ポドリア紀行

 

6日目 (LITIN)

パービン家の住居跡を発見

Saturday, July 10, 2004      01:15 PM   

 

不穏な前触れ

朝、稲妻と雷で目を覚ます。大嵐である。まだ、朝、6時。

朝飯は8:00 ダイニングから部屋の方にデリーバリーされることになっている。困ったなと思う。もっと困ったのは、咽喉の奥に痛みを覚えたこと。つばを飲み込むとそれがはっきりする。風邪を引くと、必ずこの痛みで始まる。一番心配したことが起こりつつあるのかもしれない。望むらくは、発熱の伴わない軽い風邪であって貰いたい。ここまできて、ハイヂの故郷を目の前に見ながら、沈没することは、とても考えられない。起き上がって、常用のタイラノルを3錠服用したが、残りがあまりないことに気が付いた。渡米以来、胃腸薬には日本製を使用してきた。アスピリンにはアレルギー症で飲めない。「太田胃散」 と 「正露丸」は余分に持ってきたが、肝心のタイラノルがない。ウクライナ、しかもこんな辺境に、NON-ASPIRIN の錠剤があるだろうか。不安になる。ガイドの本によると、ウクライナの医療施設は非常に貧困だと言う。必要とあれば一旦、国外に出て、治療を受けるべしとの勧告さえあった。

雨にぬれると、また、大変なことになるので、今日のリチン行きをキャンセルすべきかなと逡巡する。ところが、幸か不幸か、朝飯がきた時には雨が上がり、青空が見えてきたのだ。

朝9時、出発を決行した。

アプテカ と ポリス ( DAI )

「アプテカ」と言うのは「薬局」のことである。ウクライナは何処の町にも常設されていることを知った。ホテルを出てまず探けれがならない。市の外れに一軒見つかった。応対に出た薬師は、訓練された医師だった。「タイラノル」は商標だから、もちろん知らなかったが、NON-ASPIRIN 錠剤だと説明して、直ぐ納得してくれた。おかげで、薬を補給することができた。ほっとする。薬局に関しては、西洋何処の国とも変わらない。

ほっとすることで、今日の探検に集中することができた。ところが、町の外でポリスの点検で停車させられて、緊張する。

結局は運転するブラッドのパスポートを検察しただけで、通過させてもらえたが、マシンガンを肩からつるした完全装備の検察官二人が相手だから、これから先が思いやられた。

今日は朝から不吉なことばかりで、出鼻を挫かれたような思いである。

"No, not at this time !"

地図で見るとビニッチァからリチンまで、32キロ。ぼくは過去、定期的に、20年ほど、恒例のサンフランシスコ マラソンを走った経験があるから、32キロの距離に実感をもっている。公式のマラソンは約42キロだから、気障な言い方かもしれないが、直ぐ近くだ。走ってもいけるという意味である。沿道の町村の名前は地図を見て暗記していた。あたりまえの事だが、地図の町名は正確だった。しかし、ぼくに言わせれば、知っている名前は全て机上で習得したものであるから、現実に同じ名前の村や町が、順序正しく出て来るのがこれほど、ひとを有頂天にさせるものだとは知らなかった。

視野に入る物は何物も失わないよう、頭に入れようと勤めている。目に見えるものに貪欲になっている。記憶に残せない景色をもどかしく思う。カムコードの映画用テープは RECORD で回転しっぱなしである。

車道の左右の畑はポドリア特産の甘藷である。英語ではシュガービーツという、感謝祭には不可欠の赤い蕪の事である。ハイヂの大好きなサラダ用の野菜である。突然、ビーツが見たいから車を止めてくれという。ぼくはそれどころでないから、慌てた。

ぼくの反応がおかしかったらしく、あとでハイヂに笑われた。

「あなたらしくなかったわよ。」「駄目だって!...怒鳴ったわよ」

ぼくの家庭では、ぼくは完全に女房の尻に敷かれている。ハイヂに向かって、駄目だ!と怒鳴ったのは後にも先にもこれが初めてだろう。正直に言う。この件に関しては、ぼくはぜんぜん覚えていないのである。そんなこと言ったかなあ。と怪訝に思っていた。ところが帰ってから、旅のビデオを再生してみると、この会話がはっきりとビデオのテープに吹き込まれていた。

