シュガービーツ(甘藷)砂糖工場の謎
パービン家には今ひとつの逸話があった。ユダヤ人でありながら土地の所有と第1級市民権の保持を許されていたと言うのだ。第一代のレイブ ニコライビッチが終生の兵役を務め終えた賞として、その資格を受けたという次第である。しかしその正確な所在地がわかっていない。「ロズナンスク サッカリン工場」と言う名前があった記録はあるが、ロズナンスクが土地の名前か、人の名前かもわかっていない。
ぼくの想像では、パービン家の生まれ故郷バグリノビチとリチンの近辺にあるはずだった。なぜならば、週末、サバテを祝うために工場主の長男、レイブとマネージャーの次男イスラエルが徒歩で帰宅するのを、家族全員が迎えに出る習慣があったというエピソードがあるからである。地図ではバグリノビチからリチンまで16`足らず、成人の男性ならば、急ぎ足で、2時間と少々で歩ける距離だ。当時のことである、工場で働く者は、朝4時から夜7時ごろまでの労働時間だっただろう。若し30分足らずの行程なら、毎日日帰りで家族のもとに帰ってこれるはずである。
ブラッドに頼んで、この近郷にシュガーの工場があるかどうか聞いてもらった。初めは誰も心当たりがなく首をひねっておる。テムールの調査では50に余る砂糖工場があるはずだった。シュガー-ビーツは公道の沿道に満産しているのだから、その工場が近辺にないというのはおかしい。
ようやく、町民の数人が、ここから少し離れているが、今でも稼動している工場があるという。1920年代にできた工場だと言う。アメリカに移民したレイブの二代前にその工場はできたはずだから、時間的に合わないとは思ったが、ほかに候補地もないのでそこに行ってみることにした。
サーシャが連れて行ってやると言うので驚いた。助けに船と、助手席に座って貰う。もはや他人ではなかった。まるで10年来の知故のようだった。とっつきは悪いが、信用されると親身になって手伝ってくれる。何かタイムマシンで過去の世界に来たような錯覚を覚えた。
サーシャとブラッドは気が合うのか、口角泡を飛ばして話し合っている。10月に控えた大統領の選挙の事らしい。ポドリアは日本でいえば明治時代の島津藩か長州、アメリカならばテキサス州、中央の政治行政に対する反骨の気風がある。サーシャは政治的には国粋者らしい。
後席のぼくはすこし心配になってきた。車は一路、南に向けて走っているが、もう30分は経つのに目的地に着かない。工場の所在地が時間的に少し遠すぎるなと思う。ブラッドに頼んでまだ遠いのかどうか聞いて貰う。サーシャはまだ先だという。意を決してブラッドにいう。ロズナンスクという名前があるがそんな固有名詞に心当たりがあるかどうか聞いてもらった。ブラッドがぼくの英語を訳してウクライナ語で聞いている。サーシャの反応は一見して分かった。
「ロズナンスク?」、「ロズナンスクというと、あなた、ザルズニァのことじゃないですか」
ぼくは、はっとした。「ザルズニァ」の村名なら心当たりがある。丁度、バグリノビチとリチンを結ぶ中間にある小さな村である。地図を見て暗記しておいたのが役に立った。
「ロズナンスクは村の名前で、今、ザルズニァというんですか?」
とブラッドが聞いている。そうだとサーシャがいう。サーシャも事情を察したらしく、ザルズーニァは疾うに過ぎ去ったから引き返さなければならないという。こっちもうっかりして居た。ロズナンスクの名をあげておけば時間を無駄にすることがなかったのだ。地名ではなく人名だとばかり思っていたのが迂闊だった。
事情はこうである。小さい村の名は革命以来換わったものが多い。雑事にザルズニァもそのひとつであるという。
ラズーニナの村に入る1キロほど前に、幅の広い長い石畳みの並木道があった。傍らに大変傷んでいるが、ひときわ見事なモザイク張りのバス ストップがある。これを直感と言うのだろうか、この村に間違いないという確信があった。並木道には親しみがあり、はじめて訪れる、場所とはとても思われない。正直言って、サバテが始まるサンセットを背景に、パービンの家族が群れをなして歩いていく情景を幾度も想像したことがあった。この並木道はぼくの心にセットされたステージと酷似していた。
村は僅か200人余が住むと言う牧草の丘にあった。昔、「ブリガドーン」というスコットランド伝説の村をミュージカルにした映画があったが、まさにここはその霧の中に隠れた、幻想の別世界にみえた。
同行のサーシャは車を降りると、10人ほどの村人を呼び集めてきた。この村に砂糖工場があるかどうかという質問から始まる。そんなものないと皆が口をそろえていう。ぼくもハイヂもその一言で、足元が崩れていくような失望感を味わった。しかし、その中の一人が、思う出したかのように口をはさんだ。
「そういえば、昔、蒸留所(DISTLLERY)があったという話はありました。」
「蒸留所
(DISTILLERY)?」 ぼくは何のことか分からなかった。
「ハイ、 だけど10月革命の時、ボルシビッキの一団がやってきて、火をつけて、ぶっ壊してしまったそうです。」
聞き耳を起てていたブラッドが、早や口に何か聞きただしはじめた。
10月革命は1917年の事である。蒸留所が何のことか分からないが、革命家が気に入らなかったのなら、何か悪い物を作っていたのだろうか。パービン家が経営していたのは、砂糖の製造工場である。どう考えてみても、関係があるようには思えなかった。
ところが、ブラッドは何かに気が付いて、考え込んでいた。
"Mr.
