ポドリア紀行

7日目(ビニッチァ)

インタルード (息抜きのエピソード)

日曜日 7月11日2004年 11:15 AM 

 

日曜日の朝である。出発以来、1週間。相次ぐ新発見に興奮して、旅は当に絶頂、愈々中盤を迎えつつある。昨日以来、風邪気味である。タイラノールを4時間おきに飲んでいるが、疲労もあってだるい。無理をせずに、終日、休養するべきではないかと考える。思考力も衰えて来た。見たこと、聞いたことを反復して、考証するのだが、どうも集注できない。

目を覚ましたハイヂに意見を聞いてみる。Good Idea だと言ってくれる。ブラッドも二日ぶっつづけの運転だ、三人で、まだ見学もしていないビニチアをのんびりみて回ろうということにした。

ブラッドの部屋に電話を入れて、昼過ぎ1時にロビーで待ち合わせることにして、眠りなをした。

100ドル紙幣2枚つき返される

日曜日なのに銀行が開いていた。昼飯をダイニングで取ると、早速、ドルをグレミナにエキスチェンジしようとして驚いた。100ドル紙幣二枚が新品じゃないと言ってつき返されたのだ。

アメリカを出るとき心配していたことが、実際に起こったのだ。大丈夫だと保証してくれたブラッドも、プロテストしては呉れるが埒があかない。実に困った。20ドル紙幣は嵩張るので、ほとんど100ドル紙幣を持ってきている。ぼくは自分の銀行が恨めしくさえあった。止む得ず、もっている20ドル紙幣を全部グレミアニに直して、銀行を出る。

ハイヂはインナーネットの店を探し当てて、早速親戚に昨日の話をメールしていた。銀行での経緯を彼女に説明した。今ひとつ方法があると言う。ハイヂは仕事の関係で、西ヨーロッパで頻繁にATM を利用する。このシステムは日本が早くから開発してきたが、プラスチックのカードを使って必要に応じて現金を現地の自動販売機で引き出す方法である。最近はアメリカ中何処に行ってもこれを利用するからぼくらは現金は持って歩かないですむ。ウクライナもこれを開発中だと聞いた。手持ちのグレミアがなくなった段階で、ハイヂはこれを試してみようと言う。少し心配だったが。ぼくも同意した。

博物館見学

博物館があった。旧ソ連邦は何処の町を訪れても、立派な博物館があると聞いていた。話のとうりだ。図書館、博物館は政府直属の公共機関だった時代があったのだろう。このたびの旅で、何処の町でも、国或は郡の官公庁のある町には、必ず博物館があった。但し限られた予算で経営されているのだから、メイントナンスが苦しそうだった。何処もそうだったが、陳列品の質は大変結構だったが、施設は古く、インテリアはソビエット時代のもで古かった。

ビニッチアも例外ではなかった。入館料、一人、たった1グリミナ。しかし写真をとるものは、5グリミナ払はなければならない。驚いたのは、各部屋に、館員が立っていて、入館者が入室してくると、部屋のスイッチをあけて電燈を点ける。誰も居なくなるとスイッチを切って、部屋は真っ暗になる。電量を節約しているのだ。日曜日だと言うのに、数えるほどしか入館者は居なかった。

ぼくらみたいに恵まれた、西洋から来る観光客には、信じられない事だった。博物館を出るとそろそろ黄昏時、休日の町並みは閑散としていた。

ビニッチア市内はキエフと同じく何処にも巨大なクレーンが稼動して工事中である。路は到るところが掘りあげられて、歩くこともできない。宿泊中のホテルの前は、電車道路のメイン ストリートながら、レールの枕木まで掘り出されて、約2キロ余り、鉄条網のワイヤーで遮断されて、横断することもできない。僅か10メートル先の向こうどうりに行くのに2キロ歩かねばならない。流石に地元の人も考えて、あっちこっちの鉄条網に、人一人くぐれるほどの穴があいている。ぼくらも真似て孔をくぐって向こう側に往かなければならなかった。

サンフランシスコは博物館でしか見られないような古い昔のケーブルカーが走っているので知られている。ビニッチアの市電はもっと古かった。1941年に始まった、戦災はともかく、この町は1917年の革命以来、文明の進化は中途してしまったのではあるまいか。