"No, not at this time !" と、叫んでいるぼくの声が。

やんぬるかなではある。一生、笑い話にされるだろう。

リチン発見

サロボエと言う村の標識に斜めの斜線の就いた標識を見たとき、次がリチンだと知った。斜線は同名の町の境界を経過したと言うサインである。リチンは次ではなかった。地図にはない小さな村だった。しかし後は時間の問題だと言うことは歴然としていた。そして、ついに、見えた。リチンの標識である。道路の右側に、ひとつは市がユニークに考案したもの(写真左)二つ目は国がモータリスト用に立てた標識(写真右)である。

リチンがありました。ぼくの幻想の町が、実際に存在していたのです。この町は、パービン家、ハイヂの曽祖父母とその子供達が渡米するまで住んでいたという町である。唯一の記録は、彼らが乗ってきた船の乗船者名簿に出身国の居住地として、「リチン」の名が記入されたリストである。エリス島のウェッブサイトで探し当てて以来、丸3年、そして、その町の土を踏んいる。ハイヂも感慨無量の面持ちであった。

 

さしあたってするべき事は、町の概観を頭に入れることである。今後1週間、毎日通うことになるだろうから、詳細な探訪はは後日の事として、今日はまず町中ををドライブして方向感覚と主要の建物の所在地を身につけておく。はやる気持ちを抑えて、まずハイウエイの本道に沿って、市中に入る。レーニン街と言う名前が付いている。蓋しもっともなことである。公道がそのまま町を貫通しているらしい。明らかに、市の中央広場と分かる、広大なパーク、高層ビル、高々とはためく国旗。いかにも旧ソ連邦の名残りらしい、勇壮な銅像、写真が林立するのが一望できる。町庁、或は、市庁とでもよばれる記念館であろう。レーニン像もある。東口から入ってきたはずだが、みちは右へ大きく迂回していく。西へ向かう道もあったが、狭い。本道は町を西北に突き抜けていくのだなと予感する。マーケットらしく商店街が軒並みに続くのは下町だろう。時間にして10分、約8キロを徐行して西北の出口で停車する。前方には延々と公道が続く。恐らくレチチェフ市に到る道だろう。北東から南西に走る支道の交差点で車を降りた。右手に例のモザイク造りのバス ストップが見える。

今一度、東の入り口まで戻り、今見た風景を確認すべきだったのだろうが、流石にもう我慢ができなくて、取材と写真をとることに従事する事にした。ところが他の街と違って、道行く人たちが素っ気無い。質問に応じてくれない。ようやくユダヤ人墓地の所在地は分かったが、外国人に慣れていないのか、忙し過ぎるのか、冷淡なのである。ブラッドも匙を投げて、対策を立て直そうと言う。今一度、車に乗って、下町へ戻ると、郵便局が目に入った。一寸考えることがあって、同局のパーキングに停車して、中に入った。幸いお土産品の売店がある。絵葉書、切手、封筒、便箋を買ってからあらためて、質問をはじめた。町には新旧の地域がある。リチンの古い町が何処にあるのか。ユダヤ人の居住地はあるかどうか。そしてこの近所に大きな教会、または聖堂があるかどうか等々である。聞いているのは客である。そうそう冷たくはできないはずである。

ロシア正教の聖堂の所在地云々を聞いたのには理由がある。パービン家には言い伝えがあって、昔の居住地の直ぐ傍に大きな church があったという。古い教会の建物を目印に探せば、昔の家があったあたりが分かるかもしれないと考えての事である。

「瓢箪から駒で」、この質問が功を奏した。昔、大きな教会があったというのである。今は崩れてしまったが、丁度、同じ場所に今再建中だと言う。占めたとおもって場所を聞くと、町の大広場にあるという。それならば、今きた道だから直ぐ分かると思い、車に戻る。ところがその広場と言うのが広すぎて、工事中という場所がわからない。すっかり道に迷って、西も東も分からなくなる。

