ポドリア紀行

 

5日目(HOTEL UKRAINE

一路、ポドリア目指してベニッチャ着

金曜日 7月9日2004年   16:15 PM   

 

 

 

 

 

アメリカでは販売されていない NISSAN センチュリィ

昨日のバビイ · ヤール参詣はぼくの人生でも、特筆に価する思い出を、心の奥深くに残してくれた。心身ともに疲労困憊の態でホテルに帰り着くと、崩れるようにベッドに落ち込んだ。タクシーが拾えず、キエフ北辺の旧老舗をトロリーに揺られて小一時間、一見して病人だと判定されたのだろう、乗客は見かねて、席を譲ってくれる程、親切だった。睡魔に冒され、ただただ眠たかった。

二時間ほど眠っただろうか。夜の7時だった。ハイデに起こされて、テムール宅に用意されていた晩餐会に出席しなければならなかったことを思い出す。テムール夫妻は提供したアパートが不備だったことを悔いて、一途に招いてくれていたので、断ることもできなかったのである。食後、ホテルに帰りあらためて眠り直し、起きたのが9時。今日はいよいよポドリア行きである。

約束の朝10時、テムールから借りてきた、見たことも無い、ニッサンを運転してブラッドが迎えにきてくれる。それにしても、派手に目立つ車である。ハイヂも苦笑した。

まず車を満タンにする。一ガロンで約2ドル、キャルフォニァとは偶然ながら同じレートである。ドルを少し纏めてグレミナに換金して、デリカテッサンで食料を買い込むと、いよいよ出発である。E-40 のハイウエイを一路、西に向かう。

その前に、ブラッド奇妙なことをしたので、ここに書いておかなけれがならない。両替屋でドルをグレミナに換えた時の事である、ブラッドは車の陰で、換えたばかりの紙幣を、三つに分けて、一つを左の靴下、二つ目を右の靴下の中に隠した。三つ目は10グリミナ紙幣が三枚、これは車のダッシュボードのコンパートメントに剥き身のまま入れた。ブラッドがすることの一部始終を車の中で見ていたぼくは、気になって尋ねた。

What are you doing, Vlad?

ブラッドは振り返って、ニヤットと笑った。ぼくは、おもわずハットする。答えを聞く必要はない、追いはぎにあったときの用心である。観光客用のガイドブックにもはっきり書いてある。所持金は数ヶ所に分けておくことと。ぼくもあわてて、現金を分割して隠す。ウクライナはまだ、都市を離れて地方に行くと不用心だという噂がある。とくに東洋人はあまり居ないので、たかりの対象になると言う。「東洋人云々」の件については、実は来る前に確かめてきたのだが、単なる噂でしか無いということで、気にしないことにした。色眼鏡をかけて偽装したほうがいいと言う人もいたが、相手にしなかった。分からないのは、ダッシュボードの紙幣である。

ブラッドのいうには DAI 用のためだという。DAI というのは、道交法を監視する警察官の事である。高速道路をパトロールするほか、要所、要所にスピード計器レーザーガンを手に、モータリストを監視する。これも噂だが、つまらないことで車をとめて罰金を取るという。即ち、月々のサラリーでは食っていけないので、モータリストを相手に、恐喝。罰金と称して金を取り、それをポケットするのだ。ほんとうなら、追いはぎ同様、おっかないことである。コンパートメントの現金はそれを賄賂に使うためのものらしい。ブラッドがわざわざ紙幣を用意してしているのだから、話半分としても、実感がある。

運転するのはブラッド。ぼくは助手席。ハイヂは後席でゆっくり足をのばす。

予定ではキエフを出て、まず、E-40 を西南に路を取りジトミル迄往く。そこから、E-583で真南に転向、ベルデチェフを通過、ビニイチャ市が終着地。そこで1週間宿泊のホテルを探す。キエフからジトミルまで148キロ、ジトミルからビニッチャまでが128キロ、合計276キロの行程である。制限の時速60キロに従えば4時間半から5時間のドライブである。制限時速といってもこれは市街の中でのことである。高速道路だけの時速の制限は無い。ハイウエイでも市街の管轄内では、時速60キロである。つまり、町村の名前が書かれた標識内は市街内、斜線のある標識をとうりすぎれば市外と言うわけである。この辺の事情に疎いと DAI のご厄介にななるので、スピ-ドだけは警戒して、違反の無い様、ゆっくり時間はかけるつもりであった.

