ポドリア紀行

8日目(リチン · バグリノビチ)

 (ビニッチア郡、古公文書局を探訪)

月曜日 7月12日2004年 10:00 AM 

 

あさ7時半起床。咽喉の痛みを苦々しく飲み込む。朝食はホテルのダイニングで、8時半、3人そろって食べた。ブラッドが申し訳なさそうに切り出す。リチンで案内役を務めたサーシャがビニッチアには古文書を保管する役所があるはずだと言っていたそうだ。

かってのポドリアには出生届、婚姻届、死亡届などを管理する政府の窓口があった。ポーランド時代からの古文書をを保管、公用、私用の契約書作成には欠かすことのできないパブリックの官庁がクメルメツキ市にあった。ウクライナ共和国独立以前のことである。しかし、そこにあった公文書庁は火災のために、ほとんどの資料が焼失してしまったと聞いている。もっとも第二次大戦中の戦災でも大半の古文書が破損した事実があるので、ぼくは初めから公用の資料を探す計画を持っていなかった。

ところがサーシャに言わせれば、新共和国となってポドリアの一部がビニッチァに加郡したとき、一部の古文書がビニッチァ市に移管されたという事実がある。つまり、クメルメツキでの火災を免れた文書がこのビニッチァに残っているかも知れないという事である。ぼくはあらためて、古文書の資料を探すという仕事を考える必要にせまられた。

 

リチンとバグリノビチを再訪問する予定は、昼過ぎからとして、とにかくそのオフイスに行って見る事にした。朝9時少し過ぎ、ぼくらはホテルを出て徒歩で国営のアーカイブのオフイスにつく。驚いたことに、オフイスのあるビルヂングは昨日訪れた、博物館のとなりだった。壁の漆喰は崩れ落ちて、正面の扉は閉鎖、オフイスにはビルを迂回して横の路地から入らなければならなかった。

 

作日のミュージアム見学以来気が付いたことだが、ウクライナの復興は目を見張るものがあるものの、官公庁の施設、建物の貧弱さは驚異に値する。コカコーラ、マクドナルドという民営、特に外資の入っているチェーンの進出は著しくはあっても、共和国、特に末梢の国営の支局は気のどくになるほど、遅れている。財政、金輸業など経済に直接繋がる局、庁はそれでも未だましではあるが、図書館、博物館、古公文書局ともなると、まるで貧民窟を訪れたみたいで感慨深い。

ソビエット時代のコンクリートのビルは冷え冷えと冷たく、裸電気のがぶら下がる、オフイスには、古風な机と椅子と山と積まれた書類の束が埃をかぶっている。30分ほど待待たされて出てきたのは、アーカイブを管理する係り長、無愛想にリチン周縁の文書は全てクレメッキーで焼けてしまったという。そんなこと、こちらは百も承知だ。

しかし、ユダヤ系関係の資料ならば、ここにもあるから、担当の副局長に面会して承認を受けなければならないといわれた。その段階では、なぜユダヤ人の資料に関して、特別扱いがあるのか分からなかったが、何かいわれがあるそうなので、面会の手続きをとった。ぼくは昭和10年生まれ。日本で新聞記者をしていたころ、官公庁の出入りを日課にしたことがある。昭和30年代の話であるが、その雰囲気も、ビューロクラチックなシステムが全く同じに見えた。面会の手続きを今とると、実際の面会は運がよくとも明日、うっかりすると一週間もかかるかも知れないと、予感した。これは昔、養ったカンである。面会願いを書類で作成するより、強引にそのオフイスを押し入ったほうが早い。

生憎、副局長はまだ出局していないという。そこでブラッドに頼んで、その秘書をさがしてもらった。おかげで秘書を続じて副局長は別のオフイスにたちよることが分かった。ぼくらは一旦そのビルを出ると、10分ほどの道程を歩いて、分局を訪れた。ビノクラバ博士の名前は聞いてきたから、恰も先約がある風を装って、その名前のあるオフイスに無断で入っていった。これも日本時代に習った、アノ時代の新聞記者の悪い習慣であるが、功を奏した。副局長は突然の外人の侵入者に驚いたらしいが、ぼくらはもっと驚いた。副局長のビノクラバ博士は女性だったのだ。更に驚いたのは、名刺をもらって、その名前を読んだときである。ファイマである。ファイマは典型的なユダヤ人の名前である。

ビノクラバ·ファイマ博士 ビニッチア公文書局の副局長

これでからくりが読めた。ユダヤ人系の資料ならばあるということは、最近ポドリアにはユダヤ人のルーツを探しに来る観光客が増えていること。それを予測して古公文書局ではとくにファイマ女史を指名して、資料提供の窓口にしている次第である。予想どうり彼女はビニッチァ市のユダヤ教シナゴグの会員でもあった。

これも家を出る前に調べておいたことだが、ビニチアにはシナゴグの組織があり、ウェッブサイトも発刊されていた。北米、イスラエルにあるユダヤ教集団を対象に寄付金を募っている。ぼくも暫く連絡をとるために、電子メールのコンタクトを試した経験がある。

ビノクラバ博士は今、リチン周辺の町村にしぼって、ホロコウストの犠牲者のリストを作成したが、それを出版するための基金を集めているといわれる。

インタービューは相手の様子がわかると、こちらの作戦もし易くなる。ビニッチァ市もシナゴグも資金集めに奔走しているはずだ。ビルと施設を見てその辺の事情はわかって理解している。