四辻の真中で立ち話をしている3人の男性が居た。車の速度を落としてゆっくり停まり、車の中から声をかける。話すのはブラッドである。昔の大聖堂の跡を探しているのだが、場所を教えてくれと言う簡単な質問である。ところがまた、返事が返ってこない。逆にブラッドのほうが詰問され始めて、不穏な雰囲気になる。詰問し始めたのは、目の鋭い、中年の男である。要するに、大聖堂の跡を探してどうするつもりかと言うのだ。ブラッドに言って、何か勘違いされているらしいから、アメリカくんだりからきたユダヤ人の子孫が、その大聖堂を目当てに昔の家を訪ねていると、正々堂々ときいてみてくれと頼んだ。アメリカくんだりが効いたらしい。ようやく男の顔から警戒心が解けて、道順を教えてくれた。ぼくはすっかり、気をよくして大変な間違いを犯してしまう。来る前、お土産品として、アメリカ製の煙草、「キャメル」をもってきたことは書いた。その煙草をニ箱ばかりつかんで車の中から差し出したのだ。ブラッドが手で制するのを無視してである。一瞬、男の顔が緊迫する。それは何だと聞く。アメリカのシガレットだと答える。何でそれを受け取る理由があるのかと聞いている。ぼくはしまったと思うが遅すぎた。

終戦直後の進駐軍 GI じゃないが、アメリカに長く住んでしまうと、人に物をやることが、失礼になることがあることを忘れてしまう。チューインガムやチョコレートをばら撒くみたいに、子供に呉れてやる。ブラッドから後からこんこんと、お説教される羽目になるが、ポドリアの人たちは古風で、大変プライドが高いらしい。理由のない施し物には絶対に手を出さないそうだ。出した煙草も引っ込めて、平謝りに謝ってその場を逃げ出すように離れた。

その男とはそれで最後ではなかった。その続きがあるのだ。ブロックを二つ、三つ行ったところで、歩いても5分もかからないが、工事場に入る道が分からない。記念広場を行ったり来たりしていると、同じ男が、立って、こっちだと言う身振りで手を振っている。車でいけるところまで行った突き当りが工事場だった。本道からは見えないはずである。工事は地下である。驚いたのは、さっきの男がその工事場の責任者だった事である。

名前はサーシャ、郡庁から派遣された建築監察官だった。ぼくは穴があったら入りたいほど恥ずかしかった。穴といえば目の前に大きいのが口を開いているのだが、これは冗談にしかならない。

しかし人の気持ちは判らないものである。サーシャの態度が全く変わってしまっていた。親切なのである。人が変わったように、ぼくら三人を工事に携わった5、6人の技術者に紹介してくれて、町の歴史に詳しい人たちと連絡をしてくださるのだ。その中の数人が、工事中の場所から10メートルも離れていない空き地に昔、大きな、長屋が2軒平行して立っていたのを覚えていた。

パービン家に伝えられた逸話は次のとうりである。

レイブとシャンデル夫妻は14人にあまる子供がいた。レイブの弟、イスラエル夫妻にも6人の子供が居た。その二つの、パービン家は10人以上の召使とともにおおきくて長い棟や住んでいたと言う。その長屋は、大きな教会のとなりにあった。

ぼくは興奮で声が震えてきた。その家屋はどんな形で、どのぐらい長かったのか。昔まだ大聖堂が立っていたころの写真を探せば、その横にその長屋が写っているはずだと言う。その建物は1960年代までたっていたそうだ。誰も住むものがいなっかたので、市庁が建設され、新たにリノベーションしたときの写真に、それが写っているはずだと言う人もいた。町の博物館にその写真があるとも言う。残念ながら、今日は土曜日である。昼過ぎなのでもう閉館してしまったらしい。

ぼくらはその長屋があったという空地に立って、ひたすら、レイブ夫妻時代の面影を生い茂る雑草のなかに幻想した。それにしても広い敷地である。レイブのうちはとてつもなく大きな家だったらしい。それもそうである。そこは現在の市庁がたっているのだから、当時はもちろん町の中心地であったに違いない。おくやの写真は月曜日まで待つことにして、ぼくらは、レイブが所持していたと言う、砂糖工場を誰か知らないか聞いてみた

 

左に掲載したのは、リチン市の鳥瞰図である。写真をクリックしていただければ、同地図は拡大されて、主要な建物および所在地の詳細が表示される。

さらに同建物、所在地の名前をクリックすれば、その近辺の写真もデスプレイされます。但し英文ですので悪しからず。

 

 