問題は宿泊する場所である。ホテルのほかにアパートを週単位にレントできる方法も聞いてきたが、キエフでのアパートで懲りているので、高級(?)ホテルを探すつもりであった。為替のレートが低いので、少しぐらい高くとても、サニテーションとセィフテイを考慮して、高い部屋を取るべきだと用意してきた。ビニッチャは昔のポドリアの郡庁の有る都市である。目的地の、リチン、バグリノビチ、シャログロッドドには日帰りで往復できる。ビニッチャを拠点としてそこからパービン家の昔の生家を探すことにしてある。

この旅行は3年越しの企画である、頭の中には、実感は無くとも、正確なロード マップができていた。取材をする市町村はジトミル郡庁のある、ジトミル市、かつてはウクライナのヨルサレムとも言われた最古のユダヤ人のシュテッツル、ベルデチェフ、それとビニッチャ近郷のカリノフカである。ベルデチェフはバビイ ヤールより1週間前だったが、大量のユダヤ人ホロコウストの被害を受けている。できれば写真だけでもとっておきたかった。

ハイウエイにでて驚いた。車道が広く綺麗に舗装されていたのである。ガス ステーションは4つも5つもブランドの違うのが2キロぐらい置きにに新設されてた。ふと、ブラッドに交通機関の設備は新興国には必須の都市計画だとブッテ、彼から笑われたことのあったことを思い出した。運転するブラッドもたまげているのが手にとるように分かった。

I don't believe this ! と呟いている。

片道にレーンが二つだが、レーンの幅が広いのでハイウエイが広々としている。沿道にある町、村に入ると、後方に牧草原が広々と地平線まで見える。典型的な西ウクライナの景色だと聞いてきたが、なるほどこれがそうかと感心する。風変わりな光景を一つ、二つ。

ハイウェイの両側に電信柱が今でもあるのは、さておいて、その頂点にコウノトリの巣があるのだ。まず見たことの無い光景である。今ひとつ、道路の両側に手製の屋店がある。もちろん、ポータブルのテーブルにビン詰の果物が並んでいると言う、簡単なものである。営業税を払わなくても済むものなんだろうかと、つまらないことを心配した。

 

 

 

妙なことと言えば、今ひとつ、こんなことに気が付いた。高速街道は沿道の町々を繋いで、大草原の真中を走っている。ところが、住宅地の市街を離れると、街道の両岸に欝蒼と茂った街路樹のために、地平線のみとうしが全くできなくなる。見えるのは、前方と後方に延々と続くコールタールの車道のみ。鳥瞰図の視界が完全に遮断されていた。

街路樹は恐らく大戦中に、軍事作戦を理由に植樹されたものだろう。視野が開かれると言うことは、蓋し、軍事的には不都合なことにもなる次第である。

キエフを出るとき買い忘れたものがあって、沿道の商店に立ち寄った。英語を話すぼくらの立ち振る舞いが、地元の住民の好奇心をあおったらしい、店中の注目の的になってしまった。応対してくれた、若いセールズ レイデイはロシア語-ウクライナ語の国語以外の言葉を聞くのは生まれて初めてだといって、まるで幼児のように、ぼくらの会話に耳を澄ます。流石に遠くまで来たものだと言う実感を覚える。

車は西南を目指して制限時速を守って走る。キエフを出てから2時間ほどになるだろうか、正午を少し過ぎていた。周囲の景色がやおら変ってくるのが分かった。緑が深まり、平野は森林の海になってきた。本を読んで予習はしてきたが、ジトミル郡、古い中世ではポリシァと呼ばれた土地特有の風景であった。ジトミル市が近づくのが分る。

