ポドリア紀行

10日目(リチン)

副市長と会見

水曜日 7月142004年  11:00

幸いリチンの市長代理のジーナ グリゴブナが面会してくれるというので、勇んで彼女のオフィスを尋ねる。水曜日、朝11時である。オフィスは市庁の前道り、パービン家の屋敷跡から国道を隔てたところである。この辺は官公庁のオフイス街らしい。入り口の掲示板に、「ナシ リチン」(我らがリチン)と題して、古い写真と市内の案内が紹介されてある。市の自治体にはプロモーションの感覚があることを感じ取った。

 

オフイスに通されて鼻じろんだ。愛想がないのだ。木で鼻をくくったような応対である。官僚をもって任じる方々は、西も東も同じである。ビニッチァの古公文局がそうだったし、昨日のバグリノビチの派出所の官吏がそうだった。ぼくは又シャレードをすることにした。40年前に戻って一介の新聞記者である。少しハッタリヲ賭けて、取材をやり易くしなければならない。

ブラッドには英語でこの場はぼくに任せて、ぼくの言うことをそのまま通訳してくれと頼む。ぼくは言った。

ぼくらはアメリカのカリフォニァから、ある任務を持ってやってきた。このリチンは確かに地図には載っているが、町の概略を紹介する施設がこの共和国には皆無である。私の妻はこの町の住民の子孫で、偶々、市の歴史的貢献を聞かされて育ってきた。アメリカを始め西洋諸国はこの新しい共和国ウクライナの独立を祝福し、望むらくは商工会議所を媒介にして、通交の便宜を図りたいと念願しつつあるが、惜しむらくは貴共和国のビュロクラシーがバトル · ネックとなり横の対話ができない状態である。ぼくらは政府を代表してきたのではなく、民間の組織作りのためにその橋渡しのためにやってきた。あなたはご存知ないかもしれないが、アメリカやイスラエルに住むユダヤ教信者の子孫の間ではウクライナ国民以上にあなたの町の消息を知りたがっているのです。

効果はてき面だった。グリゴブナ副市長の顔が輝きはじめ、ぼくがウクライナ共和国のビュロクラシイがバトル ネックになって云々のところでは「そのとうり」だといわんばかりに深ぶかと頷き、賛意を表してくれた。あとは簡単である。金庫の中から最近発刊の市の概要、歴史、主要なイベントの催し物、数限りない記念行事の写真をだしてきてそれを提供してくださった。更には、電話を取り上げると、資料室、図書館の各係官に連絡をとりぼくらの来訪を告げ、便宜を図るよう指令してくれはじめた。文字どうりの、ツルの一声である。ぼくらは恰も貴賓客かのように役所から役所にエスコートしてもらうことになったのである。

ライブラリーに行くには一旦、外に出なければならない。建物が別棟になっていて、副市長のオフイスの裏側にあるからである。まだ正午過ぎだというのに、夕暮れかのように暗くなりはじめた。雨が降りそうである。ぼくは不安になる。風邪で微熱があるのだから、雨にぬれるのはよくない。横でハイヂがくすくす笑っている。何がおかしいのか聞いてみる。あなたにはレポーターに慣れる才能があるという。うっかりしていたが、ハイヂには日本で新聞記者をしたことがあるのを話していない。別に隠していたわけではないが、それを話すチャンスがなかっただけのことだ。いまさら、実は....と話す訳にもいかないので、そんな才能など持ち合わせないと誤魔化しておいた。ぼくがしたことは、レポーターになるための才能とは全く関係ないことで、あくまでも図々しく世の中を渡っていくための悪知恵みたいなものだったのだから。自慢する謂れは全くない。

ライブラリーのクルーは館長さんを加えて計6人、全員女性だったが、実に親切で実直な方ばかりであった。ぼくらは古い新聞、雑誌、会報の切抜きをゼロクスでコピーする作業を2時間ほど続けただろうか。

ぼくは体力の衰えを身にしみて感じ取っていた。思考を集中できない。切抜きの見出しを一枚一枚ブラッドに読んで貰い、必要な切抜きをハイヂに渡す。ハイヂはそれを係員に渡して5人の係官が5台のゼロックスを使ってコピーして下さる。ベルト コンベア式に仕事を合理的に進めようとする意思はあるのだが、どうするべきなのか判らなくなり始めた。これが役に立つ資料になるのかならないのか判断がつかない。ついには、もうこれでいいんじゃないのか、と考え初めて、ハイヂが差し出した古い年表を見ずもせず、不要用の箱に入れてしまって、ハイヂに窘められた。「3年がかりで数千マイルの旅をしてきたのに、ここで挫けては後で後悔するわよ」。全くそのとうりである。「悪かった」と謝って、更に小一時間、頑張った。