シュガービーツ(甘藷)砂糖工場の謎

パービン家には今ひとつの逸話があった。ユダヤ人でありながら土地の所有と第1級市民権の保持を許されていたと言うのだ。第一代のレイブ ニコライビッチが終生の兵役を務め終えた賞として、その資格を受けたという次第である。しかしその正確な所在地がわかっていない。「ロズナンスク サッカリン工場」と言う名前があった記録はあるが、ロズナンスクが土地の名前か、人の名前かもわかっていない。

ぼくの想像では、パービン家の生まれ故郷バグリノビチとリチンの近辺にあるはずだった。なぜならば、週末、サバテを祝うために工場主の長男、レイブとマネージャーの次男イスラエルが徒歩で帰宅するのを、家族全員が迎えに出る習慣があったというエピソードがあるからである。地図ではバグリノビチからリチンまで16`足らず、成人の男性ならば、急ぎ足で、2時間と少々で歩ける距離だ。当時のことである、工場で働く者は、朝4時から夜7時ごろまでの労働時間だっただろう。若し30分足らずの行程なら、毎日日帰りで家族のもとに帰ってこれるはずである。

ブラッドに頼んで、この近郷にシュガーの工場があるかどうか聞いてもらった。初めは誰も心当たりがなく首をひねっておる。テムールの調査では50に余る砂糖工場があるはずだった。シュガー-ビーツは公道の沿道に満産しているのだから、その工場が近辺にないというのはおかしい。

ようやく、町民の数人が、ここから少し離れているが、今でも稼動している工場があるという。1920年代にできた工場だと言う。アメリカに移民したレイブの二代前にその工場はできたはずだから、時間的に合わないとは思ったが、ほかに候補地もないのでそこに行ってみることにした。

サーシャが連れて行ってやると言うので驚いた。助けに船と、助手席に座って貰う。もはや他人ではなかった。まるで10年来の知故のようだった。とっつきは悪いが、信用されると親身になって手伝ってくれる。何かタイムマシンで過去の世界に来たような錯覚を覚えた。

サーシャとブラッドは気が合うのか、口角泡を飛ばして話し合っている。10月に控えた大統領の選挙の事らしい。ポドリアは日本でいえば明治時代の島津藩か長州、アメリカならばテキサス州、中央の政治行政に対する反骨の気風がある。サーシャは政治的には国粋者らしい。

後席のぼくはすこし心配になってきた。車は一路、南に向けて走っているが、もう30分は経つのに目的地に着かない。工場の所在地が時間的に少し遠すぎるなと思う。ブラッドに頼んでまだ遠いのかどうか聞いて貰う。サーシャはまだ先だという。意を決してブラッドにいう。ロズナンスクという名前があるがそんな固有名詞に心当たりがあるかどうか聞いてもらった。ブラッドがぼくの英語を訳してウクライナ語で聞いている。サーシャの反応は一見して分かった。

「ロズナンスク?」、「ロズナンスクというと、あなた、ザルズニァのことじゃないですか」

ぼくは、はっとした。「ザルズニァ」の村名なら心当たりがある。丁度、バグリノビチとリチンを結ぶ中間にある小さな村である。地図を見て暗記しておいたのが役に立った。

「ロズナンスクは村の名前で、今、ザルズニァというんですか?」

とブラッドが聞いている。そうだとサーシャがいう。サーシャも事情を察したらしく、ザルズーニァは疾うに過ぎ去ったから引き返さなければならないという。こっちもうっかりして居た。ロズナンスクの名をあげておけば時間を無駄にすることがなかったのだ。地名ではなく人名だとばかり思っていたのが迂闊だった。

事情はこうである。小さい村の名は革命以来換わったものが多い。雑事にザルズニァもそのひとつであるという。

ラズーニナの村に入る1キロほど前に、幅の広い長い石畳みの並木道があった。傍らに大変傷んでいるが、ひときわ見事なモザイク張りのバス ストップがある。これを直感と言うのだろうか、この村に間違いないという確信があった。並木道には親しみがあり、はじめて訪れる、場所とはとても思われない。正直言って、サバテが始まるサンセットを背景に、パービンの家族が群れをなして歩いていく情景を幾度も想像したことがあった。この並木道はぼくの心にセットされたステージと酷似していた。

村は僅か200人余が住むと言う牧草の丘にあった。昔、「ブリガドーン」というスコットランド伝説の村をミュージカルにした映画があったが、まさにここはその霧の中に隠れた、幻想の別世界にみえた。

