ポドリア紀行

   9日目(バグリノビチ  と ザルージネを再訪)

    (ペトロとマリアのインビテーション)

火曜日 7月13日2004年 10:00 AM 

VIDEO CLIP(ビデオ)

 

寝苦しい一夜を過ごして、曇った朝を迎える。微熱がある。ハイヂを起こさないようにこっそりベッドを降りて、体温計で確かめてみると、案の定、37度を少し上まわっている。学生のころ肺浸潤を医者から宣言されて、一年ほど闘病した経験があるから、自分の身体の限界は大体見当がつく。旅の残りは僅か5日、高熱に冒されない限り、何とかできると可笑しい覚悟を決める。

バビー · ヤールで奇妙な体験をした理由がこれで明らかになった。体に故障があったのだ。ぼくは霊的な経験を信じたくないから、これでほっとした。あの日から数えて5日目、家を出る一週間前に、ウイルスに感染していたとすると潜伏期間が丁度2週間。理に適っている。望むらくは高熱を伴わない、平凡な感冒であってもらいたい。

ビニッチァからリチンまで36キロ、リチンからバグリノビチまでが16キロ、朝少し早めにホテルを出たので、バグリノビチ到着は午前10時。今日は一日かけてこの村を探検する予定である。途中、上に掲載した写真で見るとうりの情景にあった。牛が群れをなして国道を歩いていく。ポドリァもポーランドも家畜は牛が大半を占めている。

リチンは北西の出口を西に向かうと左の写真のとうりの古い道が延々と続く。村に入ると、又、牛の群れにで会う。「ドウナ、ドウナ」と牛追いが声をかけるのが聞こえる。ジョーン バエーズが歌ってポピュラーソングになったユダヤ人の歌がある。「ドナ、ドナ、ドナ、ドン」という歌詞で日本でも知られていると思うが、ポドリァはこの歌の発祥地である。ぼくはこの牛の群れとツバメの飛ぶ様を目のあたりに見て、その歌の情景を納得した。カルフォニァではツバメは見られない。

土曜日にサーシャが道案内してくれたので、もう、慣れた道路を東側から入って、南北に走る道と会う、交差点まで往く。簡易な食堂をかねたコンビーネントの店があったので、入って、ランチ用サンドイッチの材料を買い込む。右手にバスの停留所、左がメモリアルパークである。どうやらここが村の中心部であるらしい。三路の角の向かいはロシア正教会の墓地のようである。軍人の写真が掲載され葬儀用の華が飾られてある。ぼくはブラッドとハイヂが買い物をしている間、南口へ向かって暫く歩いてみた。左にビニッチァ郡の出張所を示すサインのある建物が見える。郡のお役人さんのいるオフィスらしい。南口まで歩いて大体10分と目算した。一旦車に戻ると、北の出口まで車でクルーズしてみる。意外と長い道である。総人口2000人の村にしては、面積がかなり広い。北口から先は展望が開けて、地平線まで見とうしができる大草原だった。

少し取材をしたいので、村の中心まで戻ると、さっき見たお役所の出張所に立ち寄ることにした。ブラッドがまず様子を見に入ったがなかなか帰ってこない。中に詳細な村の地図が掲載されていたのを調べていたという。ぼくとハイデは早速、カメラを持って中に入った。

オフイスには係りつけの役人がいたが、ビニッツァのときと同様、取っ付きが悪い。何を聞いても知らないという。やむをえないので壁一面に掲示された地図をカメラに収める。制服に身を固めたシェリフらしい役人も見かけた。

これはビニッチァのオフイスで聞いたことだが、この村は最近、ジプシーがたくさん移住してきているらしい。残念ながらぼくには、ジプシーと地元の百姓との見分けがつかない。道行く人はさすがに外国人、とくにぼくみたいな東洋人は見たことがないらしい。ぼくら3人はすでに村の話題になっている様子だった。家の中から出てきて挨拶をするものもいる。しかし、嗜みが良く、じろじろ見られることはなかった。非常に感じのよい村人達ではあった。

北端の出口まで戻り、車から降りて、大自然の美しさをゆっくり楽しんだ。ハイヂとここの土地を買って、牧畜か園芸を経営してみるのもいいなと語り合うほど、土地は美しく、魅力があった。

空気も新鮮だし、カルフォニァ見たいに、汚染されたスモッグは全く感じられない。夏嵐が来るらしく湿気はあるが生暖かく、ぼくらが来た所とは全く違う天候である。昼過ぎの2時間をのんびりと過ごした。

ぼくの悪い癖だが、緑の草原に座って、暫し夢のような考えを弄んだ。ハイヂには事情さえ許せばここに土地を買いたいつもりがある。本人が言ったわけではないが、20年間より添った者のカンである。ぼくは恐らく反対して止めるだろうが、けっして悪い案ではない。特に時価がただみたいに安いのだから、まとまった敷地を今買っておけば10年後には大変な財産になるだろうから。問題は新共和国の政体である。クチマ大統領は今期限りで後継者を迎えるが、誰が政権をとるのかが問題である。元ソビエット政権を復活させようとするものたちに政権が移ると又もとの木阿弥だろう。ここに不動産を持っていることで、とんだ迷惑がかかってくるかもしれない。

とは、思ってみても、それは理屈である。こうして、隠れた理想郷を目の前に見ていると、好き勝手な想像をしてみたくなる。仮にこの村を村ごと買い取ったとする。恐らく住み着くには少し遅れすぎているから、自宅はカルフォニァにして、ここには村長のマネージメントのできるものを雇う。さて何から始めるかである。一番大切なことは、医療設備である。共和国自体が医学者の海外流失で、ウクライナ語を書き話す人材がなくなったと聞く。ぼくだったらこうすると考えた。