ブラッドのセルフォンが鳴った。テムールである。ありがたいことである。仕事をしながらぼくらのドライブに心をかけて呉れているらしい。南のポドリア地方への転向は、ジトミルの町に入ってからと思っていたところ、テムールは、ジトミルは大きな都市なので、市中に入る手前で、南に迂回したほうが時間を無駄にしなくて済むと言ってくれている。ジトミルには改めて一泊、一日がかりで帰りに取材するつもりだったから、それならばと言うことで、本道を外れて南に下った。

30分もドライブすると、一見してポドリアに入っていくのが分かった。一面の黒土からなる畑なのである。見事なひまわりの畑が地平にまで続いいる。ぼくの胸が高鳴りし始めた。この黒土は世界一豊沃で1メートルの深さにまで達すると言う。ブラッドがいうには、木の枝を手で折って、それを黒土に挿しておくと、数週間で根が生えてくるのだそうだ。まさかとは思うが、冗談だろう。「花咲じじい」の話を思い出す。「枯れ木に花を咲かせましょう」と言う次第だ。袋詰にして近郷、特にポーランドに栽培用 soil として輸出するのだそうだ。これは本当だろう。ポドリアは古代より農作物園業の天国だ。もっともそれが災いして隣国から終始侵略されてきている。

ベルデチェフの町標識が見える。バシリー グロスマンゆかりの町に到着。この町は18世紀中葉、北のジトミルを上回るほどのユダヤ人居住地として知られてきた。市の設立は14世紀の中世までのぼる。ポーランド公国、リスエニァ公国の支配下にあり、旧ロシア帝国になるのは18世紀の末、1793年の事である。ボルヒミァのヨルサレムとも呼ばれた。ハシデック派ユダヤ教温床の土地である。当然、ナチスドイツのユダヤ人壊滅の手がけとなり、バビイ ヤールより2週間早くここでウクライナ最初のホロコーストが始まり、一万八千六百四十人が旧軍事飛行場で処刑された。

ぼくの予定では帰路、ここでも一日がかりの取材をするつもりであったから、今日は昔のユダヤ人セメタリ-だけに絞って、1,2時間、休憩、写真をとることにした。墓地は直ぐ分かった。雑草の生え盛る中、1700年代から近代に到るまで、数万石の墓石が或はかびつき、或は風化し、或は倒れ、或は大樹に侵食されつつ、かろうじて面影を残している。写真1)と 写真2)を参照。

幸い昨日のような悪寒を覚えずに済む。広く奥深くはあったが、過去、妻とともに訪れてきたほかの墓地と変わらなかった。時計は午後3時を指している。後ろ髪は惹かれるが、残りは帰路のこととして、わがニッサンに入り込む。次はカリノフカ、ポドリアの土地、そこまで行けば目的地、ビニッチャは目と鼻の先である。

カリノフカの町標識を探すのに苦労した。無いのである。その代わり、町の名前を記したバスの停留所が見つかった。モザイク作りで以後、ポドリアの何処の町にもあるバス ストップである。ユダヤ教のシナゴグは無かったが、ロシア正教の協会に井戸があったのでそこで最後の、休憩、足を延ばすことにした。

カリノフカは知る人は知る、ユダヤ人村だったが、知人に頼まれて写真を少しとることにしていた。はなしは飛ぶがこの旅を終えてカリフォニァにかえると、モスコーのパービン博士からメールが届き、彼の曾おじいさん、サムエルの自伝日記が届いていた。なんとその日記には、モスコーのパービン家は一時、ビニッチァに住んでいたことがあること。驚いたのは、サムエルの息子、エビセイのお墓がこのカリノフカにあるはずだと言うことだった。

このときはそんなことは夢にも想像していなかったので、駐車した近辺の写真をとっただけで、いそいそと、終着地、ビニッチャへと向かったものだ。前から分かっておれば、エビセイのお墓を探し当てることができるはずだった。

エビッセイはソ連邦軍人将校、将来を約された、政府の要人だったが、その時代の他の政府関係者の例に漏れず、スターリンのパージ(粛清)に引っかかり銃殺になったものである。有名な1937年の事件である。知ってさえおれば、墓は確実に探し当てられていたのだから、今でも後悔されてならない。