ぼくは終戦直後の東京、焼け野原になった青山の北町に住んだことがある。神宮の参道を焼けて解けたガラスを拾い集めて、小遣い稼ぎをしたものだ。あのときの都電ですらこのビニッチアの電車よりましだった。核兵器や宇宙衛星飛行のテクノロジーではアメリカと双璧だと思われていたソ連邦の市民生活は貧困を極めていたのだ。感慨深い。

 

イギリス人は利口だから

火や水などを使う

ロシア人は歌を歌い

自ら慰める

こんな民謡がロシアにあるのをご存知だろうか。ぼくらは歌声喫茶でよく歌ったものだ。日本人には、「悲しい唄、嬉しい唄、たくさん聞いた中で....で始まる「仕事の唄」の第2節目で知られているが、原題は、ドブーニシンカ(木偶の棒)である。津川主一の訳詞で替え歌でないから、ロシア人の率直な思いが表現されている。ロシア人は今でもそうだが、(一般の市民は)自分達がテクノロジーに長けた人種だと思っていない。心温かく、人情に深い事を持って自覚、歌を歌いあう事で、人との連帯をきずくと言う日課を楽しんでいる。

そんなことを考えて、ワイヤーで隔離された電車道を歩いていると、この唄のメロデーが聞こえてくるではないか。ぼくは耳を疑った。あまりにも偶然だから気のせいだと思いたかった。ところが、そよ風のまにまに、このメロデーが歌声になって聞こえるのだ。耳を澄ますとアコーデオンの調べが伴奏だった。間違いない、何処かで合唱する人たちが居るのだ。何処かのビルで演奏会でもあるのかなと思ったが、次の辻を入って分かった。そこは公園だった。

リチンの公園もそうだったが、ここの公園もちょっとした市の催しを行う記念広場のようだった。いかにも旧ソ連の銅像を思わせる英雄像が建ち並び、軍人の顔写真が高々と懸けあげられていた。一郭に緑の芝生とベンチが立ち並びその中央が円形劇場の舞台になっている。7,8人の男女がそのベンチに座り、コーラスの真っ最中である。指揮をとるのはアコーデオンを肩から懸けた中年の女性。ぼくもおもわず、始めはハミング、そして日本語で口ずさむ。

合唱をしているのは、中年を過ぎた男女、軽装の普段着で、正式に組織された合唱団のリハーサルには見えなかった。しかし四重奏のユニゾンは的確で、入場料を取って演奏会をできるほどの声量と技術をもっていた。明らかにアマチュアの寄り合いだだろうが、羨ましくなるほど、愉しそうに、聞きなれた歌を歌っている。一曲歌い終わったところで、ブラッドに頼んで記録映画を撮りたいが、良いだろうかと、承諾をとってもらった。答えはもちろんOK。

寡聞にして聞いたこともない唄もあったが、メロデーに少し違いがあっても、ほとんど日本にも紹介されたことのある、フォークソングである。キエフの辻芸人の歌も愉しかったが、今日はお布施を期待しない純粋な合唱だけに印象深かった。

人は創造力と声帯、身体の動きをを駆使して、美術、詩歌、著述を創作、そして、それを演ずると言う特異な本性を持っている。歌を作り、唄い、人と合唱して、楽しむと言う習性は人間にしかない。何故唄を歌うのか。心理学者、人類学者には定着した考え方があるだろう。ぼくはぼくなりにこの問題を少し考えてみたい。

もちろん一言に「歌」といっても、その種類は数、限りない。オペラのアリーアから詩吟にいたるまで、声帯の発声を故意に秩序付けた曲を、再現して繰り返す作業を意味する。けっしてアリーアが詩吟に勝ると言う価値の問題を云々しているつもりはないので、誤解のないよう。この場合、カルメンの「闘牛士」も「弁声粛々、夜川を渡る」も、同じものだと考えて貰いたい。確かに、ベートーベンの「第9」の合唱は、「春がきた、春がきた、何処にきた」の童謡より複雑だし、正確に唄うのは音楽的な技術がいる。しかし、これを一人で唄っても、或は誰かと一緒に唄っても、楽しむ動機も、効果も所詮、同じである。パーフォーミン アートと言うものは結局、ぼくら一人一人の個人がそれを好むと言う習性があるから存在するのである。