同行のサーシャは車を降りると、10人ほどの村人を呼び集めてきた。この村に砂糖工場があるかどうかという質問から始まる。そんなものないと皆が口をそろえていう。ぼくもハイヂもその一言で、足元が崩れていくような失望感を味わった。しかし、その中の一人が、思う出したかのように口をはさんだ。

「そういえば、昔、蒸留所(DISTLLERY)があったという話はありました。」

「蒸留所 (DISTILLERY)?」 ぼくは何のことか分からなかった。

「ハイ、 だけど10月革命の時、ボルシビッキの一団がやってきて、火をつけて、ぶっ壊してしまったそうです。」

聞き耳を起てていたブラッドが、早や口に何か聞きただしはじめた。

10月革命は1917年の事である。蒸留所が何のことか分からないが、革命家が気に入らなかったのなら、何か悪い物を作っていたのだろうか。パービン家が経営していたのは、砂糖の製造工場である。どう考えてみても、関係があるようには思えなかった。

ところが、ブラッドは何かに気が付いて、考え込んでいた。

"Mr. Yamaguchi !"

彼が改まったときのの癖である。必ず、ミスター ヤマグチで始まる。

蒸留所というのは蒸留してアルコールを醸造する工場だと言う。 ぼくは奈良漬けで酔うほどの不調法者で、アルコール製造の事は寡聞して何も知らない。だんだん分かってきたが、ウイスキー、ジンなどのアルコール飲料を造るところが蒸留所だ。酒造りである。しかし、甘藷をからアルコールが醸造できるものか。できるのだという。

横で終始黙って聞いていたハイヂがくすくす笑い出した。ぼくがあっけにとられていると、とうとう声を出して笑って言った。

"This is it , Norimi - ここよ、ノリミ。ここにあったのよ"

「あたしのご先祖さんは BOOTLEGGER だったのよ」だといった。BOOTLEGGER とは直訳して「酒類密売者」と言う意味である。ぼくは流石に混乱した。そこで何を造っていたのかはさて置いて、この村の地理的環境を考えてみた。バグリノビチ - ザルジネ − リチン を点で結ぶと、正三角形ができる。何処の一点からでも他の二つの点への距離が同等である。そしてその距離が 10`にもみたず、二時間以内で歩ける。パービン家のエピソードにピッタリ当てはまるのだ。

アメリカの歴史に PROHIBITION LAW が施行された時代がある。 1919年から1933年の14年間で、酒類醸造販売が禁止された。日本人にはアル カポーンのギャング映画で知られている逸話である。ハイヂが言うには、彼女のおじいさん達がそのころ、シナゴグの地下室でこっそりお酒を作って、近所の人たちわけていた話を、母親から聞いたことがあるという。

そういえばぼくにもひとつ思いつく話がある。レイブの弟イズラエルの妻、シーバがポーグロムの犠牲になって殺された話は前述した。その後その子供達5人が、アメリカにいた父親を頼って、ウクライナを脱出するのだが、その脱出を準備中、長女のべテイは弟や妹を養うために、酒を密造して生計を立てていたという話がある。べテイはそのころ14才の小娘である。そんないたいけない小娘が何で酒の造りかたを知っていたのだろうかと、不思議には思っていた。家業が酒醸造ならお手のモノだったわけだ。

今ひとつパービン家には妙な噂がある。親戚の一人がアルカポーンの組織にいてフロリダで昔、豪勢な賭博場を経営していたらしい。噂が本当としても、ぼくにはユダヤ人とカポーンのシンジケートとのつながりが分からなかった。しかしパービン家の本業が酒造りだったのならば、その結びつきがはっきりする。

ぼくは困った。

妻のルーツ探しに、ポドリアくんだりまでやってきたが、現存する家族の知らない事実が発見されて、それを無差別に発表してよいものかどうか。ハイヂは密酒醸造と言うが、酒醸造業は全て違法とは限らない。立派な生業でもある。しかしハイヂは、彼女のご先祖の過去に何か影があると思って育っている。子供の頃からいろいろ噂話を聞いて来た。古い家族のメンバーに秘密が隠されていると思っている。例えば彼女の祖父、マックスである。14歳の時アメリカに来たがそれを証明する記録が全然ない。ポドリアに居る時何か傷害事件に巻き込まれて逃げてきたと言う話も残っている。マックスの移民は非法だったとハイヂは考えている。だから記録が何も残っていないと言う。

