考古学関係の出土物を展示する施設があることを耳にしていたからである。同施設は市庁の真ん前である。
残念ながら、陳列室にはこれといって見るべきものはなかった。そのかわり、博物館の開いてない理由を教えてくれる人が居た。ミューージアムを管理している人はただ一人、館長だけであるそうだ。その館長もいつも別の役所に出張してミュージアムの方にはアポイントメントがない限り往かない。それだけ謁館者が少いということと、博物館があまりにも寒いからという理由である。七月中旬でありながら寒いという建物がどんな建物なのか見当がつかなかった。とにかく館長の居場所がわかったので、館長が(ここでも女性だったが)、屯されている、離れのオフイスまで、迎えに行った。
館長さんはぼくらが来るのを待っていてくれたらしい。昨日、いらっしゃると思って、待っていましたとおっしゃる。成るほど連絡が上手く取れていなかったのだ。誰かがぼく達に博物館館長の正しい居所を教えるのを忘れたらしい。ありそうな間違いである。何故、真夏でも寒いのかも判った。もと留置所とあって、建物はまるで地下の塹壕の中にあるみたいで、陽の熱が全く伝わらない。
博物館はビニッチァと比べると質も量も落ちると印象を受けた。しかしブラッドは喜んだ。彼が子供の頃から採集しているナチ · ドイツ軍人の鉄兜、ゲートル、拳銃、等が棚に陳列されているのである。館長を相手にぼくらには関係のないことを質問し始めた。ぼくはさすがにいらいらしてきた。ブラッドはまだ子供みたいなところがあるし、ぼくは普段は少しぐらいの事は大目に見てきたが、熱は出る、声は出ない、寒気はするの状態では、さすがに堪忍袋の緒が切れるではないが、怒り心頭に達してしまった。この街でも3千人のユダヤ人がナチス軍人の手に掛かって殺されているのである。ぼくははっきり言ってしまった。ぼくらは兵隊ごっこをする為にここにきたのではないと。
ぼくに怒鳴られたのはこれで2度目だったが、こっちの声が嗄れているので、小声でも、ぼくが真剣に怒っているのをわかって、直ぐ本題に戻って呉れた。ぼくらの探しているのは、現在の市庁が改装された1960年代以前の写真である。新しいロシヤ正教の教会を建設しているひとたちの話では、パービン家の屋敷と思われる大きな建物がそのころまだ空家ではあったが、建っていたのが写って居るというのである。館長さんは言った。確かに今の市庁のとなりにその家があったこと。それを証明する写真もたくさんあったこと。しかしその写真は昨年処理してしまったのだという。古い写真を採集している人が多くなり、市庁のアルバムは街の女医、ドクター ルドミラに謙譲した。しかし、もしかしたら、まだ残りの写真があるかもしれないとおっしゃる。地下室から箱入りの写真を持ってきたのを、ぼく達は三組に分けて調べた。30分ほどたっただろうか。ぼくは二枚の古い市庁の写真を見つけて、思わず唸り声を上げた。2列の長い民家が市庁の隣りに間違いなく写っているのである。ぼくは買い求めたかったのだが、駄目だと断られた。やむなく写真に模写したが、残念ながら明かりが足りなかった。かえってからアドビのフォトショップであれこれ修正してできたのが下の二枚の写真である。陰のようではあるが、家の輪郭ははっきり見える筈である。 |