ポドリア紀行

 

 

 

11日目(リチン)

博物館でパービン家の写真を発見

木曜日 7月15日2004年  11:00

 

 

 

 

朝起きて声が出ないのに気が付いて、愕然となる。ラーレンジャイデスというやつである。熱は幸い高くはないが、声が出ないとなると、不便である。水道の水は絶対に口にしないようにしているので、たまたま飲料水用に買ってきておいた、びんずめの水で嗽をして、暫く湿布している内に、小声ならば言いたいことが言葉にできることが判った。洗面所で鏡に向かって話し方の訓練をするぼくの物音に目を覚まして、ハイヂが起きあがってくる。ぼくが風邪に感染していたのは知っていたらしいが、声が出なくなるほど悪いとは思わなかったらしい。一緒に心配してくれる。残りは3泊4日、大丈夫、もたらせると、太鼓判を押すようなこといったが、本人は少々心細い思いである。とにかく今日の予定を執行しなければならない。リチンの博物館で古い写真を探すことである。

副市長から、博物館の館長にぼくらの来館の由が伝えられているはずだから、交渉に時間がかかることはあるまい。訪館さえできればあとはハイヂとブラッドが資料を探してくれる。

今日は又少し現地の紙幣、グリムナへ両替しなければならない日である。前に100ドル紙幣を着き返されて懲りているから、ハイヂに頼んで、彼女のATMカードを試しに使ってみてもらった。幸い銀行はホテルの近くにある。なんと、ATMで両替が簡単にできたのだ。助かった。両替に関する限り、観光用のガイドはもう情報が遅れているのか。いや、そうじゃあるまい。コンピューターによるATMのテクノロジーの発展のほうが早すぎて、ガイドの出版を追い越していたのだろう。キエフからはるばる離れたビニッチァの市街でATMカードを使用出来る時がこうも早やくくるとは専門家も予想できなかったわけだ。

両替したのは1000グレミナである。助かったのは、両替のレートが公定のレートだった。これならば、少し使い古した札を突っ返されることもなく、一番便利で、安全な方法である。レートの違いに神経を使って、あれこれ、両替屋を探し当てる必要もない。ぼくは感心した。この国を現金を持たずクレヂットカード一枚持って旅行できる日がもうきているのである。

これでキャッシュの問題を心配することがなくなったので、ぼくらも安心して買い物ができる。ランチ用の食料を買い込んで、再びリチン行きである。

博物館に着いたのは10時過ぎである。ところが又、ドアが開かない。ぼくらは一寸戸惑った。開館が遅れている理由がわからないのである。とにかく時間潰しに、考古学展示場に足をのばすことにした。昨日の資料室で、考古学関係の出土物を展示する施設があることを耳にしていたからである。同施設は市庁の真ん前である。

残念ながら、陳列室にはこれといって見るべきものはなかった。そのかわり、博物館の開いてない理由を教えてくれる人が居た。ミューージアムを管理している人はただ一人、館長だけであるそうだ。その館長もいつも別の役所に出張してミュージアムの方にはアポイントメントがない限り往かない。それだけ謁館者が少いということと、博物館があまりにも寒いからという理由である。七月中旬でありながら寒いという建物がどんな建物なのか見当がつかなかった。とにかく館長の居場所がわかったので、館長が(ここでも女性だったが)、屯されている、離れのオフイスまで、迎えに行った。

館長さんはぼくらが来るのを待っていてくれたらしい。昨日、いらっしゃると思って、待っていましたとおっしゃる。成るほど連絡が上手く取れていなかったのだ。誰かがぼく達に博物館館長の正しい居所を教えるのを忘れたらしい。ありそうな間違いである。何故、真夏でも寒いのかも判った。もと留置所とあって、建物はまるで地下の塹壕の中にあるみたいで、陽の熱が全く伝わらない。

博物館はビニッチァと比べると質も量も落ちると印象を受けた。しかしブラッドは喜んだ。彼が子供の頃から採集しているナチ · ドイツ軍人の鉄兜、ゲートル、拳銃、等が棚に陳列されているのである。館長を相手にぼくらには関係のないことを質問し始めた。ぼくはさすがにいらいらしてきた。ブラッドはまだ子供みたいなところがあるし、ぼくは普段は少しぐらいの事は大目に見てきたが、熱は出る、声は出ない、寒気はするの状態では、さすがに堪忍袋の緒が切れるではないが、怒り心頭に達してしまった。この街でも3千人のユダヤ人がナチス軍人の手に掛かって殺されているのである。ぼくははっきり言ってしまった。ぼくらは兵隊ごっこをする為にここにきたのではないと。