ハイヂはこう考える。若し酒を造るのが正業だったならば、何故、甘藷の砂糖工場だと偽わって子孫に伝えたのか。DISTILLERY なら DISTILLERY だと伝えて貰って何も困ることはなかったはずだという。言われてみれば確かにそうである。しかし、ぼくには別に確認しておかないとならない問題が残されていた。

1917年10月の革命が勃起した時、この工場がボルシビックの手で焼かれて、壊されたと言う言い伝えである。レイブ夫妻とその3人の子供が渡米してきたのは1923年である。革命後5年が経っている。ぼくの調べた範囲ではレイブはこの工場を土地のものに売ってそれを資金にして渡米してきたはずである。焼けてしまった工場を売るわけには行かない。ぼくはいま少し事情を知ったものに質問しなければならなかった。サーシャに頼んで年配の方が居ないか聞いてもらった。

 

イリヤ · ペドロの 物語

村の長老ペドロが指名されて出てきた。75歳だと言うが若く見える。工場のあった跡は今は甘藷の畑、左の写真の林の裏にあったという。右はペドロ老、工場の跡を指差す。

以下の話は、ペドロの父親が目撃した工場の焼落したときのエピソードである。

これは私の父親に聞いた話であります。私がまだ生まれる前ですがこの裏に大きなアルコール工場があったそうです。工場主はポーランド公爵地主、ポリアコフ(パン爵位)。「ニエーツ」、持ち主がユダヤ人だったという話は聞いておりませんです。10月革命が勃発した時でした、革命人民軍ボルシビックが軍をなしてこの村を襲ってきましてね、工場に火をつけるは、建物は打ちすわの乱暴三昧でしたそうです。「ダァ」、アルコールを醸造して金をもうけるのはブルジョアジーの犯罪行為だと言うんですよね。この先の盆地は昔、池だったんですがね、大きな池でしてね、ちょっとした湖でして、水が満々と溜まっておりました。ところが工場のタンクが破れると、中にあった「火酒」が全部洪水のように、この池に流れ込みましてね、村人の中にはバケツを持って、池に飛び込み、「火酒」を汲みだそうとした人たちも居たそうです。「ダー」、ところが、ボルシビックは池の「火酒」に火をつけたんです。「ダー」、池は一面、火の海になりましたです。池に入っていた人たちは、火に焼かれて、大変だったらしいです。もちろん死者も出たでしょうね。「ニエーツ」詳しいことは知りませんです。「ダー」、ここが、工場の跡だったんですがね、今でも掘るといろんなものが出てくるそうです。これは伝説ですがね、金の燭台が隠されているとも言われてます。「ニエーツ」、私は掘ったことはありませんです。

 

ペドロ老は訥弁とした好人物だった。「ダー」 (yes) と 「ニエーツ」 (no) を自分で合いずつを打ちながら話す癖があって、「ダー」と言う時に、「ン」が先に入って「ンダー」と聞こえた。まるで東北ベンである。

噂にある、燭台は恐らくユダヤ教のメノラのことだろう。昔、掘り出されたことがあったのではなかろうか。

参考になったのは、工場が焼失した時は既にポーランドの公爵、パン、パリアコフの所有物だった事である。持ち主のパンは、その日、以来、姿を消して、ポーランドに逃げて帰ってしまったということである。と言うことは、レイブとイズラエルは、10月革命の前に工場を手放したのだ。そういえば、レイブの弟、イズラエルは家族をアメリカに移す準備のために、一人で渡米している。日付け変更線を超えたとき第一次世界大戦が勃興したと言う覚書が残っているので、1914年の事である。すなはち、工場はその直前にパン、パリアコフに売られていたと考えられる。イズラエルは二男で、レイブの下で、マネージャーをしていたのだから、レイブが彼を手放したのは、工場はもはやパービン家のものでなかったと考えたほうが自然である。

ぼくが気になったのは。レイブはその9年間どうやって生計を立てていたかという疑問である。今ひとつ、レイブとその家族は1921年、イズラエルの子供達がアメリカに脱出した時、リチンに住んでいたのだから、ザルズニァの工場で仕事をしていた時、往復したのはバグリノビチとザルズネァの間だった可能性もある。 即ち、レイブとイズラエルの家族はまだリチンではなく、バグリノビチに住んでいたかもしれないと言うこと。ここで当然ぼくらがするべきことは、今日、最後の目的地、パービン家が生まれた町、バグリノビチに愈々行ってみることである。

