ビノクラバ博士のオフィスを出ると既に昼下がりである。申し込みは全て書類にしなければならない。パソコンでタイプアップするのと違って、筆記だから時間がかかる。時計を見ると、申し込みが完了した時には3時間もかかっていた。それほどの長時間をぼくらに割いてくれたのはビノクラバ女史のおかげである。最も計120ドルなりの出費が功を奏したのかも知れない。後でブラッドが述懐したところによると、$100 の経費だと聞いたとき、ドルとグベルニエを聞き間違えたのかと思ったそうだ。そうだろう。ビノクラ博士クラスの役人ですら、月の全収入ですらその半分にも達しないはずだ。一月掛りでもすまない収益を3時間で果したのだから当然だとブラッドは言って笑った。
ところで、今日のスケジュールである。ぼくは逡巡した。咽喉の痛みは頭痛を伴い、もはや楽観できない事が判った。昨日までは、体調を整えるつもりで、できるだけ休養を取る方針で勧めてきたが、事態は猶予できなくなってき始めた。早くしないと宝の宝庫に足を踏み入れながら、手ぶらで出てくる憂き目を見るかもしれないのである。帰る日は決めてあるのだから、時間がなければ明日にのばすという逃げ道はふさがれてしまっている。発熱して寝込むことは許されないのだ。リチンまで行っても日暮れまでにできることは限られているが、とにかく行くだけでも行くべきだと思った。マーケットでパン、ハム、ソーセージ、チーズ他果物を買い込んで車に戻る。遅い昼飯を車の中で済まして、リチンに向かった。
東の入り口から入って、市庁のあるレーニン道りを一気に突き抜けて、北西の出口まで直行した。土曜日以来、町の輪郭は頭の中に入れておいたので、大体の様子はわかっているつもりである。そこには古いユダヤ人墓地(セメタリー)がある。一種独特の緑色の門をくぐると、深閑とした墓地である。ベルデチェフと比べると、流石に規模は小さかったが流石に一回りするには、小一時間かかった。できるだけたくさん写真とカームコードに撮影する。雑草と樹木の被害はさして酷くない。10数人のバランチァがそろえば1月ぐらいで清掃できるだろうと目算した。
古い墓石の刻印は風化してとても読めない。仮に正確な位置が記録されていてもある特定の墓を探し当てることはまず不可能である。パービン家関係の墓を探すことはやめることにする。
1941年のホロコーストはリチンでも例外なく起こっている。2、3千人が惨殺されたという。何れも西側の広場で処刑されたそうだが、計3箇所のモニュメントが立てられている。周辺のバンダリズムを恐れてかゲイトニは鍵がかけられてオフリミット。近くまでいけなかった。ここにも子供だけの犠牲者を祭った、記念碑もあった。
ホロコーストのモニュメントを参拝し終えるころは既に夕暮れだった。少し遅いとは思ったが、今一度パービン家の屋敷跡まで足をのばすことにした。
予定では、今日、町の博物館によって、市庁の立っているビルヂングの横に写っているはずのパービン家を確認するはずだった。ビニツァのアーカイブ探しで、貴重な時間をつぶしてしまっている。念のためにと見慣れた博物館のドアをノックしては見たが、頑丈な木製のドアはシンとして反応もない。その建物は以前、監獄だったという。これはブラッドからの又聞きである。
大聖堂のレノベーションの工事も今日はおしまいなのだろう、誰もいない。気兼ねなく歩き回ることができた。パービン屋敷跡は雑草が生い茂っている。ぼくはあらためて写真を取り捲り、ハイヂは無言で空き地を行ったり来たり歩き回っていた。時こそ違うが100年前と全く同じ空間である。身内のものが寝泊り、歩き、生活していた場所に立って、未知の過去を想像する楽しみを満喫させた。
今日のこともあるので、明日は朝からバグリノビチに往くべきだと思った。最も大切な生まれ故郷の村である。仮に病で寝付くことになることも考えて、一日、終日、あの村で時を過ごしたい。リチンですることもまだたくさんあるが、こうなると、一箇所に調査を集中できなくなった。
ハイヂは流石にぼくの体調がすぐれない事に気がついていた。口数も減り、足取りも捗らぬぼくを、かばうようにエスコートして、ブラッドに今日の日程の終了を告げた。
|