人間には今ひとつ、ことばを造って、他と相互の意思を疎通すると言う特性をもっている。歌を歌うという動機も、恐らく、口を利きあうと言う作業と同じく本性なのであろう。しかし同じ歌詞、メロデーを繰り返し反復する行いには、それをするための動機がいる。ぼくが考えたいのはその動機の問題である。

覚えた歌詞、メロデーを正確に、繰り返すと言う作業にはいろいろあるだろうが、最もありうることは、その歌を歌う作業が唄うものの心を楽しませるからであろう。何故楽しまされるのか。それも唄う人によって、動機も環境も違うだろうが、その歌詞とメロデーが過去の思い出と繋がっていることに関しては、だれにも共通していないだろうか。すなはち、その歌を歌うことで、過去に習得した「感傷」を心に再現できるからだと思う。言うなれば歌う歌はその感傷を再現するための「媒介」である。歌はそれが悲しくても、愉しくても、昔を思い出させてくれる。

今ここに特殊なエピソードがあるので、それを紹介しながら、ぼくの考えているこを読んでも貰いたい。はじめに断っておくが、このエピソードはぼくの創作ではない。昔、子供の頃、何かの本で読んだ話である。その本には実話だと書いてあったが、ぼくにはそれを証明できる資料は全くない。だから誰かの創作だったかもしれないのである。

話は「子守唄」が題材である。日本人なら誰でも子供心に覚えている「ねんねんころりよおころりよ」で始まる子守唄である。今の台湾がまだ日本の植民地になる前の話、高砂族と呼ばれる地元のインヂアンが、日本人の開拓者村を襲撃、屋家を破壊、物を奪い、幼児を攫う事件があとを絶たなかった。日本政府は事態を重視、日本軍隊を導入し、厳しく取り締まり、どうにかこれを一時的、鎮圧することができた。

台湾はその後、日本国の管轄に入り、韓国同様、現地の人民は皆、日本の国籍で日本語の教育を受ける時代になったが、その後も「高砂族」の反政府暴動が頻発、20余年余の年月とともにその反動は組織的になってきた。 特にこれを引率する高砂族の若い酋長は同族の人望高く、勇敢で、逞しく、頭脳も明晰、日本政府機関もいかんともし難い事態に陥ったのだ。

ある日、この男の集団に襲われた、日本人町の家に幼児が居た。その男達がこの家に侵入した時、物音でその幼児が火のついたように泣き出した。幼児の母親は泣いてる幼児がインヂアンの癇に障って、危害が加えられるのとを恐れて、何とか幼児を寝付かせようとして、子守唄を唄いだしたのだという。その子守唄を暫く聞き入っていた、リーダー格の若者は突然、幼児と母親の傍らに近づいて、一心にその子守唄に耳を傾ける。母親は恐怖のあまり、歌うのを中止したが、リーダーは身振りで歌い続けろと要求した。かれは子守唄を聞きながら、やがて、静かに泣きはじめたと言う。そして、その母親に向かって、「オカーチャン」と日本語で、やさしく語りかけた。

翌日、この若い酋長は日本当局に自首したということである。後に分かったところによると、彼は20年前インヂアンに攫われた日本人の子供で、高砂族の子供として育てられたが、自分の出身については何も知らされてなかったという。自分のアイデンテチが日本人であったのを知ったのはその子守唄故であった、というのがその話である。重ねて言う、ぼくはこれが実話かどうか知らない。ただフィクションだとすると、羨ましくなるほど上手くできたフィクションである。

人と子守唄の連携は古今東西、場所の違いに関わらず、何処の国でも同じである。ぼくは思う。流行歌を含めてぼくらが日常好んで歌う歌には「子守唄」的、要素があるのではないか。早い話がぼくの年代、昭和10年代に生まれた日本人には、プレスリーやビートルズは青年時代の思い出を彷彿させる。歌が齎す思い出と感傷は無視できない。

ある特定の歌が、唄うもの達の出身、コムューン、ジェネレーションを代表することがある。国歌、校歌、部歌がそうである。共通する自分の属する歌を同胞と歌うことによって、固い団結の精神を養育できる。軍歌がそうであり、ある種のカルツの集団ではその歌を歌うことで、心を休ませることもできる。賛美歌もそうだろう。と言うことは、歌を歌うという習性は人間には欠かすことのできない大切な行いだと言えないか。