12,3人の医学生インターンをカリフォニァで募集して、2年計画で彼らをこの村に送り込む。同時に村人を率先して医療用のクリニックを建設、ここに小さな自治体をつくり上げる。発電所を建てて上下水の施設を架設すれば、村民は安心して作農に従事できるから、5年後には彼らの収入で元が取れるのではないだろうか。

少し乱暴な白昼夢ではあったが、ぼくは愉しかった。残念ながら時は人を待たず、これからザルジネに回る予定がある。ぼくらは腰を挙げ、村を後にした。後もう一度来ることを誓って。

村を出て1キロほどの地点で、シェリフの制服をきた役人が一人歩いて帰る姿を見た。車をとめて聞くと、リチンまで帰らなければならないという。ぼくらはザルージナ周りだが、とにかく国道まででもと車に乗って貰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ザルジネには前回と同じく、正面から入った。まず、例の工場跡を丹念に歩き回る。土地は国のもので、個人が自由にできないことになっている。やはり小さい村のことである。すでに村中の噂になったのであろう。道往く人たちは恰も10年の知人かのようにぼく達に近づいてくる。

ぼくのほうもだんだん気が楽になってきて、土産用に用意してきたキャメルの箱を勧めて見る。喜んでもらってくれる。贈り物は贈られるほうの態度によって意味が異なってくることはこの旅で習った。つまり贈り物は贈る者のためであって、必ずしも送られる側のためのものではないこと。

一頻り、村の人との挨拶が終わると、車で村の奥まで入ってみた。緩やかな丘状は果てしなく続く。とうとう車では入れないほど奥に入る。車から降りて3人ピクニックのつもりで歩いた。

牛追いのイーゴウルにあったのはこの時である。丘のふもとで道を聞いたのがきっかけで、牧草地に座って、かれの話を聞く。かれはまだ30歳、独身である。50メートル先に50頭あまりの牛の群れが、或はたち、或は座り或は周辺を闊歩している。自分の牛は2匹。残りは全て隣近所の牛をお守して、丘から丘へ終日、あるくのが彼の仕事であると聞く。

ご披露したぼくの夢物語だが、ぼくはここの村の生活の感覚を瞥見できるかもしれないと思い、彼にはどんな夢をあるのか聞いてみた。全く予想もしなかった返事が帰ってきたのである。この村は昔から大変親切なポーランドの地主がいた。しかし革命以来、地主貴族達は皆、ポーランドに追放されてしまった。イゴールはいつの日か、この貴族たちが帰ってきて、村の自治を回復してくれる日を待っているだといった。

サムエル ベケットが書いた、「ゴドーを待ちながら」という戯曲がある。二人の男が来るべきはずの「ゴドー」を待って、いつまでも、いつまでも待つという話である。イゴールが待つポーランドからの地主貴族は100年前の亡霊である。人民の自治を持って独立せんとしたボリシビックの革命が今世紀になって、こんな終焉を遂げるとは、まさかレーニンご本人すら夢にも予想しなかっただろう。しかし、とぼくは考える。村人は自分達の自立よりは、良い意味での政治感覚を身につけた指導者を求めているのは確かである。と言うことは東欧の最果てに小さなを王国を造って、統治してみたいというぼくの夢物語を受けいれてくれそうな環境があるのという事なのだ。

ぼくの夢物語は所詮は過去600年、ウクライナを侵略してきた王国、公国、ファッシストのメンタリチと全く変わらない。気が着いてぼくはおもわず背筋の冷える思いをした。ぼくとて例外ではないのだ。この土地を見て踏んだものが誰でも冒される熱病なのだろう。それほどの魅惑を持つ土地が悪いのか。それとも、不当な野心を抱くひとの性がいけないのか。いやそれとも、全てを土地の持つ魔性の所為にしてしまってもいいのではないか。 ぼくは暫し考え続けた。

夕陽が落ちると、イゴールは牛を返さなければならない。別れを告げて車に戻ると、なんとペドロが待っていた。彼の妻がぼく達を夕食に招待したいといってくる。二つ返事で招待をアクセプトした。

招かれて入った家は外から見ると小さかったが、中は意外と部屋がたくさんありこぎれいに整頓されてあった。

ペドロは村の長老、パービン家の工場の経緯を話してくれた百姓である。成人した娘二人は嫁いでキエフに住んでいるという。話は当然ながら、1941年のナチス侵略以後の村の話である。かれもナチスに徴集されてベルリンまで強制労働を強いられたひとりだった。2年間の囚労生活を終えて村に帰ってくるが何もかも初めからやり直しだったという。

取って置きだというぶどう酒だという、梅酒に似たものを勧められる。飲めないぼくは失礼にならないように、体裁よくテーブルに於いて、飲む振りをしてごまかした。スラブ系の家庭にはキバサが常食である。ハイヂもぼくもこのポーリシのソーセージが大の好物である。喜んでご馳走になる。

マリアが庭のじゃが芋を掘って来るから手土産にもってって帰れとおっしゃる。ぼくは母の郷里、九州の南端で生活した経験がある。そのときの田園生活、手作りの農作物を手土産に隣近所を訪れた時代を彷彿に思い出していた。マリアはハイヂを誘って裏庭に出る。スコップを持って一面にできたじゃが芋畑を堀りはじめた。ハイヂは野菜作りが大好きである。バケツ一パイのじゃが芋を抱えて悦に入っている。

夢にも想像しなかった、ウクライナの百姓家の夕餉を楽しむことができた。泊まっていけと言う勧誘を遠慮してホテルへの帰路に着いた。

故意か偶然か折角頂いたじゃが芋のお土産を軒の下に忘れてきてしまった。

ベニッチァ着、夜8時。