Yamaguchi !"
彼が改まったときのの癖である。必ず、ミスター ヤマグチで始まる。
蒸留所というのは蒸留してアルコールを醸造する工場だと言う。 ぼくは奈良漬けで酔うほどの不調法者で、アルコール製造の事は寡聞して何も知らない。だんだん分かってきたが、ウイスキー、ジンなどのアルコール飲料を造るところが蒸留所だ。酒造りである。しかし、甘藷をからアルコールが醸造できるものか。できるのだという。
横で終始黙って聞いていたハイヂがくすくす笑い出した。ぼくがあっけにとられていると、とうとう声を出して笑って言った。
"This
is it , Norimi - ここよ、ノリミ。ここにあったのよ"
「あたしのご先祖さんは BOOTLEGGER
だったのよ」だといった。BOOTLEGGER とは直訳して「酒類密売者」と言う意味である。ぼくは流石に混乱した。そこで何を造っていたのかはさて置いて、この村の地理的環境を考えてみた。バグリノビチ - ザルジネ − リチン を点で結ぶと、正三角形ができる。何処の一点からでも他の二つの点への距離が同等である。そしてその距離が 10`にもみたず、二時間以内で歩ける。パービン家のエピソードにピッタリ当てはまるのだ。
アメリカの歴史に PROHIBITION LAW
が施行された時代がある。 1919年から1933年の14年間で、酒類醸造販売が禁止された。日本人にはアル カポーンのギャング映画で知られている逸話である。ハイヂが言うには、彼女のおじいさん達がそのころ、シナゴグの地下室でこっそりお酒を作って、近所の人たちわけていた話を、母親から聞いたことがあるという。
そういえばぼくにもひとつ思いつく話がある。レイブの弟イズラエルの妻、シーバがポーグロムの犠牲になって殺された話は前述した。その後その子供達5人が、アメリカにいた父親を頼って、ウクライナを脱出するのだが、その脱出を準備中、長女のべテイは弟や妹を養うために、酒を密造して生計を立てていたという話がある。べテイはそのころ14才の小娘である。そんないたいけない小娘が何で酒の造りかたを知っていたのだろうかと、不思議には思っていた。家業が酒醸造ならお手のモノだったわけだ。
今ひとつパービン家には妙な噂がある。親戚の一人がアルカポーンの組織にいてフロリダで昔、豪勢な賭博場を経営していたらしい。噂が本当としても、ぼくにはユダヤ人とカポーンのシンジケートとのつながりが分からなかった。しかしパービン家の本業が酒造りだったのならば、その結びつきがはっきりする。
ぼくは困った。
妻のルーツ探しに、ポドリアくんだりまでやってきたが、現存する家族の知らない事実が発見されて、それを無差別に発表してよいものかどうか。ハイヂは密酒醸造と言うが、酒醸造業は全て違法とは限らない。立派な生業でもある。しかしハイヂは、彼女のご先祖の過去に何か影があると思って育っている。子供の頃からいろいろ噂話を聞いて来た。古い家族のメンバーに秘密が隠されていると思っている。例えば彼女の祖父、マックスである。14歳の時アメリカに来たがそれを証明する記録が全然ない。ポドリアに居る時何か傷害事件に巻き込まれて逃げてきたと言う話も残っている。マックスの移民は非法だったとハイヂは考えている。だから記録が何も残っていないと言う。
ハイヂはこう考える。若し酒を造るのが正業だったならば、何故、甘藷の砂糖工場だと偽わって子孫に伝えたのか。DISTILLERY
なら DISTILLERY
だと伝えて貰って何も困ることはなかったはずだという。言われてみれば確かにそうである。しかし、ぼくには別に確認しておかないとならない問題が残されていた。
1917年10月の革命が勃起した時、この工場がボルシビックの手で焼かれて、壊されたと言う言い伝えである。レイブ夫妻とその3人の子供が渡米してきたのは1923年である。革命後5年が経っている。ぼくの調べた範囲ではレイブはこの工場を土地のものに売ってそれを資金にして渡米してきたはずである。焼けてしまった工場を売るわけには行かない。ぼくはいま少し事情を知ったものに質問しなければならなかった。サーシャに頼んで年配の方が居ないか聞いてもらった。 |