案に相して、資料の採集は有料だと釘を打たれた。早速、手持ちの100ドル紙幣を差し出して、これを手数料。更に20ドル紙幣を出して、これは出版の費用にコンパする旨、申し出た。金で済むことなれば、ビューロクラシイの齎す障害を解決できるから、後は時間の問題のみとなる。調査には少なくと、2ヶ月はかかるらしいブラッドに頼んで、ぼくらの必要とする書類をリストアップしてもらった。

1) パービン、レイブ ニコライビッチ              

2) パービン、シュメール

同上の出生証明書、婚姻証明書、死亡証明書

3) パービン、レイブ シュメーリビッチ 

4) 同妻シャンデル

5) 同息子女 マックス レオン ジョセフ ベイラ ドラ

同上の家族員の出生証明書。

これが、ぼくらの申し込んだ書類だった。正直言って、ぼくはこれがうまくいくとは全く期待していなかったが、案に相して後、大変役に立つことになった。

 

ビノクラバ博士のオフィスを出ると既に昼下がりである。申し込みは全て書類にしなければならない。パソコンでタイプアップするのと違って、筆記だから時間がかかる。時計を見ると、申し込みが完了した時には3時間もかかっていた。それほどの長時間をぼくらに割いてくれたのはビノクラバ女史のおかげである。最も計120ドルなりの出費が功を奏したのかも知れない。後でブラッドが述懐したところによると、$100 の経費だと聞いたとき、ドルとグベルニエを聞き間違えたのかと思ったそうだ。そうだろう。ビノクラ博士クラスの役人ですら、月の全収入ですらその半分にも達しないはずだ。一月掛りでもすまない収益を3時間で果したのだから当然だとブラッドは言って笑った。

ところで、今日のスケジュールである。ぼくは逡巡した。咽喉の痛みは頭痛を伴い、もはや楽観できない事が判った。昨日までは、体調を整えるつもりで、できるだけ休養を取る方針で勧めてきたが、事態は猶予できなくなってき始めた。早くしないと宝の宝庫に足を踏み入れながら、手ぶらで出てくる憂き目を見るかもしれないのである。帰る日は決めてあるのだから、時間がなければ明日にのばすという逃げ道はふさがれてしまっている。発熱して寝込むことは許されないのだ。リチンまで行っても日暮れまでにできることは限られているが、とにかく行くだけでも行くべきだと思った。マーケットでパン、ハム、ソーセージ、チーズ他果物を買い込んで車に戻る。遅い昼飯を車の中で済まして、リチンに向かった。

東の入り口から入って、市庁のあるレーニン道りを一気に突き抜けて、北西の出口まで直行した。土曜日以来、町の輪郭は頭の中に入れておいたので、大体の様子はわかっているつもりである。そこには古いユダヤ人墓地(セメタリー)がある。一種独特の緑色の門をくぐると、深閑とした墓地である。ベルデチェフと比べると、流石に規模は小さかったが流石に一回りするには、小一時間かかった。できるだけたくさん写真とカームコードに撮影する。雑草と樹木の被害はさして酷くない。10数人のバランチァがそろえば1月ぐらいで清掃できるだろうと目算した。

古い墓石の刻印は風化してとても読めない。仮に正確な位置が記録されていてもある特定の墓を探し当てることはまず不可能である。パービン家関係の墓を探すことはやめることにする。

1941年のホロコーストはリチンでも例外なく起こっている。2、3千人が惨殺されたという。何れも西側の広場で処刑されたそうだが、計3箇所のモニュメントが立てられている。周辺のバンダリズムを恐れてかゲイトニは鍵がかけられてオフリミット。近くまでいけなかった。ここにも子供だけの犠牲者を祭った、記念碑もあった。

ホロコーストのモニュメントを参拝し終えるころは既に夕暮れだった。少し遅いとは思ったが、今一度パービン家の屋敷跡まで足をのばすことにした。

予定では、今日、町の博物館によって、市庁の立っているビルヂングの横に写っているはずのパービン家を確認するはずだった。ビニツァのアーカイブ探しで、貴重な時間をつぶしてしまっている。念のためにと見慣れた博物館のドアをノックしては見たが、頑丈な木製のドアはシンとして反応もない。その建物は以前、監獄だったという。これはブラッドからの又聞きである。

大聖堂のレノベーションの工事も今日はおしまいなのだろう、誰もいない。気兼ねなく歩き回ることができた。パービン屋敷跡は雑草が生い茂っている。ぼくはあらためて写真を取り捲り、ハイヂは無言で空き地を行ったり来たり歩き回っていた。時こそ違うが100年前と全く同じ空間である。身内のものが寝泊り、歩き、生活していた場所に立って、未知の過去を想像する楽しみを満喫させた。

今日のこともあるので、明日は朝からバグリノビチに往くべきだと思った。最も大切な生まれ故郷の村である。仮に病で寝付くことになることも考えて、一日、終日、あの村で時を過ごしたい。リチンですることもまだたくさんあるが、こうなると、一箇所に調査を集中できなくなった。

ハイヂは流石にぼくの体調がすぐれない事に気がついていた。口数も減り、足取りも捗らぬぼくを、かばうようにエスコートして、ブラッドに今日の日程の終了を告げた。