カリノフカからビニッチァまで僅か32キロ、午後4時半、宿泊するホテル探しに、時間を割いて、明日への英気を蓄えるに、充分な時間である。

ブラッドのセルフォンがまた鳴った。案に相して、テムールではなかった。ナタ-シャの友人の父親だと言う。ブラッドは時々一人合点で物事を処分する癖があったが、そのときも、ぼくにいうのを忘れていたらしい。ナタ-シャにはビニッチャ出身の古い友達が居た。キエフではソビエットのアパートで失敗して懲りた、テムールがわざわざその友人のお父さんと言う方に連絡していたらしい。よくキエフまで出てくるひとで、テムール夫妻とも親しく友達付き合いをしているそうだ。ビニッチァでは篤志家で知られ、ぼくらのホテル探しにはもってこいの人である。その人とビニッチァの入り口で待ち合わせしていた。助かった。何処の国でもそうだが、地元で顔の利く人が居れば安全である。

セルゲイと言う名前の紳士であった。市外で待ち合わせて、彼の車の後につぃて市内に入る。ビニチィア郡の郡庁のあるところだけあって大きな都市である。同市の目抜き街に並んだホテルを軒並みに見て歩く。篤志家だけであって、ホテルのマネージャー達の腰も低い。当然ぼく達への待遇もよい。

ハイヂは仕事柄良く西欧へ旅をするので、アコモデーションの選択には慣れている。しかし流石に東欧は今回がはじめてである。外見は立派な建物なのだが、インテリアが傷んでおり、サニテーションが最悪の状態である。ナチスドイツの空爆、市街戦を経てきた町なのだから、当然ではある。まだまだ復興には時がかかるだろう。

話が飛ぶが、実はビニッチァはナチス独逸侵略の第2次大戦で、独逸軍隊の前線作戦本部になったところである。1942年の一時期、ヒットラー自身、「ウエア ウルフ」と言う塹壕の暗号名で知られる、隠れやに住んでいたこともある。当然、後、重爆のため、市はそのほとんどが戦災を蒙ることになるのだから。

とにかく、この市では最高の宿泊所だという HOTEL UKURAINE に一部屋だけハイヂの OK が取れた部屋が見つかった。三階の315号である。ブラッドには別に一部屋二階にとってやった。彼はウクライナ生まれで、条件の悪い部屋にはなれている。テムールのアパートでもキャンプ用のスリーピング バックに包まって寝ていた。ぼくらには大切な男なのだから、何処でもいいと言う彼の言葉には耳を貸さず、ちゃんとした、部屋にした。計算はしておいたが、ブラッドの部屋を含んでも、二部屋で 一晩880グリミナ、ドルにして約170ドルの安さである。朝飯ツキだった。

誤解があってはいけないので、一言、ウクライナの経済に就いて説明しておこう。為替の公定エキスチェンジは1ドル対5.3グリミナではあるが、平均の所得が月一人800グリミナ、つまりぼくには安いホテルではあっても、彼らのひと月分の収入を一日で払っている。土地の人から見れば大変な散財なのだ。だからガソリン代がぼくらには安くとも、とても一般の家庭では無駄ずかいできない価格である。ガソリンの代用品が出回ったり、交差点ではエンジンを切って、ガスの節約をするというドライブが流行る次第である。

とにかく1週間の宿泊も決まり一安心となったので、これもひとえにセルゲイ氏のおかげであるから、彼を招待してポドリア レストランでデナーをいっしょにした。キエフでもそうだったが、ここは食べ物の美味しいところである。とてもカルフォニァでは味得ないような料理を賞味させてもらった。

いよいよ明日は夢に見たハイヂの故郷、訪問である。本当にあるだろうか。どんなところだろう。

 

 

ビニッチァは南バー河のほとりにある。同河上のコストコボ橋から南岸を見る。むこう岸に見えるのがビニチア市の老舗町、ユダヤ人居住地「エルサレム街がある。
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セクション III