日本人は合唱をするのが好きである。その習慣があると言うのは、それを肯定する考えがあると言うことである。合唱になれていない国民もいる。もちろん例外もあるが、アメリカ人がそうである。軍隊、宗教団体、運動部に属する団体に所属しないアメリカ人は好んで合唱をする習慣がない。ユニゾンのハーモニーを自分の声帯で創造すると言う訓練ができていない。それができるのは、ドイツ人、ロシア人で子供の頃から訓練されているから、練習なくして、素直に合唱に加わることができるのである。

アメリカ人が合唱をしないのは一つに国民性にあるのかもしれない。自分の声の質と量を弁えて、他人の声と和音を造るには、妥協性と協和の姿勢がなければならない。わが道を行くという克己心で養われた性格では、自分勝手に唄うことはあっても、自分の声量を抑えて協奏の効果をを作り出す為の積極性にかけている。

誤解があるといけないから、又断っておくが、合唱のできないアメリカ人はだから団結精神に欠けていると言うつもりはさらさらない。彼らの団結力は何処の国の人にも負けない。ぼくの言いたいのは、彼らの合唱は必ずしも協奏、融合、団結だけのものではないと言っているのである。

日本には田植え歌がある。ある共同の仕事を合理的に促進させるメヂアとして歌を利用するひとつである。ユニゾーンの効果があるかないかの価値は、二次的で、本質は仕事の捗りが進むかどうかの問題である。だからアメリカ人と歌を歌うのはいらいらすることもあるが、気軽である。これがドイツ人となるとそうはいかない。ソプラノ、アルト、テナー、バスの音域を知っていないと、とても、一緒に唄うのは困難である。

ロシア人に戻ろう。彼らはアカデミックな理論をうるさく言わない。だからぼくみたいに日本語で歌っても、彼らの合唱に加えて貰えるわけである。偶々、人だかりが多くなり、一見して外国からの観光人のぼくらに、話し掛けてくる者も出てきて、ブラッドは少しぼくらの身の安全を気になったのだろう、ぼくは後ろ髪を引かれる思いで、その場を退参しなければならなかった。

高砂族の日本人の逸話が実話でなくて、フィクションだったら羨ましいと書いた。じつはぼくにひとつその構想があるからだ。自分或は自分の家族が歌いなれた唄のオリヂンが分からないことがよくある。自分が好んで唄った歌が実は外国の歌だったということは多くある。アメリカのクレメンタインの歌が日本で「雪よ、山よ、我らが宿り」の山の歌に替っているのもその例である。ぼくらが子供の頃習った唱歌には、西洋の歌劇から抜粋されたものがたくさんあった。学生時代、西洋のクラッシックを観賞しながら、子供のころに習った唱歌がいきなり飛び出してきて、「ナンだ、オリジンはこの歌か」と思い知らされたことも、一、二度だけではない。

ハイヂが好んで唄う歌がある。彼女はその歌を何処で誰に教わったのか覚えていない。何処かの子守唄みたいに情緒豊かにゆっくりしたメロデーでぼくの家庭ではハイヂとアロンが一緒になると決まって3人でこれを歌う習慣がある。ぼくは実はこの歌が非常に好きだ。ぼくらは事有るごとににキャンプグループやフォークソングの愛好家を探して聞いて回ったが、今尚この歌のオリジンが分からない。

そこで、これを、ぼくの創作にして、ここに発表してみたい。くどいようだがこれは実話ではない。フィクションである。

Bar You Shook Bar You

コザックの子守唄

昨日パービン家の生まれた村バグリノビチを探し当てたことは前述した。かつてはユダヤ人3千人が住んでいたという、シュテッテルであった。残念ながら、今は一人のユダヤ人も住んでいない。ぼくらはユダヤ人墓地の所在地も聞いてあるいたが、誰もそんなもの知らないという。そうだろう、ハイヂの曽祖父母が米国に移住したのは1923年の話である。1941年のナチス侵攻の時、ポドりア在住のユダヤ人は文字どうりターミネイトされてしまってから63年の年月がたっている。ビニツァでも聞いてきたが、バグリニビチで生まれて死んだユダヤ人は全てリチンに埋葬されたらしい。