パービン家の生誕地 バグリノビチ行

上の地図はバグリノビチ(左)、リチン(上)、ザルジネ(下)の所在地を示す。3点を結ぶと、一辺、16キロの正三角形となる。それぞれ歩いて、3時間以内の距離である。

   バグリノビチ村  

ザルージネの村人に再訪を約して、又わがニッサンに乗る。サーシャは喜んで、バグリノビチに案内してくれるという。時は午後4時。世の中には本当に親切な人が居るものである。

車では遠周りになるが、徒歩なら近道があるそうだ。しかし所詮は隣村である。着くのに20分もかからなかった。待望の村はその東口に到着。胸は踊り、心はときめき、直ぐ降りて取材を始めたいのは山々ではあったが、あせる心を抑えて今日は車で村の中をドライブするだけにとどめた。朝からのエキサイトメントで流石に疲労困憊の態である。これ以上の見聞は知識の消化不良を齎すと思い、取材は明日ということで、車の中からの村の景色だけを楽しんだ。村の鳥瞰図を頭の中に造り明日の準備をすることが肝心である。

深閑とした緑の深い、静かな村である。牛が群れをなして、道をふさぐ。古いユダヤ人の墓地だけは見極めておこうと思い、村人に聞くが誰も知らない。20世紀の初頭、1920年代にはユダヤ人2000人の居住地だったはずである。

サーシャには昼から付き合ってもらい、リチンまで送り帰さなければならない時間である。後ろ髪を惹かれるような思いをしながら、村を後にした。

 

 

しもじものはなし

午後5時を少し過ぎていた。まずサーシャを大聖教の工事現場に送り届け、いとまごいを告げることにする。恐る恐ると夕食に招待してみるが、家で家族が待っているからといって受け付けない。煙草も一ダース贈ってみたが、自分はするべきことをしたんだから、お礼を頂く理由はないと、おっしゃる。全くお堅い方ではある。律儀に徹する人は何処の国にも居るものだ。

サーシャはマーケットのある下町で降りた。偶々、果物を売っている屋台が見えたので、ハイヂと二人車を降りて、オレンジ ジュウ-スひとつ、ソーダ-とバナナを数本買い込む。昼飯抜きだったので流石に空腹を覚えたからだが、理由は今ひとつ、小便を堪え数時間たっている。行くところがなかったのである。旅先では思わぬことで不便宜に会うものだが、ハイヂも同じだったらしい、トイレを探したいと言う。ブラッドはと様子をみるが、彼は平気な顔をしている。前の村で、適当に青空の下で処理したらしい。幸運にも、toilet の標識のある建物が目の前にある。ところが、35コペイカの料金が明示されてあった。いそいで、ハイヂに小銭を渡して、彼女は女性用、ぼくは男性用へと別々になる。終戦直後の日本の公衆便所も酷かったが、ここはもっと酷かった。有料なのだからと、高をくくってかかったのが間違いだったが適当に用を果たして、出てみると、ハイヂももう外にいた。「大丈夫か」とおもわず聞いた。

It was not so bad と言った、顔が少し青かった。

実は数年ほど前、日本に里帰りした時、同じような経験をしてる。最近の日本はむかしと比べて、格段と施設がモダーンになった。洋式のトイレットが何処の家庭でも、アメリカ以上に清潔に維持されているが、母の郷里が、鹿児島の片田舎である。もちろん母の家は洋式だが、観光先の民家ではまだ昔のままのところがあった。偶々、駆け込んだパブリックのトイレがわが国伝統の施設のままだった。ハイヂは何も言はなかったが、後で分かったことには、用は果さずそのまま出てきたらしい。

さては同じ手を使ったなと思い、直ぐホテルに帰ることにした。

スピード違反で罰金

ブラッドには何も話さなかったが、帰路は彼の運転が少し乱暴だなと気が付いた。いそいでいるのである。恐らく彼も疲れたのだろうと思った。早くホテルに着けるならばこれに越したことはないから、ぼくは注意もなにもしなかった。それがいけなかった。ブラッドは後ろに座ったハイヂにアルコール製造のプロセスを教えている。ウクライナでは百姓は誰でも酒の作り方を知っているのだそうだ。