ハイヂがそわそわし出したのに気が付いた。ぼくの顔を正視して、トイレに行きたいが一緒にきてくれるかと聞く。ここはお役所なのだから、施設も民間のものより良いだろうと考えたのが大間違いだった。クルーの一人に案内して貰って、ハイヂと同行した所が裏庭だった。昔、日本にあった街角の交番みたいな小屋が建っている。ぼくも南九州の農家で似たような厠を使ったのをおぼえている。ハイヂの顔に不安の翳がさした。いまさら引き返すわけにはいかないので、ハイデは無理に笑顔を造って中に消えた。直ぐに出てくると思ったが、意外と時間がかかった。おもわずノックををしかけたときに彼女が笑顔で出てきた。

ぼくはほっとした。偶々にわか雨が降りだしたので、あんないして呉れた係員が傘をさしてハイヂを屋内にエスコートしてくれた。ぼくは安心して自分の用を足そうと思って厠に入った。前にも書いたがぼくは臭覚が全く利かない。その代わりといっては変に聞こえるが、口径で臭覚を補うような感覚を養ってきた。だから、厠の中が異常な雰囲気であることがわかる。目を落とすと正方形の井戸らしいものが口をあけている。太い板が二本足踏みの代わりに、橋げたみたいにかかっている。用を足すにはこの板の上に乗らなければならない。下は緑色の糞沼である。さすがに立ち竦んだが、前のジッパーを空けるだけの作業だったから、目をつぶって用を足し、いそいで外に出た。外にはおなじ案内嬢が傘を差し出して待ってくれていた。

図書館の資料室でこれほど根を詰めてアーカイブを漁ったのはひさしぶりのことである。赤坂の離宮跡にできた国営の図書館に通った時代をお思いだしていた。気が付くとバックパックが膨れ上がる程の資料の山である。これ以上は持ってかえれまい。ここがしほ時と、コピー料の精算をしてもらう。一枚一コペートの安さでも一人では持ちきれないほどの量ともなると、さすがに安くない。こっちも大変だったが、手伝ってくれた係りの女性達も大変だっただろう。前員にそれぞれチップを取ってもらい、図書館の費用のドーネエイションとして少々寄付を室長さんに提供した。あまり前例のないことをしたらしく。資料室を後にするとき全員、出口まで挨拶に出てきてもらい恐縮する。

仕事に区切りをつけたきっかけは今ひとつ。ハイヂを案じてのことである。ホテルに帰るのには後2時間はかかるだろうから、彼女のために、どこか人ごみを避けた野原か空き地を探さなければならない。ブラッドに頼んで車を市外に向けてもらった。

英語でこのことを running into bush という。直訳して、「薮へ走り込む」。簡単にいえば「立ちション」のことである。キエフのソ連邦時代のアパートメントの不潔な有様はすでに書いたが、野外の自然の方がはるかに屋内よりも清潔なのである。さすがにハイヂも躊躇したが生理の要求は如何ともしがたい。道路を横切り、崩れたコンクリートの建物を回り、土塀の翳に隠れ、ありとあらゆる障害物を利用して目的を果してきた。ぼくが案じたとうり、図書室での厠では未遂のままでてきたんだ。ぼくは一寸気になって聞いてみた。「何故直ぐでてこなかったの?」 「だって、折角、案内してくれた係員に悪いじゃない。」

そうだろうな。ぼくだってそうしたかもしれない。些か匂わしくある事ばかりを書いて、失礼したが、三つのS、 Safety, Security, Sanitation の問題は後に章を改めて書かせてもらうつもりでいるので、あえて読んでいただいた次第である。

市長代理が今ひとつ紹介してくれた役所があった。博物館である。少し時間が遅れているが、閉館までに挨拶だけでもと又車に乗って、市内に入りなをした。午後4時少し過ぎである。

博物館は市の東入り口の近くにある。先週の土曜日は閉館で入れなかったが、今日はまだ5時前だというのに開いていない。少々、混乱したが、こちらもできれば早くホテルに帰って休みたいと思って入たので、今日はこれまでということで、ビニッチァ向け、帰ることにした。