ぼくら三人は車を出ると、道往く人を捕まえて、問い掛けた。ぼく達はアメリカから来た観光客である。この村は昔、ユダヤ人村として知られたはずだが、今でもユダヤ人が住んでいないかどうかと言う質問である。問われたものは老若男女の違いなく皆親切で、ぼくらの問いに答えてくれたが、何れも「サー知りません」(ヤー··ネ·ズ·ナーュ)だった。そのうち、一人、ユダヤ人ではないが、ナチスの独逸が侵略してきた時、ユダヤ人を匿って、その後、処刑された、コザックの家があると言ってくれたものが居た。ニキータという名前の老人で、いかにもお百姓さんだと言ういでたちをしていた。

ぼくらはその家にいくことにしてニキータの後に従った。コザックの家庭と聞いて、少し鼻白むハイヂに気が付かず、ブラッドがぼくの承認も確かめず、OK, してしまったせいである。ブラッドもコザックの子孫であるから、何も支障は在るまいと判断したのだろうが、早合点で自分勝手に決行するのは彼の悪い癖である。ぼくも少し渋ったが、これ以上ユダヤ人を探しても拉致があかないので、ブラッドに成り行きを任せてしまったのだ。

小道を辻から辻に歩くこと約10分、白い土塀のある家に辿り付いた。紺色のクレマテスが土塀に茂り、印象的だった。鉄製のゲイトを入ると、鶏小屋、牛小屋、豚小屋の家畜用の小屋を円形に、かなり大きな母屋を正面にした内庭がある。二キータはなれた腰づきで勝手に母屋にはいいていく。恐らくぼくら来客の事情を家の主人に説明しているのであろう。ブラッドはつくりからみてかなり古い建物で、恐らく革命前のものだという。ぼくは写真に撮りたい、衝動を抑えて、辛抱強く待った。

母屋から出てきた家の主人は初老の女性であった。腕にまだ1、2歳の幼児を抱えている。流石は子を育てた母親、ハイヂである。直ぐ幼児に気がついたようだ。すこし緊張気味に観察している。女性の名前はカテリーナ。ぼくらも改まって自己紹介する。この家はカテリーナの実家であると言う。ポーランドにいる地主のために、とうもろこしを栽培してきたが、夫が独立戦争に従軍して、戦死したので、子供2児を抱えて、女手一人で育て上げたのだという。腕の中の子は初孫だと言う。

「この村に誰かユダヤ人が住んでいないだろうか」と言うのがぼくらの最初の質問である。答えは「ニエーット」である。しかし、と、カテリーナは続ける。この村はもともとユダヤ人の村だったが、1920年を契機にほとんど外国に移住してしまった。残ったユダヤ人もまだたくさんいたが、ナチスのファッシストがきて、全員殺してしまった。1941年のホロコーストのことであろう。

ユダヤ人を匿って、何方か処刑されたと聞いたが本当ですかと、聞いた。本当だと言う。犠牲者はカテリーナの両親だった。カテリーナがまだ生まれたばかりの時のことだったという。ホロコーストの時、ユダヤ人を匿って処刑されたウクライナ人はたくさんいる。この旅では行く先々のユダヤ人村は例外なくホロコーストの災害にあっているが、同様にこれの巻き添いになって殺された非ユダヤ人の数も数限りない。特にユダヤ人を擁護しようとして処刑された人たちの話も後を絶たない。

ユダヤ人をナチスの軍隊から匿うのは危険を伴う。敢えてそれをした人達にはそれぞれ理由があった筈である。ぼくらはそのへんの事情を聞いてみた。事情はこうである。カテリーナがあらためて、その説明をし始めた時、腕の子が少しむずがり、声をあげた。一瞬、カテリーナの注意が幼児に向けられた、ちょっとした間合いを計らって、ハイヂが口をはさんだ。

「赤ちゃんを毛布にそんな風に包んで大丈夫なんですか」

ぼくらの話題とは全く関係ないことだったので、ぼくは少し辟易した。ハイヂを制ししようとして、ふと赤ちゃんに目を遣って、ハイヂの質問の理由が分かった。まるでミーラを白い包帯で巻いたように赤子の手足がすっかり固定されてしまっている。思いなをして、ぼくもカテリーナの答えに耳を澄ました。