ぼくに怒鳴られたのはこれで2度目だったが、こっちの声が嗄れているので、小声でも、ぼくが真剣に怒っているのをわかって、直ぐ本題に戻って呉れた。ぼくらの探しているのは、現在の市庁が改装された1960年代以前の写真である。新しいロシヤ正教の教会を建設しているひとたちの話では、パービン家の屋敷と思われる大きな建物がそのころまだ空家ではあったが、建っていたのが写って居るというのである。館長さんは言った。確かに今の市庁のとなりにその家があったこと。それを証明する写真もたくさんあったこと。しかしその写真は昨年処理してしまったのだという。古い写真を採集している人が多くなり、市庁のアルバムは街の女医、ドクター ルドミラに謙譲した。しかし、もしかしたら、まだ残りの写真があるかもしれないとおっしゃる。地下室から箱入りの写真を持ってきたのを、ぼく達は三組に分けて調べた。30分ほどたっただろうか。ぼくは二枚の古い市庁の写真を見つけて、思わず唸り声を上げた。2列の長い民家が市庁の隣りに間違いなく写っているのである。ぼくは買い求めたかったのだが、駄目だと断られた。やむなく写真に模写したが、残念ながら明かりが足りなかった。かえってからアドビのフォトショップであれこれ修正してできたのが下の二枚の写真である。陰のようではあるが、家の輪郭ははっきり見える筈である。

左側のビルは市庁である。現在の建物と少し違って見えるが、同じ建物である。1970年代に正面をリノベートして改装したためである。パービン家は右端、下の写真で二列に並んだ長い平屋であることがわかる。上と下の写真を参照していただきたい。
惜しむらくは遠景で建物のストラクチャーが判らない。館長はいま少し、別のアーカイブを探してみたいが1日がかりになるとおっしゃる。ぼくは今日の所はこれで我慢するべきだと判断した。欲を言い出せばきりがない。ハイヂが横から古い市庁のアルバムを受け取ったという女医、ドクター · ルドミルを訪問してそれを見せて貰うわけには行かないかと、疑問をあげる。ぼくもブラッドもその案に賛成した。博物館の館長に近日中に再訪することを約して今日のところはこれで別れを告げることにした。

ルドミル女医の自宅は郵便局の裏側にあった。この辺は、数日、何度も右往左往したところなので勝手がわかった。郵便局脇の小路を入って尋ね当てた。幸運にも女医は在宅だった。女医とおっしゃるが、今は78歳の品の良い老女、引退されておられる。小さな、童話にでも出てきそうな家だ。小奇麗に整頓された応接間にとうしてもらう。

早速、訪問の理由を説明する。女医は聞き終わって真に申し訳なさそうにお詫びをなさる。この数年、年金では家計ををまかないきれず、金になる所持品は全て売却してしまったとおっしゃる。確かにそのアルバムの記憶はある。しかしそれもアルバム2冊ともベニッチアの商人に売ってしたそうである。ぼくらはさすがにがっかりした。ないものはどうすることもできないから、売却先の商人の電話番号だけ頂いて、暇乞いすることにした。

この旅には典型的な傾向があることに気が付いた。探訪は確かに成果が上がり、満足すべきであるが、今一歩の差で、ぼくらの探索が、後手、後手に終わってしまう。後2年早かったら、何事もスムーズに捗ったものを、僅かな月日の遅れが、致命的に調査を妨げるのである。不思議な因果である。

今一度、市庁に戻り、丹念にそのビルヂングの周囲を見て歩き、今は空き地になった敷地、昔のパービン家の屋敷跡を丹念に観察した。

ビニッチァのホテルへ帰る途中、国道に店を開いた、ガス ·ステーションを理由があって特に注目した。理由はハイヂの仕事がアメリカを代表する大手の石油会社だからである。石油会社の組織は何処の国でも施政機関との結びつきが複雑である。ウクライナの共和制国家が独立した後の経済事情は、国内に施設された石油会社の出張店を調べれば大体見当がつくものである。

沿道に開設されたガス · ステーションは全て新しく、昨日、今日開店したばかりに見えるほど新しい。中には聞いたことのない組織も含まれている。リチンからビニッチァの間だけでも7つほど違うステーションがオープンしていた。見てきた順序でリスト アップすると下のとうりである。

1) TNK 2) BECTA 3) ABIAC  4) DKEH  5) AEC  6)   CTO   7)   AKK 8)  LUK OIL

TNK と LUK OIL はロシアの資本であるが、TNK は最近、英国のBPが買って、ウクライナ国内では TNK BP と呼ばれている。 ドイツ、ポーランドの資本も入ってきているが、ほとんどのウクライナ国産はTNK と LUK OIL が買収、合併され始めている。

面白いと思ったのはガソリンの販売は何処のステーションも稼動してたが、付属のコンビ‐ネントの売店は開いているところがなかった。そこまではまだ手が回らないというわけだろうか。理由はまだ他にあるかもしれないので、今関係者にあたって調べて貰っている。

おかげで今日はホテルに早く帰れたので、部屋で1時間ほど居眠りして、夜は最初の夜、サーシャに案内されて行った、ポドリアホテルのダイニングですることにした。ところがこの日はサーシャが居ない所為か待遇が全く良くなかった。前回と同じドアから入ったにもかかわらず、入り口が違うといって怒られるし、テーブルに座っても、サービスが遅い。特に頭にきたのは、支払いの時になって、ブラッドが請求書を調べたところ計算が間違っていることだった。つまり故意か偶然か、高すぎるのである。ブラッドは良くあることだといって笑っていたが、土地感のない客は冷遇されるとなると、これは問題である。請求書は必ず検算することとガイドの本には書いてあるが、全くそのとうりだった。