対面から走ってくる車が、まだ明るいと言うのに、そろいもそろって、ヘッドライトをつけてそれを点滅させながら走ってくる。中には、手を振って挨拶するものもいる。ぼくはアメリカにある変わった習慣を思い出していた。葬式の時の習慣だが、墓地に訪れる、車は昼間であってもヘッドライトをつけなければならない。ウクライナにも似たような習慣があるのかもしれない。ブラッドはハイヂとの会話が忙しくバックミラーに写った、ハイヂに視線を集中しているので、邪魔をしないよう何も聞かなかった。

車が右に大きく迂回しなければならない曲がり角に来た時、ブラッドが大声で「糞っツ!」と言うのを聞いた。急ブレーキをかけてスピードを落としたが遅かった。目の前にレーザー ガンを手にした DAI の警官が立って、手を挙げて、停まれと言っている。

検問に引っかかったのである。

ブラッドは車をとめ。エンジンを切り、ダッシボードに準備しておいた10グリミナの紙幣を一枚、鷲つかみにすると、車を出て行った。

二分もかからなかった。ブラッドは車に帰ってくると、エンジンをかけて、走り出した。

「どうした」とぼくが聞くと。10グリミナとられたと言う。とられたと言うより、10グリムナあげてきたといった感じだったが、あまりにも手馴れたブラッドの裁き方に、感心して何も言わなかった。

「それにしても」、とブラッドが言い始めた。「ウクライナも変わったものだ」と言う。どう変ったのかと聞く。ブラッドがこういう。

昔は良かった。こういうことが起こらないように、モーターリストは助け合って、検問を見たものは、ヘッドライトを点滅させてお互いに知らせあうのだと言う。対面から走ってくる車のサインに従ってスピードを落とせば、例えDAI が物陰に隠れていても、検問にひっかからずにすむ。

なるほどそうだったのかと、ぼくは感心した。「実を言うと」、と、ぼくは、ぼくが見たことを、話した。目をむいて聞いていたブラッドは、Mr. Yamaguchi ! と言って開き直った。しかし道路に目を集中せず会話に夢中になっていたのはブラッドのほうである。彼もそれを知っていたから、お説教は食わなかった。その代わり、ウクライナ人の政府に対する反抗心のはけ口を一頻り話してくれた。

ウクライナはいつの時代も他人の施政下に支配されてきた。だから公けの当局に対抗して地下組織、即ち民間による組織を作って事あるごとに政府に反抗してきた。国の警察官DAIに対して賄賂を払って、自ら罰則を受けるのも、生活の智恵であると言う。

ぼくは理由があって、他の事に感心して居た。カルフォニァでは、交通違反は、法廷の裁判官の裁定にて決定する。だからパトロールの警察官から違反のチケットをもらっても法廷でこれを、理由如何によって、覆すこともできる。法制国を任じてが由縁である。ところがこの解決には時間と金がかかる。金がかかるの言うのは保険金のレートが違反が確定するごとにあがっていくと言うことである。

もしチケットをもらった段階で、賄賂を払ってでも、その場を逃れることができれば、助かることだってたくさんある。しかし、と思う。それも賄賂のレートが理にかなってのことである。賄賂には、公定の価格がないから要求するほうで、無法を言い出したら手におえなくなる。これも考え物だ。しかしこの賄賂うんぬんは本当の事なのだろうか。検察官が黙ってポケットするのではなくて、上官がそれを知らないはずはないのだから、国の収入と言うことで、当局は年収の予算に組み込んでいるかも知れない。などと、つまらない憶測をしているうちに待望のホテルにつぃた。ハイヂはそそくさと部屋に上がっていった。

一時間ほど休憩すると。タイミング良く、夕食の時間である。ぼくらはホテルのダイニングで特性のボーシュのスープ、ソーセージそして又じゃが芋をたくさん食べさせて貰った。

ホテルの窓から裏庭が見下ろせる。夕食前のひと時を裏庭を見ながらすごしていると。ツバメがスイスイと飛んでいるのが目に着いた。ツバメを見るのは日本を出てから40年振りである。おもわず窓際にたたずんで暫くツバメの飛行振りを観賞した。

この日はぼくの人生でもまたとない、感激の日ではあった。真実はフィクションよりももっと不可思議と言う諺を身をもって味わったのだから。