「ダー、大丈夫です。私のうちでは、昔から子供をこうやって毛布で巻き込む習慣があります。」

人それぞれである。家庭によって子供の扱いが違うのは何処の国でも同じなのだろう。ぼくは納得して、カテリ-ナの話に耳を傾けた。気のせいか、ハイヂは聞いていないみたいだった。まさかカテーリーナの話に興味を失ったわけはないはずだが、ぼくは気になった。

「私の両親にはたくさんユダヤ人の友人がいたからです。」

と、カテリーナは言った。彼女の両親にたくさんユダヤ人との付き合いがあったというのはこうである。彼女の母親の方のおじいさんとおばあさんと言う人がユダヤ人、商人の住み込みの召使だったと言う。おじいさんは召使頭のBUTLER, おばあさんは、英語で言う NANNY (乳母)だったそうだ。それを聞いて、ハイヂの関心がカテリーナに向けられるのが分かった。

処刑されたお父さんも又、子供の頃、おなじ商家に出入りして、使い走りをしていたそうだ。カテリーナの母親と会って連れ添いになったのも、そのユダヤ人を仲介にしての事だったという。もちろん1917年の革命をへて5年ほどの間に、相次ぐポーグロムのため、ほとんどのユダヤ人は村を離れてしまった。祖母父が働いていたその商人も店を閉めて、その行方はわからない。

ぼくは、ふと、思いついたことがあって、聞いてみた。そのユダヤ人の商人の名前を聞いたことがあるかどうか。商人と言うが何の商売をしていたのか云々である。答えは「ニエーット」。誰も知らないという。

先ほどから、むずがって居た赤ちゃんが、とうとう泣き始めた。訪問以来、話に夢中になってぼくらは内庭での立ち話だったのに気が付いて、なれた手つきで孫をあやしながら、中に入れという。ぼくらは突然押しかけてきた招かれざる観光客である。何かいいたげなハイヂを無視して、ぼくはとりあえず遠慮した。カテリーナは子供にミルクをやる時間だから、少し待つようにと断って、家の中に入っていった。

彼女が家の中に入るのを確かめて、ぼくはハイヂに面と向かって問うた。何が気になるんだ、と。ハイヂも待ちかねたように、まず、ぼくを手で制して、ブラッドに問い掛けた。コザックには子供をあんな包み方をする習慣があるのかどうか。ブラッドは見たことがないという。実を言うと、ハイヂは見たことがある、という。昔の事だが、パービン家では生まれた子供はああやって、お人形さんみたいに固く巻き包まれていた。医者に注意されてジェネレーションが変わるうちにその習慣はなくなってしまったが。

ぼくは驚いた。いそいで頭の中を整理しようと勤めながら、ハット思った。家の中から唄い声がが聞こえてくるのだ。おもわずハイヂの顔をみる。ハイヂの顔色も変わっていた。

"Oh my God !?"

と、ハイヂは小声で叫ぶ。

声はカテリーナの声だった。赤ちゃんを寝付かせようとして、唄っているのだろうから、子守唄であろう。しかし、ぼくらを驚かせたのはその旋律である。ハイヂとぼくが歌いなれたオリジン不明の歌なのである。ブラッドが早口にニキータと話をしている。ニキータの説明の一部始終を聞いていたブラッドいう。あれはウクライナの子守唄だと。旋律は少し違うが、ブラッドも聞いたことがある。という。迂闊だった。会う人ごとに聞いてきた歌だが、ブラッドには歌って聞かせたことがなかった。もっともブラッドの聞きなれた旋律とは違うらしいから、仮に聞かせたとしても、かれには分からなかったかもしれないが。

家の中から聞こえてくるのは、間違いなくぼくらが歌いなれた旋律である。ぼくはハイヂといそいで検討しあった。赤ちゃんの扱い方と子守唄の原型が、この村にあったということは大変な発見だが、具体的に、ハイヂはだれからこの歌を習ったのだろうか。ハイヂはいう。カテリーナのおばあさんは、あるユダヤ人の家で、乳母をしていたという。その乳母が知っているぐらいだから、この子守唄は、この村に関する限り、誰からも知られた歌だっただろう。パービン家の誰かが覚えていて、渡米後唄っているのをハイヂが聞いて覚えたと考えるのが自然である。

カテーリーナは雇い主のユダヤ人商家の名前を聞かされていない。パービン家には13人に余る子供がいたのだから、たとえカテリーナの祖父母と面識がなくとも、その子供達がこの子守唄を知っていたっておかしくない。

ぼくはブラッドに頼んで、ニキータにこの子守唄に名前があるかどうか聞いてもらった。

「バーユウシキ バーュ」だと言う。

なるほどなとぼくは思った。ハイヂも笑顔を浮かべている。ぼくらが歌うとき、その一節に、 Bar You Shook Bar You と言う歌詞がある。英語では意味をなさない文章である。ブラッドが横から、バーユウシキ バーュは特に定まった意味のない熟語であると言う。子供をあやしたり、ねかしたりするときに使う常用語らしい。恐らく日本語ならば「ころりよ、おころりよ」と言う表現に、「ねんねん」を前につけない限り意味をなさないのと同じだろう。ぼくらが歌うときは英語の単語で歌う。ハイヂが覚えたのが、少女時代だっただろうから、仮に原語が外国語でも英語の発音で暗記するのは充分ありうる。

カテリーナが出てきたとき、ぼくらはあらためてここで起きたことを説明した。恥ずかしがって、躊躇するハイヂを急かして、同じ子守唄をぼくらが歌いなれた歌詞で一節だけ二人で歌って見せた。

Speak my dear Ned more pre-Class near,

Bar you shook bar you,

Tea how smart to let me shut Yazny,

Fool call Lee toward you.

カテリーナ、ニキータ、そしてわがブラッドも感心して聞いてくれた。カテリーナとニキータは旋律はこの村のと全く同じだと言う。ただ歌詞が少し替わっていて分からないという。当然である。ロシア語を英語の発音に直したのだから。

そこで今度はカテリーナとニキータに頼んで同じ歌を原語で歌ってもらった。二人は喜んで唄ってくれた。両人ともなかなか達者な歌い手であった。スラブ系のフォークソングは短調が多い。これはィ短調である。ぼくは耳に聞こえるままに音符とリリックスを書き取った。

スピー ムラデネッツ モィ プレクラスナイ

バュシキ バーュ

チイホウ スモトレット ムエスヤッッ ヤスナイ

フ コルブエル トバュ

これならぼくにも意味がわかる。拙訳で失礼だが日本語に直訳させて貰う。

眠れ、良い子よ、わが、可愛い子

バーユーシキ バーュ

静かに、お月さまが、みているのよ

おまえのゆりかごをね

 

CD

前にも述べたが、ブラッドはコサック出身である。バュ シキ バュは子守唄を唄うときの言葉だと言う事を知っている。しかし旋律も歌詞もかれの故郷のものとは違うという。かれはウクライナ東部のウガンスクで生まれた。日本でもそうだが子守唄にはいろいろ編曲されたものがあるのだろう。

ハイヂのおじいさん「マックス」には少なくとも12人の兄弟、姉妹がいた。そのうちアメリカに移民してきたのは、マックスをいれて五人だけである。弟はレオンとジョセフ。妹はべラとドーラ。ハイヂはおじいさんのマックスをはじめレオン、ジョセフから子守りをしてもらったと言うはなしを聞いたことがない。あるとすればイヂが、「べラおばさん」と呼んで懐いていたべラか、ドーラであろう。しかしハイヂはドーラと会った思い出が少しもない。ぼくのカンでは、仮にパービン家の誰かがこの歌をハイヂに教えたものがあるならば、それはべラだっただろうと思う。なぜならば、1923年べラ達がエリス島に着いた時、パービンではなくしてパーバックの名前だった事実を教えてくれたのはべラ伯母さんだったからである。べラが生まれて間もないハイヂの子守りをしながら、この歌を聞かせていたのではあるまいか。しかし証拠はない。

ぼくらはあらためて、カテリーナに質問を与えた。例のユダヤ人の商人は「砂糖」か「お酒」を造って売っていなかっただろうか。その商人の姓が分からなければ、その家の子供達の幼名を誰か覚えていないだろうか。云々である。カテーリーナは気の毒そうに首を横に振るばかりだった。そのとき、彼女の目がふと空中に浮いて何かおもついた風だった。

カテリーナが思い出したのは処刑された母親の事だったらしい。母親が生まれた年、偶々、その商家の家にも女の子が生まれたという。カテーリーナの母親より数ヶ月前であった。カテーリーナのおばあさんは自分の初めての子供に、その商家の女の子の名前をもらって、つけた。

「お母さんのお名前は?」

珍しく、ハイヂが急き込むようにしいて問いただした。

「ベイラ」 と、答えが返ってきた。

ベイラとべラは同じ名前である。ハイヂのべラ伯母さんがエリス島に来た時の乗船者名簿には、ベラはベイラとかかれてあるのを、ぼくは知っていた。

若しべラが詳しい記録をハイヂに残してくれなければ、ぼくらはとてもパービン家のルーツは探せなかっただろう。入国してきたときの姓すら分からなかったのだから。実を言うとぼくとハイヂはべラノ若いころの写真をこの旅にあたって持ってきたのである。理由はこうである。この写真の撮られた所と時が分からない。べラは革命の時、ボルシビックに加入して活躍した前歴を持っている。亡くなる前、ぼくも一、二度サンフランシスコでお会いした記憶がある。もう二十年もむかしのことだが、初めて紹介された時、気取って「ベイラ、マヤ、タバーリシチ」と、挨拶して墓穴を掘った思い出がある。タバーリシチは革命後、「同志」を強調した称号である。ぼくが何処かのオルグに加盟しているのと思われて、散々追求されたものだ。

 

 
ベラは渡米後直ちにニューヨークに移転、政治運動に駆け回っていたから、オハイオのトレィドには長く住んでいない。1930年代に撮られた家族のパス オーバーの写真にもかけている。だからこの写真は彼女の生まれ郷里、バグリノビチで撮られた可能性がある。二人の後ろの背景に似た場所があるかも知れないとおもいもってきたまでだ。今ひとつ、彼女に抱かれた男の子が誰なのかわからない。彼女が結婚して子供ができるのは後々の事である。左の写真がそれである。写真右は、バグリノビチ村で撮った。垣根の作り方を比べていただきたい。もちろん全く同じ垣根ではない。しかし自然の枝を組み立てて垣根を作ると言うアイデアは同じである。今回の「旅」にあたって、べラ伯母さんの貢献はしかして大なるものがある。彼女なくしては、このウェッブサイトも存在しなかったであろう。

 

 

左端はベイラ伯母と知られざる男の子、上はバグリノビチ村で見たフェンス。下も同。

 
ぼくら3人は公園を後ろに、ホテルへ向かっている。黄昏は深まるが、公園のコーラスはいまだに続いている。夕食の時間である。路地に面してレストランのサインがある。名前を”ナッシァ ハダ” ー 「吾が小屋」の意味である。覗くとこぎれいなインテリアである。今夜はそこでデナーをとる事にした。スープはボルシュ、鶏肉とポテトのソテー、何れも大変美味しい。やはり古い町ではある。古参なシェフが一徹なメニューを何十年も保持してきているのだろう。正直に言う。アメリカではこれほど上手に仕込まれた、食事を提供できるレストランはあまりない。

「仕事の歌」の歌詞を思い出して考えている時、その歌を歌う人たちに出くわすと言うのは全く不思議な話である。偶然にしてはあまりにもタイミングが良すぎる。ぼくは気になって、歌が聞こえた瞬間の前後を考えてみた。理由があるべきはずである。そして、考えついた。なるほどそうだったのかと合点する。

思考の発端はその内容に関係なしに、つまらない物音や、風景で触発されるものではないだろうか。つまり、冷たい雪が降り出して、クリスマスを思い出すと言うのがその例である。ぼくの耳は「仕事の歌」のメロデーが聞こえてくるのを聴覚として受信した。ぼくの思考はそれに刺激されて、その歌詞を思い出していた。だからこれは偶然ではない。ぼくの頭脳は聴覚の事実を無視して、思考のまにまに形而上学的な世界を遊歩してしまった次第だ。

ぼくはほっとした。霊的な感覚を経験するのは余り好きではない。気になって仕様がないからである。

明日は見つけた事実をもとにして、証拠物件を組織だてて調べるつもりである。パービン家のおくやの跡を証明できる資料。工場が稼動していた時代の物件。バグリノビチ村を秩序立てて詳細に見てあるくことである。

一日、充分、休養したはずだったが、いかにも体がだるい。不安である。ハイヂに気づかれぬように勤めなければならないことも苦になり始めた。